小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑬ ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
以降、一部暴力的な描写が含まれています。
ご了承の上、お読み進め下さい。
…ほら
まぶた。
お前のか?
まぶたの皮膚はやわらかい。
これ、…
不穏な、
お前のかよ?
やわらかさ。隠すべきものの
笑わせるなよ。…
不在がもたらす、やわらかさの
…糞。
不穏。
銃を、マイの差し出した手のひらに握らせてやった瞬間に、その眼差しが色彩も意識の気配もないままに、わずかに鮮明な認識にふれたことに、ジウは気付いた。女は、何かを見い出した。彼女自身さえ意識さえ出来ないままに。マイはいきなり引き金を引いて、ジウを吹っ飛ばした。
自分自身、その反動でチャンの足の上に倒れかかりながら。背中を打ったチャンの脛の骨格が、マイの息をつめらせえた。
銃声。
ハオは、悲鳴を上げそうになった。その、眼差しが捉えたもの。そしてマイは、しずかに、手のひらに触れたその銃器の、鉄の触感と重量を皮膚に、あるいは筋肉に、かすかに、鮮明に感じて、そして、ジウを見あげた。
そこにいたジウ。自分の眼の前に立って、微笑みながら銃を彼女に渡したその男。…だれ?
と、マイは記憶をさぐる。…あなたは、…
と。…だれだっけ?
指先に開かれたまぶたは、ただ、そこに眼球の不在を曝した。知っていた。マイは、自分がもはや微笑みかけていたのを。その、微笑みは眼の前の男にも、だれにも、眼にふれられてなどいない。なぜなら、…と。
想った。まだ、…と。わたしは、まだ、…そしてマイは、私はまだ微笑んではいないから。
そう想った。ジウは、不思議なものを見る気がした。眼の前の、ずっと、かつて銃を手にぶら下げたジウが立っていたあたりをいまだに、ジウも銃もそこに存在しているかのように見つめている女、…おれは。
その女が、
俺はここに
いきなり銃口を自分の唇に押し込んで
いるよ
咥え、そのとき彼女が不意に笑った気がした。なんの表情も、眼差しに曝されないままの、その女の気配に、そして女は引き金を引いた。空間。…たしかに、そこには空間があった。肉のような、とはいえ、肉とは言えない、粘膜のような、とは言え、かならずしも粘膜とは言い切れない、その、眼窩がそのままに曝されて、それ。
銃弾が、マイの頭部を吹っ飛ばすのを、ジウは見た。…こいつ。…
「なにしてんの?」と、笑いながら言う自分の声を、ジウは聞く。遠くに聞こえる。そんな気がした瞬間には、すでに、そんな距離感など消滅している。
女の差し出した手のひらのほうに歩みよって、そしてジウは女を見つめた。まばたく。
なんどか、ハオは瞬きながら、その開いた空間を凝視した。まぶたの先に拡がる、その、ちいさな、不在の空間の、隠しようもなくあからさまな存在。
彼女は何も見てはいない。
なにも、…と、知っていた。ハオは、その不在の眼球の向こう、彼女は休む間もなくさまざまな映像を凝視しているに違いなかった。夢とさえ言獲ない。
鮮明な現実。その体験。彼女はなにを認識しているか。
いま、と、想う。ハオは、彼女はいま、閉ざされたまぶたをやさしくこじ開けられたこの事実を、いかなる認識として見い出していたのか、その、眠っているようにしか見えない覚醒のときの中、この、今、そのさなかに、と、ジウは、マイの額に口付け手遣った。
声を立てて笑う。
額の皮膚に、自分の唇がふれた瞬間にジウは、あるいは、それでも表情一つ変えないマイが、瞬きもしない。
見ていた。マイは、自分が射殺した男が、自分の腹部に手を添えて、…てか。
言う。「…おまえ、」聴く。
なにしてくれんの?その、意味の分からない音声の連続。
耳に、そして残り続けていた銃声は自分勝手に、望んでもいないままに反芻され続けて、銃弾。
ふたつめの、自分が発砲した銃弾がもう一度眼の前の男の腹部を吹き飛ばし、向こうに****を散らしたのをマイは眼差しに確認した。ジウが笑う。
声を立てて。
自分の額に唇をふれた瞬間に、…だれ?
