小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説④ ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
すでに、ハオと話すべき事など何もなかった。何もかも、時間も、空間さえも持て余されて、私は彼がさっさと立ち去ってくれることを望み、彼だって同じはずで、そして、ふたりはそのきっかけさえも失っていた。むしろ、…あれ?
知ってる
と。
ぼくは
…なんだ。
知っている。ぼくの
そう
きみの
来てたんだ…
すべてを
と、そう眼を醒ました慶輔が言って、声を立てもせずに微笑んで、その微笑とはうらはらな、面倒くさがっているだけの暗い感情を眼差しに曝すのを、私は待っていた。
「なにを?」…え?と。
私の問いかけに、自分の口にしたばかりの言葉さえ忘れていたハオは一瞬と惑って、「なに?」…え?「ハナちゃん、…」さ、…ね、「なに?」
「なにが言いたいの?」私は言った。ハオは声を立てて笑った。…なにも。
そうつぶやき、ほんのちょっとの沈黙のうちに私を見つめた後で、微笑み。「ね。て…」やさしく、いつくしみ、その限りにおいてどこか、私に対する、いわば下等な生き物への慈愛を感じさせたそれ。「な、…」ハオの微笑み。…違う。
「ぁーん、…」
想う。私は。…あなたが、…
「にも。」
と。違う。私は、あなたが、と、
「…なにも」
下等な、…
「…な、あぁーん、にも」
想っているような、そんな、
「…違う。…ん、」
あなたが、…下等な、
「だよ、…ね。」
いつくしまれなければならない
「違うんだよね。…なにも、」
違う。…では、ない。私は、…
「言いたくない。」
と、私はあなたが想っているような慈愛を与えて遣らなければならない下等な生き物ではない。…知ってる?
「なに?」
私の声を、耳に感じた瞬間にハオは声を立てて笑って、…いつもしてるんでしょ?
「なにを?」
愉しいこと。
「なに?」
慶輔さんと。言った、ハオの眼差しはただ、眼にふれるものすべてに対する軽蔑と、いつくしみしか感じられない。ハオはやさしい。その、眼差しは。すくなくとも、今は。「…してよ。」
と。
ハオは言った。私の方に擦り寄ろうともせずに、眠る慶輔の傍らに床の上、くずれた胡坐をかいて座ったままに。…ね?
「してよ。…俺にも」てか、…むしろ「俺?」
笑う。もう一度、声を立てて、ハオは「むしろ俺?」…が、…さ。「…か?」
聴き取る。私は、ハオの
よう、…か?
声。その
て、ようか?
散乱。聴こえてはすぐさま
あげ、…よう…
消えていく、もはや
し、…て
儚いとも言獲ない
して、あげ、…
それら。
「してあげようか?」私はすでに同意していた。フエの寝息が聴こえた。空間の下のほう、ベッドの上で、苦悶の表情をいつものようにただ、曝す女。彼がそれを促した気がした。私はハオの腕からもがいて解かれ、そのシャツを脱がしていくのにハオはもはや抗いはしない。美しい曲線。流線型というよりも、もっと、惨めでたるんだもの。ハオの女性。それに、私は顔をうずめて、匂う。
花々。…ブーゲンビリアの花々。「…欲しい?」
ハオが、それを望んでいる事は知っていた。私は、彼の望みをかなえてやらなければならなかった。ハオは、私に望まれるままにその肌を曝して、脱がされた下半身に、ハオはその男性を曝した。「…どうして欲しいの?」
と、私が彼の足元にひざまづいて、ハオのそれを鼻先に見つめた瞬間に彼が口にこぼした言葉が、私になぜか反芻された。
「何が欲しい?」
ハオは言った。…ねぇ、と。
「なんで、」…
さ。…ね?…声。
その、ハオの声に私にはもういちど、視界にハオを捉えて、…なにを?
「ハナちゃん、…さ。なんで、…」
何を見ていたの?
「もう、…」
ぼくは
「ね?」
なにを
「なんで、…もう」
見ていたの?
