小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑪ ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
以降、一部暴力的な描写が含まれています。
ご了承の上、お読み進め下さい。
…やばっ。
と、そう言ったのはジウだった。
彼の足の下で、老人は綺麗に絶命していた。いまだに、やみようのない細かな痙攣をその四肢の全体に丁寧に曝して見せながら。「…死んじゃったよね?」…こいつ。
聴き取られた、ジウのその声に、
「…お前、」と、ハオ。彼は、耐えられずに噴き出して仕舞って、「殺す気なかったの?そこまでやっといて。」
「…まさか。」つぶやく。ジウは。
ハオを振り返り見もせずに、ただ、足元のその老人の遺体にだけ眼差しを投げて、…たぶん、「間違いなく殺す気だったんじゃん?」…けど、「さ。」…まじ、…「死ぬとは想ってなかった。」
私さえもが、すでに、微笑みの中にジウを捉えていた。ただ、いつくしみ、哀れんで遣りさえしながら。老人の遺体の先に、頭を吹き飛ばされたヴァンの即死体がやわらかな日差しの直射の中に憩う。
何の動きもなく。
いまだ、ハエはたかっていはいない。「…どうする?」
ジウがささやきかける。
私に。「…もう、完全に、」耳元に、そっと、意図もなく「犯罪者じゃん?…」息を吹きかけて仕舞いながら。「ね?」早口に。「…俺たち。」
ジウの背後に、腕を打ちぬかけた老人はその眼鏡をひび割らせたままに、そこに立ちつくしかなった。ただ、茫然としさえして。茫然自失という言葉の見事な表現。
振り向きざまに、ジウは、銃口を彼の眼の前に差し出した。
そっと、いたわるように彼の皺だらけのうすい唇を押し開けて、咥えさせると、ジウは即座に引き金を引いた。
ためらいもなく。…ふざけんなよ。
ジウは罵る。ヴァンの未だに息絶えてはいない痙攣する四肢を見下ろして、…咬み付きやがった。
言って、私の目の前にヴァンに襲い掛かられたときの、手の甲の咬み傷を曝した。笑う。
私は。声を立てて笑い、「…いいじゃん。」
好きなんだろ?
「痛いのが。…お前、」…***********?
ハオさえもが、失笑を曝すしかない。見ていた。
私は。
タオの、その眼差し。ジウが乱射した機関銃が、氷屋の前にたむろしたヴァンを、ふたりの老人を、あるいはサンを、彼等を一気に掃射していくのを、…え?
と。あるいは、ん?…
なに?…その、茫然とすることさえできはなしない、ただ、見開かれた少女の眼差し。私の背後に、少しはなれたその陽だまり、彼女は立ちつくして日の光に差される。
まばたきさえもせずに、…あ、と。
その、いわば、「あ」の発声のかたちを綺麗になぞって死んでいたヴァンの死に顔を、私は見下ろしていた。足元に。*****************************************************。私は彼女を刺し殺した軍用短刀を、ハオに返そうとした。
傍らに、ハオはやさしく、私を眼差しの色彩にだけ慰めながら微笑み、彼が受け取ろうともしない短刀は、私の手のひらを滑り落ちて、コンクリートに撥ねるしかない。…ブーゲンビリア。
花々が匂った。
無際限に咲き乱れたそれら、むらさきがかった紅の花。
私はただその花々を見つめながら、息遣う。「占拠しよう。」と、いまさらハオは言った。
振り返って、私は彼の眼差しを見つめた、ハオの、不意に私に見つめ返された眼差しは、黒眼を一度かすかに震動させて、…どこを?
「ここを?」言った、私の声を聴いた。
ジウは、自分が射殺したミンの、氷が一杯に詰め込まれたアルミの巨大なボックスの傍らの死体に一瞥をくれ、「ひでぇ。…」つぶやく。
「人間、死んだら、」
…占拠?と、言った私の
「終わりだね。…もう」
問いかけに、ハオは、…え?