あなたは?「こいつ、…」
ジウは笑っていた。「馬鹿なの?」ハオは空洞を見た。
チャンの眼窩に開いているもの。「…死にたい?」
意図的に下卑たジウの笑い声が響いたとき、手のひらにつかんだ改造拳銃の、その銃口をこめかみに当てた。
マイは。
マイは息遣う自分の呼吸を確認していた。意識の遠く、向こうのほうではっきりと、鮮明に。
撃鉄が銃弾の尻を叩いた、小さな金属音がどうしようもなく鳴っただけだった。彼女が引き金を引いたときには。「まじ、…」ジウは言った。自分に向けて、自分が渡してやった銃を構え、そして、引き金をさえ引いた女に。「…こいつ。」
…ぶっ殺す、と。そう言ったときには、すでにジウは気付いていた。女に渡せば、女がする事など決まりきっている。自分を殺す、それ以外に、女の手のひらに握られた銃に為すべき事などなにもない。…知っていた。
と、…すでに。彼は想った。マイの即頭部を殴り、前の目に倒れかかりそうになったマイの顔面を膝で殴打した。その時、床に撥ねた拳銃の銃口に、不発弾は暴発した。
叫んだ。
ちいさく、短く、そのときに、マイは、自分の発砲した銃弾が眼の前の、いまだに誰だか想い出せない男をなぎ倒して仕舞ったときには。男は首の辺りを派手に吹き飛ばされて、足物との先、仏間の手前のテーブルの前に、仰向けに倒れて、よじれた首がつなげていた頭部が脇にそれたどこかを見つめていた。…あ。
と、ただ驚いた表情をだけ、その眼差しに曝して、マイはまばたく。
引き金を引いた瞬間に、彼女は自分が何をしようとしたのかを認識した。はっきりと、隠しようもなく、すでに、誰の目にも曝されていた事実。私は私を殺そうとした。
耳元に鳴った小さな金属音はすでに確認されていた。口に咥えた銃口は、なにも発砲などしなかった。…なぜ?
と、想うまでもなく、彼女は
まだ生きてるの?
聴く。耳にふれる、一瞬置いたあとに響いた
なぜ?
声。ジウの立てた笑い声。…どうしたの?
と。ハオは想った。なぜ、君は、…と。
こんなことをしたの?
「…おまえ、馬鹿?」自分の口から銃を奪い取って、眼の前の男は何の気なしにもう一度引き金を引いた。
暴発した銃弾がジウの手のひらを大きく反り返らせた直後に、マイの頭の上を掠めて銃弾は背後の窓ガラスを粉砕した。声を立てて笑った。
その声を、マイは自分の傍らに聴いた。
振り向きたそこに、座り込んだ一人の男はチャンの頬をなぜるように左手に触れ、そして右の指先は、開かれたそのまぶたの中の空間を、なぞっていた。
なににもふれえはしないままに、なにかのかたちを確認しようとしたかのように。…無意味よ。
と。
想う。
そこには何も在りはしない。眼差しの先に、眼球の不在が眼醒めている。
ハオは見つめる。息を吐き、そして、不意に自分が笑って仕舞ったことを意識した。…こいつ。
ジウが言った。「どこまで馬鹿なの?…見た?自殺しようとしたのかな、…あれ。てかさ、しくじってんの。不発弾。…うける。まじ糞」その、
まずぃくすぉ
ささやく早口な音声に、明らかな焦燥が感じられた。
振り返り見たハオの眼差しの中で、ジウはひとりだけ血走った眼差しを曝していた。
ハオが、振り返ったその一瞬の気配の震動が、マイを正気づかせたに違いなかった。一瞬、呆然とした表情を、その眼差しをまで含めて鮮明に曝したあとで、不意に、マイは叫んだ。
悲鳴とは言獲なかった。ただ、彼女は喉を渾身の力の限りに鳴らして、その音声を叫んでいた。
日本語で言うところ、《あ》に類する、その音声。若干のベトナム風の音韻がある。中部出身の彼女に固有の、それ。…ブーゲンビリア。
花々が、ハオの眼の前に広がっていた。ずっと。
ハオは振り向き様に、マイを殴打した。拳に、彼女の頬の骨格の触感が残った。
痛みと。いつでもつねに。
ハオの眼差しは咲き乱れたブーゲンビリアの花々の色彩を見つめていた。
すでに。叫び声をもはや途切れさせて、息を詰まらせた沈黙したマイの、その息遣う音響が、かすかな微弱音として耳に触れていた。…花々。
詐欺の花。
その色彩は花弁のそれではないことなどハオでさえ知っている。その花には匂いなど在りはしない。
すくなくとも、人間の嗅覚が捉えられる嗅覚は。人間の鼻のためでは在り得ないそれらの嗅覚は、ハオの存在をすべて素通りして、結局は彼に無関係にその、食指を広げていた空間の中に。
…拡がる。
微細な昆虫を身に纏いさえして。
そして、そのむらさきに近い紅の花々は、ハオに、あざやかな香気をただ、匂わせた。指先を伸ばせば、それにふれて仕舞える気がした。
眼差しの中に咲き乱れた、無際限なその花々の散乱に。
しなだれかかったマイの体温が感じられた。失心しているわけでもないのに、そして、それを装ったわけでもないのに、ハオの方にしなだれかかったマイの身体は、失心を擬態した。匂った。体臭が。血に塗れたそれ。
私は、ひざまづくようにして、あらあらしく死んでいくヴァンの、床にあお向けた身体を見つめた。
息は荒れ、肺は乱れて打っていた。そのわななきと、肺の立てた音響を聴いていた。
血が匂う気がした。実際に、匂っていたのかも知れなかった。慣れて仕舞った嗅覚はもはや、そこにその異質で在るべき匂いをさえ感じ取りはしなかった。
タオが、私を見つめている事は知っていた。壁にもたれて、私から身を守ろうとしたかのように、私から少しだけはなれて、タオは壁で息遣う。
閉められたシャッターの向こうで、ベトナム人たちの声が聴こえた。ささやき声とはいえなかった。彼らは、好き放題に彼らにとってあまりに自然な自国語の音声の音響で、閉ざされた内部の噂に耽っていた。
誰かがシャッターを蹴っ飛ばして、中をうかがう。…なに?
