小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑫ ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
以降、一部暴力的な描写が含まれています。
ご了承の上、お読み進め下さい。
汗が匂う気がする。彼女が大量に噴き出したその汗、身をつつんだ張り裂けそうなピンク色のTシャツを黒ずませた大量の、…声。
彼女は泣き叫んでいる気がした。
その瞬間に、胡坐をかいて座り込み、脱臼した肩をぶら下げて左手で、足を掻き毟ったタムは喉をそりかえしながら、獣じみた男声のそれとしか想えない叫び声を上げた。
長く。いつまでも、ながく。
時間の経過を、無理やり防ぎとめてしまったかのように、時間の外側にはみ出して、ながく。駆け寄ったジウは、頭を横蹴りにしてタムをなぎ倒した。
もはや、タムに声は無い。失心したわけではない。ただ、床を舐めながら歯を、かさねあわさないままに喰い縛っているだけだった。体中を震わせながら。「どうしてだろう?」
そうつぶやいたハオの声を、私たちは聴いた。
なかば呆然としたような、その表情を欠いた声。…どうして、と。
「なにもかも壊れていくんだろう?」
ハオは階段から、手すりに乗り出すわけでもなく下を向いて、彼の下方、曝された惨状を見た。
肩を外した女が、自分のほうに顔を向けて、とはいえ、彼女はハオを見ているわけではない。見開いた目で、添えられたその左の手のひらの先に、彼女にしか見えていない風景を見る。
死にかけのヴァンの肺が咳き込んで、血を噴いた。内臓のどこかに欠損がある。体内にあふれ出た血が、その内部を満たして、終に気管にふれる。あるいは、気管の中自体が、欠損して流れ出た血に倦む。いずれにしても、私たちの眼差しは死んでいく人間と、これから死ぬかも知れない傷付いた人間たちを見た。「あんたが、全部遣ったんじゃん。」ジウが声を立てて笑った。…自業自得じゃん?
「笑わせんなよ。」言ったジウは、私に目配せして、そしてタオは眼差しを床に投げ棄てたままに、周囲の血なまぐさい風景から眼をそらしていた。
彼女は確信していた。眼差しが見留めない限りにおいて、それはすくなくともその眼差しの中に置いては存在してはいないという事実を。たとえ、彼女がその事実をすでに全身で認識していたとしても。彼女は眼差しはいまだに、何が起っているのかをは知らない。
ハオは、ややあって階段を上った。ジウがしたがった。確かに彼らは、彼らの占拠した新しい仮のアジトを検分しておく必然があった。そんな事を、ジウも、ハオも、かならずしも意識していたわけではなかった。
彼らはただ、体の惰性が強いるままに、彼らの身体を動かした。
二階には誰もいない。
三階、仏間にたどりつけば、そこに誰がいるのかは、すくなくともジウは知っている。ハオは想い出す。その、両眼を抉り出した女。その女の住処。
ハオは知っていた。その女がいつか上げた、獣じみた男声の叫び声。…想い出した。
かれは、タムが絶叫したときに、自分が真っ先にチャンのことを想い出していたことを。彼が意識しないままに。
眼差しの先に、マイが、おびえた両眼を無造作に曝していた。隠そうともせずに。チャンのベッドに腰掛けて、正面を向き、彼女はおびえ、おののく感情をあまりにも素直にその表情に、あるいは身体の気配にそのまま曝して見せながら、じっと、マイは彼らが上がってくるのを待っていたに違いなかった。その、もはやなにものをも咎めだてしない素直な眼差しに、ハオは彼女が自分を拒絶していることに気付く。…来ないで。
瞬きもしないままに、
おねがい。
涙に濡れたわけでもなく
来ないで。
おびただしく潤んだ眼差しが自分を直視するのを、ハオは見つめた。救いを求めているわけでもない。マイの眼差しは。自分が生き残ることを求め、渇望しているわけではない。なにものも、懇願などされてはいない。ただ、マイの眼差しはひたすらな鮮明さを持って、ハオたちを拒絶していた。…あたま、おかしいの。
ジウが耳元でささやきかけた。見つめた。
「こいつ、…」
ハオは。その、ジウの声に自分の耳を
「まじで、…さ。」…ね?
