小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑧ ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
ふたたび眼を開く。眼を開いた瞬間に、自分が眼を閉じて、転寝を曝していた事実を完全な亡き者にして、私はいま、世界が眼の前に存在している事実を実感した。
いつものように。なんども、繰返されたように。アン、…あの弟。フエの弟と、フエが殺した父親たちの部屋だった、その寝室のどちらのものかは知らないベッドの上に私は素肌を曝して横たわり、聴こえていたのは行為が終わったあとに、体を洗い流しているに違いないハオのシャワーの音響。薄いベニア板を張り合わせたドアの向こう、響く、低く、高く、飛び散り、乱れ、見い出していたもの。あお向けた私の眼差しが。
壁にさかさまにへばりついた私が薄らべったくへしおれて、血を流す。でたらめな形態。
色彩をなくた、垂れ下がったゆがみのせいで、その原型を留めない頭部のようなもの。性器のあるべきあたりのその脇、派手に開かれた蜘蛛のそれのような放射状の手足の脇に、それ。
それは、どれが手で、どれが足だったのだろう?
引っつかみ、とはいえ、なににもふれ獲もしないままに。垂れ下がる。首が、そして流れ出す血。
その鮮明な、あざやかな色彩はしずかに横向きに細く流れ出すが、ブーゲンビリア。
その花々が咲き乱れた先に、沈黙した少女が自傷していた。…自傷?
とは、かならずしも言獲ないもの。苦痛さえ、感じてはいないはずだから。千切りとられようとする左手は血に染まりながら、噴き出す血。
痛みは無い。微笑みも、なにも浮かべないままにその少女は噛み付いた、それを噛み千切ろうとしながら、曝されたのは素肌の少女のなににも穢されないままの肌だったに違いない。
眼にふれることさえ出来たならば。未生の、その少女はいまだにそのさだまらない形態を見せもせず、その姿を曝しもしないままに、私は自分を噛み千切る少女を見つめた。
知っていた。その風景。私が見出したそのブーゲンビリア、無際限に拡がったそれら花々の散乱の、方位のない中央にたたずんだその少女の、あるいは、そしてそれは私が見い出していた風景にすぎない。色彩もないままに、私はそれを見つめ続けて、…なぜ?
雨の日には
と。
花には水をやらないで
想うのだった。私は、なんども繰り返して、なんで、君は、
わたしはひとり
と
歌を歌います
私は、想う。あなたは
やさしくひびく
見ているの?
雨の日の花の
私を、
歌を
…と。その眼差し。…なにをも見出せはしないくせに。…と。見る。その、鮮明な血を流すしかない眼差し。単なるあなぼこ。穢い、…と、そう言うことさえできはしないひたすらな空洞。私は、そこで血を流していた。
色彩もないままに。「…生きてる?」
ハオが言った。シャワールームから体を吹きもせずに出てきて、「タオル、…」不意に、「…ある?」その「なんか、…」眼差しに私を見留めた瞬間に、微笑を作り、「…どうした?」
やがて彼は声を立てて笑った。…もう、
「夢も希望も在りません、…的な」邪気もない「そんな顔、…」その「…してる。」笑い声を聴いた。…痛かった?