「…泣かないで。」つぶやいた、ハオの声に私は自分が涙を流していることに気付く。ふたたび。ハオの、鼻にかかった笑い声が聴こえた。邪気もなく。なにもかも、その気もないままに軽蔑しないではいられない、その、そして私が曝す表情。ハオは私の、声を忍びながら笑い続けて表情を、困惑を示すでもなく、ただ、見つめるしかなかった。
花。
私は匂っていた。
それら、芳香。…匂い。
花。ブーゲンビリアの。それ。
それら、…その色彩。
むらさきに近い紅の、そして、気配。
感じられ続ける気配。私は血を流していた。
背後。
見い出せはしないその眼差しの背後で、空間にたたずんで、ひざまづき、ただ敬虔に、すべてをささげて最後に祈るような形態を曝しながら、その色彩のない翳りはなにものにもひざまづきもせず、祈りの言葉などなにも口にはしなかったことなど知っている。でたらめに折れ曲がった体躯。下に垂れ下がった頭部はもはや下腹部の下にしかれて意味をなさない。ひん曲がったどちらかの片足の、首の先から生えた一本がひらべったく胸を張って、それは祈りを捧げる胸元の両腕のようにしか見獲ない。不在の頭部にふれ獲ないまま、長くのびた首がとぐろを巻いて、やがては垂れ下がって、地面に突き刺さっていた。
廃墟。
見渡すばかりの廃墟。この町。ダナン市。もともとが廃墟のような町だった。観光用に整備された区画から一歩でも入れば。そこが、たとえ現地の人間、たとえばフエの眼差しにとっては人々が生き生きと生活を営む生々しい命の現場だったとしても。私の眼差しのなかで、そこは壊れかけの、でたらめな廃墟であるにすぎない。
その町。そこが本当に滅びて仕舞ったあとで、眼差しは気付く。廃墟のようであることと、廃墟そのもであることとの絶対的な差異。
人々の殆どは死に絶えて、すべては手遅れだった。元に戻すことなど、絶対にできはしないのだった。もはや、廃墟を再生するためにはそれを完全に破壊し、無にし、なかったことにしてやらなければならない。なにものも、とりもどされ獲るものなどありはしない。
眼差しの背後の、その私は沈黙したままに血を流す。その周囲、縦に、放射状に、でたらめな場所から細い血の線を無数、噴き出させて、音もなく、そして、声もなく笑って仕舞いそうになった私が、その自分の声を押しとめたのは、私に寄り添ってしがみつく、寒さにふるえるタオを、おののかせたくなかったからにすぎない。知っていた。
雪。もうすぐ、と、今日も…降る。想った。私は。その、眼差しが捉える一面の、雪に埋もれた廃墟のなかに、雪間の一瞬に、外に出た私たち、…寄り添いあうしかないもの。
タオは、私に甘えた。寒ささえも、彼女にとっては口実だったのに違いない。私に甘え、そして、自分が私に愛されていることの、この、男。日本から来た、中国人の男に愛されていることの。…むせる。
もはや、むせかえりそうになる。匂いに。
タオの体臭、…あるいは、そして、匂い。
花々の匂いに。ブーゲンビリア、それら、匂い立つ花々。…見せて、と。
ハオが私の耳元にそうつぶやいて、「何を?」と、言った私にハオはただ鼻にかかった笑い声をちいさく立てただけだった。…ハナちゃんが、…「…さ。」
ね?