好き放題に淫しながら
「****てるみたいよ。」
マイだけを。ジウが、彼女の後ろに横たわったチャンのことを言っていることくらいは気付いていた。
チャンは、なにも感じ取らないままに、ベッドに身を横たえて、毛布も何もかけないままの、立て膝のふしだらにさえ見えた身体をそこに曝していた。…なに?
喉にかすれる、奇妙でどこか赤裸々な
暑いんだけど。もう、…
寝息を自分勝手に立てながらチャンは
さ。なんなの?…めちゃくちゃ
眠る。色づいた肉体。眼を醒ましたまま、彼女は
暑いんだけど。…
そこに、そして、マイの眼差しが自分をなど捉えていなかったことに、ハオは気付いた。
彼女の眼と鼻の先、至近距離に近づいた自分を、マイの眼差しは捉えてはいない。自分がそこに存在などしていない気さえした。自分をなど、すべて透過させて、マイの眼差しは鮮明な何かを見つめる。彼女が何を見い出し、何を凝視していたのか、本人にさえわかりはしない。マイ自身にさえ共有されないあざやかな視野を、彼女の眼差しは鮮明に捉えてはなさない。
伸ばされた腕が、一瞬マイの頭の上で想いあぐねて、そして、その手のひらにやさしくなぜるのを、ハオは見ていた。それ。自分の腕。
自分のてのひら。
あざやかで、眼のそらしようもない触感。
ふれた。…と、想った。ハオは、いま、…と、想う。彼女に、…ハオは、そして、いま、私は彼女にふれている。
想った。
心の中にだけ、そして、振り向けば背後、盛大な仏壇の壁にもたれたジウが、そのけばけばしいい電飾に、横殴りに上半身を染めさせて仕舞っているのを見つめた。
ハオは微笑んだ。「…あと何時間かな?」
ジウは言った。「あいつら、…《軍隊》のやつら、一斉蜂起するの、…あと、…」
「お前、知ってんじゃん。」
ハオは声を立てて笑う。…ばか?
「お前が自分でスケジュール組んだんじゃん。…細かいとこ。…ちがう?頭の中、変な虫飼い始めた?」
装われた、これ見よがしに下卑た屈辱的な笑みを、ジウの眼差しは、とはいえ、かならずしもそれは不愉快なものとしては感じられなかった。失心したわけでもないのに、遠む意識の細かい網の目の群れの向こうに、ジウは、ハオの姿を見つめている気がした。
眼を細めたジウの顔が、ハオの眼差しの中にあった。「…あと、」と。
不意に言いかけてジウは我に還り、スマートホンで時間を確認した。韓国製ではない。日本人さえもほとんど遣わない日本製。ジウは、韓国と名のつくものを、なんでもかんでも軽蔑していた。韓国と名の付くものは、なにもかもが、彼のしゃくに触るのだった。…5時間。
「9時だから。」顔を上げた、ジウの邪気のない笑い顔を見た。まるで、眼にふれたもののすべてを平等に、見境いもなく愛しつくさないではいられないかのような、その。「3時間じゃない?」
ハオの声を、ジウは聞く。「こっち、2時間後れてるから。」
は?…と、それ。
ジウが、眉間に皺を寄せ、その、曝されていた容赦もないやさしい表情を、一瞬に懐疑と不安に跡形もなく破壊して見せながら、…なにそれ?