ハオは言った。「慣れてるでしょ?」
なんか、…「大丈夫?」
…ね。「痛いの、…」体、…さ。「好き?」拭きたいんだけどさ、…「…むしろ。」なんか、…「…てか、」さ。
「タオル的なもの、あったりする?」そう言ったときには、ハオはすでに、ハンガーに吊り下げられていたままのアンか、ダットかのTシャツの束で無造作に体の水滴をふき取り始め、やがて放り投げられたそれらは床の上に撥ねて、打ち棄てられるままに任された。ハオは、上半身の女性の流線型と、下半身の、毛むくじゃらの男性を曝す。好き放題に。かならずしも見せ付ける意図さえもなく。
眼差しに見い出されたその上半身の流線型は、その文字通り流れ落ちるようなわななきもしない綺麗な静寂とすこしの微弱音を曲線に曝しながら、あきらかに乳房のふくらみはその均衡を破壊していた。乳房の存在は、どうしようもなくその一糸乱れない形態の流れをだいなしにして、無様に膨張し、垂れ下がる。そんなものが、性欲の、誘惑の用を成していいわけがなく、なし獲る必然などなにもないこと明白だった。それは単なるいびつな、形態の失策にすぎない。そして、その失策がない限り、その流線型はただ美しいばかりで、性欲に堕す可能性などないに等しかった。
意味もなく、微笑んでいた私の眼差しの、かすかな自虐には気付きもしないで、「…びっくりもしなかった。」ハオは言う。「こんなふうに、…んー…」単なる「…体。」独白として。「俺の体、」あくまでその声がふれる「こんなふうになっていく、…」私の耳を「何歳だったっけな?」意識していながら。「十二歳とか?…小学校の身体検査の時には、まぁ、…ね。あきらかに他の男の子と違うわけじゃん?…まぁ、いいか、と。仕方ないじゃん。十三歳くらいになるとさ、…あきらかに女なんだけど。」
「いじめられたの?」
「…まさか。…俺に、なにも言わせないよ。…わかる?」振り向き見たハオの「半殺し。…なんかあったら、」眼差しは「半殺し。…以上。」微笑む。
…ねぇ、と。声を立てて笑った私に、釣られたハオもいつか、笑って仕舞っていたのだが、「水泳の授業は、先生に無理やり休みにさせられたけどね。…なんか、そういうの、差別っていたっりしないもん?大丈夫?学校の先生の頭の中って。」
「自分で自分に発情とかすんの?」
「まさか。」
「でも、…でもさ。」
「なに?」
「いいじゃん。自分で、自分の他人の体見ながら自分でするの。自分の他人の体、慰めてやって。」…すさんでるね。
と、言ってハオがもう一度笑う、鼻にかかった「その発想。…」その「…ね。」笑い声を「ハナちゃん、…」聴く。「…病んでる?」
私はにやつきながら、ハオを眺め遣っていた。…笑い声。
自分の鼻に立てる笑い声とぶつかりもせずに、空間に乱れるそれら。音響。…ジウは?
ジウ?
…ジウ。
ん?
…あいつ、…
「は?」
…ジウ。「あー…」
ジウは?「…って。」
「…ほら。」あいつ、…「ジウは?」と、言った私にハオは、一瞬、秘密の悪さを見つかった瞬間のような、そんな子供じみた戸惑いの表情を曝して、やがて、「…ね?」
あいつ、…「ね。」つぶやく。「探しにいこうか。」
ややあって、微笑みながら。私を見つめ、…ね?
言うのだった。「ハナちゃん、…服着たら?」自分の素肌はいまだ、私の目の前に曝したままに。
ジウを見つけ出すのにわけはなかった。ジウはフエの家を出た先、ブーゲンビリアの樹木の向こうに見える市場の前の路上に立って、現地のベトナム人の男をひざまづかせていた。周囲に、距離をとって群がったまばらな人だかりができていた。
日差しの下で、縄に縛られたわけでもないその男は苦労して後ろ手に両手を廻して、のけぞった顎をジウに向けた。鼻の頭に反射光の一瞬の白濁が生じた。自傷した方の手に、ジウは拳銃を握って、その日焼けした30代の男の眉間のすれすれに銃口を定めて、ただ、彼はにやついていた。彼等の周囲は、奇妙に、不穏なまでにしずかだった。
私たちに気付いたジウは、顔を向けもせずにその眼差しをだけ、そっと、気配も感じさせずに移行させて、そして、不意にジウが微笑む。やさしく、…あれ?