その瞬間に、シャッターが立てた
なにやってんの?
音響が私の
…ねぇ
耳にあざやかに残るが、
生きてる?
まばたく。私は、そしてタオを見上げた。壁際の少女。
おびえきって、容赦もなく、何かの複雑な限界に達した眼差しを、細かい震えの中に赤裸々に曝す。タオは、私を見つめようとはしない。少しだけ、私を通り過ぎた向こうを見つめた眼差しはあやうく私を迂回して、そして、ただ、眼差しには直接ふれてはいない私をだけ凝視する。
彼女の眼差しは。クイが、キッチンの裏口から入ってきた。あるいは、かつてヴィーを隔離していた、彼の離れの資料室に閉じこもっていたに違いなかった。入った瞬間には、異変を察知していたはずだった。クイは、階段の近くで立ち止まって、ただ、室内の空間を見回した。
その、ガレージを兼ねた一階正面の空間は雑然としていた。テレビがつけっぱなしに鳴っていた。その音声が、ベトナム語の音声を空間に低く撒き散らして、見る。
クイは、その眼差しに、昼下がりだというのに閉じられたシャッター。内側から下ろされた南京錠に、そして、シャッターの隙間から漏れ入る光が淡く暴き出す、人々の惨状。
死に懸けていくヴァンの傍らにひざまづいた、彼も見知った私に、それが日常的な風景であるべきそれなのか、非日常的なそれなのか、一瞬、クイはうかがうしかなかった。…なにが。
と。
何が起ったんだ?
その、彼につぶやかれるべきだった音声は、彼につぶやかれることはなかった。奇妙な失語感が、クイを襲っていた。
彼は、言葉に触れる事が出来ずに、言葉の集合に見放され、その立ち入れない周辺を迂回し続けながら、自分が吐くべき言葉を探した。
振り返って、立ちつくしたクイをその眼差しに捉えたときに、私は、はじめてそこにいたクイの存在に気付いた気がした。
クイは、たしかにすでにそこにいた。
タオは、クイを見向きもしなかった。完全に、表情を失ったクイの顔面は、ただ、むごたらしかった。壊れた顔面。戦争のせいで。英雄クイ。不意に想った。同じように表情を喪失させていたはずの私の顔は、いかにみぐるしく、むごたらしいたたずまいを赤裸々に曝しているのだろうか、と。
故意に作った微笑を、私は自分の顔の筋肉の上に確認した。私は自分の、顔面のゆがんだ傷痕をなぜた。
醜い傷痕。
私は、あるべき微笑の形態をなんども確認しながら、自分がいま、微笑んでいることを確認していた。それは場違いで、不用意な、あるべからざる表情には違いなかった。…来いよ。
立ち上がって、クイを正面から見つめていた私は言った。
あまりにも美しく、すべすべしたクイ顔に。眼、鼻、口、なにもかもが、あるべきところにしっかりと、端整に纏まった、傷一つない美しいクイ。
いまや、泣きそうな表情を、…あるいは、複雑すぎる感情のさまざまな乱反射と混濁のせいで、結局は泣きそうな表情浮かべるしかなかったクイの眼差しは、私を見つめはしなかった。…僕は、
と。
ここにいるよ
不意につぶやきそうになった自分をクイは笑う。
声を立てて。複雑で、単純なクイの曝したゆがんだ顔つきは、凝固した筋肉を引き攣らせ、こまかくわななかせながら、ただ、すべてのものから眼をそらそうとしたかのように、シャッターの向こうを凝視していた。
群がった人々が、除き見ていた。シャッターの隙間から、その無数の眼差しが、なにを見出しているか定かではないままに、空間の中に入り乱れ、…見てるよ。
クイの眼差しは
ほら、
言葉もないままに、赤裸々に
彼らに、見られてるよ
それら
見えているんだよ
彼が吐き捨てた言葉を気配としてすべて
彼らには
曝した。見苦しく、陰湿なほどに。ひざまづくようにしゃがみこみ、両手で隠した顔に、タオが泣きじゃくり続けていた事は知っていた。ずっと。
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