「…時差。」
あー…
「二時間、早いの。」
ね。…あ。
「日本のほうが。日本時間の」
ん。あー…
「9時でしょ。だから、…」
ね。あー…てか、…
「…な?」
「ごめん。常識だよね、それ。」微笑む。ジウは。
眼差しの横に息吹く、かならずしも見えているわけではない窓の向こうの空が、しずかに傾き始めた気配を曝す。…ねぇ。
ジウは言う。
「なんで、こいつら、こんな目つき、してんの?」
その、自分勝手に口にこぼし始めた言葉を、「どいつも、こいつも、…」ハオは黙って聴くしかない。「みんな、…さ。」かならずしも「…ね?」聴き取ってやるわけでもなく。「犠牲者みたいな顔してんの。」
ジウは笑っていた。悪気があるわけでもなく、ただ、素直に。「あたま、おかしいでしょ。こいつら。」つぶやいた。
ジウは。そして、ハオはジウを振り返りもしなかった。マイの傍らにすわり、横向けた眼差しにハオはチャンを見つめた。
眼帯のかわりとして、彼女の眼の周りに巻きつけられた白い布地、引き裂かれた古いTシャツのきれっぱしは、しかし、彼女の落ち窪んだ不在の眼窩が、不在であることをまでは隠し通してはいない。
気になった。…どうなっているのだろう?と、ハオは、その、抉りとられた後の眼窩の現状に、興味をそそられた自分を、抑えることはできなかった。
意識されていたわけではなかった。ハオは、自分の手がその布地をはぎ取っていくのを自分の眼差しの中にだけ確認しながら、自分の興味の存在を認識した。彼はいま、その、布地をめくって、チャンの眼窩のほら穴の現状を確認することに夢中になっていた。「なにしてんの?」
ジウが言った。その声は聴こえていた。
「こいつ、…」
指先が、チャンの眼窩を巻き隠した布地にふれる。
「なにしてんの?」
確認した。ハオは。
「…ほら。」
指先はその、不穏な
「こいつ、…」
形態をなぞった。ジウは、声立てて笑った。マイが、両手を伸ばして、そして手のひらを縋るような気配さえ見せずにそのまま拡げ、…頂戴。
と。彼女が、なにを求めていたのかは、ジウは気付いていた。彼女の眼差しは、あきらかにジウが手に握っていたオートマティックの改造拳銃を見つめていた。…欲しいの?
ハオは息を飲んだ。
「こいつ、…」
指先はあきらかに、そこに
「欲しいの?」
ある決定的な欠損の存在を感じ取っていた。在るべき
「死にたがってる?」
眼球の不在の
「てか、」
存在。…そっと、
「…笑う。」
ハオは自分の指先が、そっと
「…うける。殺したがってんの?」
その布地をずらして
「俺。…」
剥ぎ取っていくのを
「…俺ら。」
見た。「…馬鹿じゃね?」ジウは笑った。
ハオは、声を立てそうになった。
閉じられたまぶたは、落ち窪んで、そこに不在で在るものが、あきらかに不在であることをだけ何の意図もなく曝していた。…ないよ。
「こいつら、」
なにも。
「頭おかしいよ」
ないよ。
「まじ糞。」笑うジウの眼差しはマイの眼差しを捉えた。なにも、懇願などしてはいなかった。ただ、自分が手にしてしかるべきものへの、当然の所有権を、主張するでもなくただ、そこに支持していた。…それ。
それは、私のものよ。
ハオはまばたく。
…ね?
指先になぜる。
…違う?
「ばっきゅー…んって、やらせてよ。」
その、閉ざされたまぶたを。ジウが、好き放題に軽蔑を曝して、ほくそ笑んで仕舞いながら、マイの鼻先に、拳銃の銃尾をひらつかせて見せたのは知っていた。ハオも。…ほら。
まぶた。
お前のか?
まぶたの皮膚はやわらかい。
これ、…
不穏な、
お前のかよ?
やわらかさ。隠すべきものの
笑わせるなよ。…
不在がもたらす、やわらかさの
…糞。
不穏。
銃を、マイの差し出した手のひらに握らせてやった瞬間に、その眼差しが色彩も意識の気配もないままに、わずかに鮮明な認識にふれたことに、ジウは気付いた。女は、何かを見い出した。彼女自身さえ意識さえ出来ないままに。マイはいきなり引き金を引いて、ジウを吹っ飛ばした。
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