来たの?…
まじだ…そんな。
周囲、離れたところに女たち、老人たち、それら二十人ばかりの人々がそれぞれに立ちつくして、ただ、ジウの暴行を見守っていた。彼らの眼差しに、戸惑いはなかった。ただ、なにが起きたのかわからないままに、何が起るのかを見い出そうとしていたのだった。眉間は一様にしかめられていて、私の眼差しに、その曝された一様さは彼らがまったく、同じ生き物の違う個体であることを改めて認識させた。間違いなく、彼らはそれぞれに、それぞれの流儀でヒトだった。
ジウはほくそ笑むような笑い声をもう一度作って、…ねぇ。
言った。「こいつ、ぶっ殺してもいい?」
私たちに振り向きもしないその声は、ジウが誰に言ったものだったのか、その所在をあかさないままに、それはふと、私に笑い出したくなるような滑稽さを感じさせた。
私にとって、遠巻きの日陰に群がった人々は、だれもが多かれ少なかれ知った顔ではあった。《盗賊たち》が火を放って廻ったその町の焼け跡は未だにそのクンクリートの壁面一杯に黒ずんだ痕跡を曝していて、それらの家の前、路面にまで瓦礫はいまだ手付かずに投げ出されたままに、あるいは、手の打ちようがないのかも知れない。
彼らには。いま、彼が眼に触れさせているものに対して。彼らは、彼が眼にしているものが一体なんなのかわからない。だから、彼等になにも為し獲ることはない。ただ、見つめることしか。
だから、ジウのしでかした事はいまだに犯罪ではなかった。だれにも暴力として認定されてはいないのだから。暴力でさえなく、犯罪あるいは暴力以前の、なにか、繊細でかたちをなさない曖昧な行為だったに違いない。
彼らは見つめる。私と同じように。ハオと、そして、私たちは結局、ジウが何をしているのか知らないままに、なにが起っているのか、私たちはなにもいまだに認識していない。…くそ。
と。…まじ、くそ。
…く、すぉ
「まじ、糞。」ハオを振り向き見たジウは言った。「こいつ、あたまおかしいの?なんか、障害あんの?…あってもいいけど。ぶっ殺すからね。糞だからね。…こいつ」
長身のジウと、その
「まじむかつく。」
長身の韓国人に銃口を向けられてひざまづいた背の低く、痩せみの男とのかたちづくった形態は、明らかに支配されたものと蹂躙するものとの形態をだけ、意図もしないままに曝していた。あまりにも戯画化されすぎた植民地主義的な暴力の、あからさますぎるその形態に、私は声を立てて笑いそうになりながら、「どうしたの?」表情もないハオの声を聴く。
耳元の至近距離に鳴らされたそれ。
「…てか、」
優しい声。
「なにやってんの?」
…こいつさ。…「ね?」わかる?「そこの喫茶店?」みたいな?「き、」…きったない「き、」…なんか、あるじゃん。「…ま。」そこの、「まじ、」おっさん座ってる「ま、」貧乏くっさい「ま。」さ。「っじ。…てか」まじ臭いさ。「糞」こいつ、…「まじ糞」おれ、歩いてたの。…なんかさ。いてぇじゃん。いたくはねぇけど、あるじゃん。感覚?…的な。けがしてんじゃん。俺。不幸なんじゃん?「まじ糞」見てんの。こいつ。ずぅー…っと。「ま。」…ず「まじ、…」ぅー…ず「ま。…」うー…っと、「こいつ、」ず、「まっ、…」…っと、…さ。「まじずっと、こいつ見てるからさ。」へらついてんの?「こいつ、」へらへら、「人の、…」…さ。まじ。「俺のな?」へらってんの。「ね?」へらへらだよ?「俺の顔見て、」へらだぜ。「まじ糞。」へら。「まじ、」うける。「…ま。」まじ死にそう。「なに見てんのこいつ。」まじうける。「馬鹿にしてる?」まじ殺す。「こいつ糞?」…あたまん中、腐ってる?
「お前が?」と、言ってハオは唐突に笑い始めた。「…から、さ。だからさ。俺、こいつ蹴り上げて遣ったの。頭。とび蹴り的な?まじ糞じゃん?とび蹴りじゃないけど。普通に蹴っただけだけどさ。それはそれじゃん?こいつ座ってたからさ。ちょうど綺麗に入ったけどね。てか、むしろ綺麗に入れてやったけどね。…もう、なんか糞。こいつ、…なんすか?的な。まじ、なんすかなんなんすか的な?…くっそだからね。こいつ。むかついたから威嚇してんの。…どうしてやろうかと想ってさ。」
「お前、怪我、大丈夫?」と、不意について出た私の言葉を私は笑い、「まじ、殺っちゃっていいすか?…こいつ。」振り向いていったジウの微笑んだ顔に邪気はない。
ただ、夕方に近くなり始めた、いまだ高い日差しはジウと、その男を直射していた。
アスファルトの路面に、影が落ちた。濃くは無い。ただ、鮮明なだけだ。その、明確な輪郭線さえも刻みはしないままに。
バイクが何台か、通り過ぎる。
…え?
不意に
なに?
眼差しをこちらに投げて
どうしたの?
通り過ぎる速度は、彼らに何の判断をも与えない。ただ、私たちを迂回していくしかない。
私の眼差しは、そしてすでに気付いていた。通りの向こう、自分勝手にわめき散らすジウの横顔の向う、すこし離れたところの街路樹の陰、その道の尽きるまででこぼこしてつづく日陰に女がバイクを止めていた。
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