「…俺に愛された証拠。」声を立てて笑う。ハオは、もはや自分の言葉を言い終わるまで待てもしないで、そこ。ふたつめの居間。
ジウが出て行ったまま明け開かれたシャッター。そして、その先の逆光に侵入する陽光の投げかけた、床の上へのさまざまなものの形の反映。白濁した光の影。…いいよ。
「見たいの?」
いいよ、好きに…
「ばか?…お前、」
して、いい…好き
「まじで、…お前、」
に、して、いいよ、…いい…
「…てか、」
ね?…
「馬鹿?」それら、私の言葉の群れの、途切れ途切れのそれら、散乱。…を、ハオは瞬きもせずにソファーの上、うつぶせに身を沈めた私の体の上に覆いかぶさったままに、感じられていた。体温。私に無造作に身を預けた彼の。そしてハオが体内にいまだ突き刺さっていたものを、ゆっくりと引き抜いていくその触感を「…痛い?」感じていた。
私は。「ごめん、…」言う。
「痛くない?」ハオは。聴く。それ、…私は、耳元にささやかれるハオの声を。
息。…声?…では、なくてむしろ、吹きかけられるかすかな息遣い。その、息。音声機能をさえともったそれ。…大丈夫、と、言いさえもせずに、私は首を振るでもない。ハオは、私の答えなど求めては居ない。彼はすでにその体で知っている。彼の、私の内臓の一番先端に、…あるいは末端に、差し込まれたそれの触感が、私が痛がってなどいないことをすでに彼に伝えていた。
痛みなどにはなり獲ない違和感が目醒め続けていて、そしてそれは、あるいは快感に近いのかも知れない。かならずしも、快感に溺れたかったわけでもなかった。
身を起こし、離れていくハオの皮膚の不在を感じ始めた肌は、不意にふれた外気にただ、孤独をだけ感じる。皮膚のそれぞれの表皮の、それぞれの場所に、それぞれに目覚めた、それら、ひとつらなりの孤独の息吹き。
私の曝された**に身を曲げて、顔を覗き込もうとしたハオのために、私は彼の眼の前に*を突き出してやった。差し込まれる指先が、彼が私の**に残したものを掻き出そうとした。**************。不意に、ふたたび、ちいさく邪気もなく笑って仕舞ったハオの、その理由には私は気付かない。…花々。
ブーゲンビリア。
音。…鳴り響く、…と、そういえば派手な嘘をついたことになる、瀟洒で、壊れやすく、繊細で、ナイーブなその音響。
群がって、私を喰っていく音響。…ね?
と。
「…好きだよ。」と、それ、そんな言葉があったわけでもなくハオに求められるままに、私は彼を抱き、その間中には、たしかに彼への愛があった。
私の感情の中に。…あの、…それ。
あの逆光。窓越しの、そして白い壁。渋谷の部屋の中で。ハオは言った。…どっち?
「女のわたし?…男の俺?」早口にささやき、噴き出して笑い、その声。自分をも含めて、眼に映るものすべて軽蔑したやさしげな声。「ね?」
どっち…「…ハナちゃん。選んで。」
「どっちも。」耳たぶを舐めてやった私に、身を捩りながらハオは
あー…
《あ》音の
あ、あー…
ながい音を立てた。戯れに、その喉に。
私にもたれかかり、縋りつくように腕を廻したままにハオは私のシャツを脱がせて、ふれあう。肌に、ハオの息遣いがじかにかかり、私は感じていた。ハオも、その首に、頬に、時には額、髪の毛の先にさえも、私の吐いた息のふれたその触感以前のかすかな息吹きを感じているに違いないことを。
戯れに、床の上にあお向けた私の眼の前で、私にまたがりながらハオは、そのあまりにも女性的な上半身の曲線をのけぞらせて、誇示してみ、終には堪えらずに声を立てて笑う、あの時も、と、想う。私は。不意に、私は。そして想い出していた。私は。その時もハオと私は、お互いの中に無防備に**して、そして、*********私の、****************。
ハオの指先は確認した。そして、その指先には感じ取られていた。私に、その触感。私の体内にじかにふれたハオの、それ。…何してるの?
と、振り向きもせずにつぶやいた私の声に、「なに?」
何してるの?
「…え?」ハオが微笑んでいる事は知っていた。背後、眼差しが捉えない、肌と肌のふれあうそこで、「…ねぇ」ささやいた。
身を曲げたハオは、後ろから私に覆い被さって、…どう?
いたずらに、鼻息をかすかにわななかせて仕舞いながら、「どう想う?」
…自分の匂い、と、ハオの言葉が吐かれる前に、すでに私の鼻先に突きつけられた、その指先は匂いを立てた。身を捩って、顔を背ける私に、ハオがやさしい笑い声をくれ、…ね?
「…見える?」
言った。
ハオの眼差しが、何を捉えているのか、身を閉じて丸まった私に確認することなど出来ない。…なにが?
その、口にはしなかった私の言葉の存在に気付きもしないままに、「見えるよ。」…あそこ、「ハナちゃん。…」聴いていた。
私はハオの声だけを。「血を、流してる。」
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