「どいつもこいつも、…さ。まじで」
ここを、…ハオのただ
「ねぇ、…」
私を見つめる眼差しを
「…なにこれ。なんなん?」
見た。私は。…だって、
「まじ、なんかもう、…」
さ。…ね?聴く。
「…******、…」
私は、ハオのその声
「********、…」
私を慰めるなぜるような
「…ない?違う?…もう、なんか」
声を。私は、そして、すでに
「*****てさ。…」
知っていた。私が
「まじ*」
彼に微笑み続けていたことには。「ここ、アジトにするしかなくない?」ハオは言って、終に声を立てて笑った。…でも、
「さ。…でも、」
ハナちゃんだよ。…と。「ハナちゃんがここに連れてきたんだよ。」ハオがシャッターを閉めようとしたときに、ジウは、ヴァンの未だに痙攣するままの身体の引きずり込んだ。彼女の*********************血が、筋をひいてコンクリートを、やがては御影石の床に線を引いた。
悲惨な風景だった。留保なく、眼差しに痛みだけを感じさせるその風景、私は、それをなすすべもなく見つめるしかなく、タオが私に後ろから縋りつく。
少女の体温が赤裸々に感じられ、「封鎖しよう。」
私は言った。…鍵、どこ?
つぶやく。背後のタオ、私にその華奢な手を回したタオの手のひらをなぜてやりながら、その手のひらに、…鍵。
…は、
「あります。」
…か?
と。ややあって、彼女の足元にひざまづき、彼女の顔の目線の正面に、なんどもその言葉を繰り返す私を、タオは見つめる。…かぎ。
かぎ、…は。
少女の眼差しは、閉められかけたシャッターから
は、…どこ。
混入する、背後から
かぎ、…は、…どこ。
差し込んだ日差しの中に
どこ。
淡い
です。…か?
逆光を曝して、
かぎはどこですか?…困難なのは、鍵と言う語彙に他ならないことには、私はすでに気付いていた。彼女は、自分の知らない、記憶領野のどこにも存在してはいない語彙の残像を無理やり探し、そして、私は奥に駆け出して行ったタオの後姿を見た。
ハオはシャッターを思い切り、叩き付けるように閉めた。その音響が、空間に拡がった。
騒ぎを聞きつけて、不審がったに違いないタムTâmが階段から、その太った巨体をいかにも不自由そうに揺らしながら降りてきたが、その中ほどに立ち止まって仕舞った彼女はただ、息を飲みさえもせずに、眼差しを疑問符でうずめた。
死にかけのヴァンが血に染まって、床に、あお向けて四肢を痙攣させていた。見たこともない男がひとりいた。フエがさっき連れてきたばかりの韓国人が立ちつくして、不意に降りてきた自分を見つめた。…あ。
また逢ったね。…と、そんな気のない眼差しを、とりあえずは浮かべるよりほかにする事のない男。
よく知っている男がいる。それはフエの旦那の日本人だった。彼は、一人で部屋の真ん中近くの床にひざまづいたまま、うなだれてその背後の方に、身を捩った視線を投げ棄てていた。
見知った男がふたりいた。だから、突発的な事故が侵入してきたとはいえなかった。顔見知りが、何かの必然で、何かをやっているには違いなかった。そして、彼らが何を遣っているのか、その説明などつけようもなく、タムはただ、いきなり見たこともない風景の中に放り出された気がした。
彼らに、言葉など通じるはずがなかった。彼らは異国の人種の集団にすぎない。
キッチンスペースの影からタオが駆け込んできたのを見たときに、タムは彼女に対して罵る言葉を上げようとした。
なんと、罵ってやればいいのかわからなかった。いずれにしても、彼女は言葉が通じるはずだった。一気に、執拗な懐かしさが彼女を襲って、…何してるの。
叫んだ。
タムは、そして、彼女は雪崩れるような滂沱の涙を流した。悲しみなど一切感じはしていなかったそのときに。
私は眼差しのうちに、タオが眼の前に差し出された手のひらが、しっかりと錆びかけた南京錠をつかんでいるのを認めていた。
いまだに、彼女にそれを取ってくることを命じたそのままに、誰にと言うわけでもなくひざまづいていた私に、あるいは、その、空位になって仕舞ったひざまづかれている誰かのその空間を、だれかに占領される前に急いで自分で埋めながら、彼女は私の眼の前に立つ。
タオ。…ありがとう。
これ?
私は
これでしょ?
そっとその
これ?
タオの
これなんでしょ?
手のひらをつかむ。南京錠ごと。「ありがとう」つぶやかれた私の言葉は、彼女の眼差しの中に咀嚼されて、そして、タオを微笑ませる。…どういたしまして。
Không có gì …
なんでもなくてよ。…と、私が放り投げてやった南京錠を、ジウは受け取った。「…オッケー。」
ささやく声。
ジウの。
ハオは階段をゆっくりと上って行った。彼の眼差しは、あからさまに浮かべて仕舞った、まるで犠牲者のようなその眼差しの嘆きの色彩を、隠そうとさえ出来なかった。
彼の両眼は、ただ、深い嘆きの中に目に映るもののすべて見い出すしかなかった。タムは自分に近づく男を見ていた。その、涙に濡れる眼差しのうちに。…あなたは、…と。
だれ?…その、ありきたりの言葉さえも、タムはもはや想いうかべ獲はしない。…あなたは
そこにいる
何をするの?わたしに、…と。なにを、
あなたは
するの?そんな疑いさえなにもなく、彼女は
そこにいます
彼女が彼の接近を受け入れていたことには気付いていた。男の肉体はすぐ近くにまで接近して、不意にハオが何かを殴打しようとしたかのように腕振り上げた瞬間に、なにも、叫び声さえも立てられはしなかった。
タムの口からは。身を守ろうとしたに違いない。受け入れようとしたとは言獲ない。身を捩ったタムの、階段を踏み外した身体はよろめいて、階段の手すりにもたれかかる。
一瞬、タムは私を見つめた。…ねぇ。
どうしたの?
開かれた口が、無言のままに何かをくわえ込もうとするタムは階段から身を投げた。
あるいは、堕ちた。
床に撥ねたその肥え太った巨体が、床を震動させた気がした。足元の先に、ヴァンの壊れた肺が痙攣するような息を吐いた。
一度だけ、大きく。
つぶれた濁音をさえ伴って。
タムの肩ははずれ、奇妙な、重力を感じさせない身体が、やがて、床の上にのた打ち回る凄惨を、眼差しの中に曝した。
私の、苦悶する彼女を見つめる眼差しの中に。声はなかった。肩を反対にむけてぶら下げて、口を大きく開いたままに、無言でのたうつ。
汗が匂う気がする。彼女が大量に噴き出したその汗、身をつつんだ張り裂けそうなピンク色のTシャツを黒ずませた大量の、…声。
彼女は泣き叫んでいる気がした。
その瞬間に、胡坐をかいて座り込み、脱臼した肩をぶら下げて左手で、足を掻き毟ったタムは喉をそりかえしながら、獣じみた男声のそれとしか想えない叫び声を上げた。
長く。いつまでも、ながく。
時間の経過を、無理やり防ぎとめてしまったかのように、時間の外側にはみ出して、ながく。駆け寄ったジウは、頭を横蹴りにしてタムをなぎ倒した。
もはや、タムに声は無い。失心したわけではない。ただ、床を舐めながら歯を、かさねあわさないままに喰い縛っているだけだった。体中を震わせながら。「どうしてだろう?」
そうつぶやいたハオの声を、私たちは聴いた。
なかば呆然としたような、その表情を欠いた声。…どうして、と。
「なにもかも壊れていくんだろう?」
ハオは階段から、手すりに乗り出すわけでもなく下を向いて、彼の下方、曝された惨状を見た。
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