小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説③ ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
雨に打たれる
しずかにただ、
ブーゲンビリアの
寝息を立てる、彼女
その花々の
フエの
匂いを
ままぶたは
嗅いだ
まばたきさえせずに
微笑んでもはや
とじられたまま
恍惚とさえして
つぶやく。「…行こう」
と。…だれが?
私が。だれが…と、想った。私は。その、自分の声を聴いた瞬間に。その、聴いた事もない気がした、その声に、言ったの?…
いま。
…だれが?と、…オッケー。そう言って、ハオは笑った。…で。
と。で、…
「どこへ?」言って、振り返った私が曝す軽蔑交じりのかるい笑みを、ハオは見つめ、伺うような眼差しをただ、私に見せ付けるのだが、…んー。
「そ、…」だね。そう…「だ、…」ね?
微笑みは、ハオの表情に張り付いたままに、すでにその感情的な正当性などどこにもありはしない。…ま。
「ね?」…まー…「地の果てへでも?」
…と。そう言ったハオの腕が、私を抱き締めるがままに私はまかせた。私たちは、抱き締めあっていた。…そうとは言えない。一方的にまわされたハオの腕だけが、私を彼に抱いていたのだから。私の両腕は脱力されたままに、ただ、垂らされて、薄暗い空間の中、背後の向こうの仏間のドアの隙間が漏らす細い光の侵入に、じかにふれられていた温度のかすかな息吹きをだけ感じていた。あたたくさえもない。
私の、彼の胸元に預けた顔の、すこしだけ横向きの唇がときに、吐く息はハオの肌の、どこかしらにはふれて仕舞っているに違いなかった。ハオを、かならずしも愛しているわけではなかった。それは彼だって同じことだった。とはいえ、私たちは、鼓動どころか呼吸さえかさなりあわないままに、同じ時間と空間の共有を、意識しないままに心のどこかでむさぼっていた。軽くハオの鎖骨に触れた耳たぶは、その堅い骨となめらかな皮膚の触感を味わわされながら、もっと、すこしでも耳を押し付けさえすれば彼の体内の、鼓動の、あるいは呼吸の、それらの音響をさえ捉えてしまうはずだった。…なにを?
してるの?
戯れに、彼女の腹部に耳を押しあてて、その体内の音響を聞いたときフエは、鼻にだけ声を立てて笑いながら、そう言ったものだった。…やわらかな触感。
私の首筋から胸元にかけて、明確に感じ取られていたハオの、豊かに息づかせた乳房の触感が、ただやさしく私をなぜか、理由もないままに慰めていた。まるで、そうしろ、…と。
お前は所詮は哺乳動物にすぎないのだという、その、単なる当たり前の事実を、耳元に教え諭される気さえした。声も立てずに笑っている、私のそんな自分勝手な気配を、ハオは理解などできないままに、そして、だからこそかすかで繊細な戸惑いを匂わせるのだが、なでる。
ハオの手のひらが私の頭をなぜて、その触感に気付いた私が不意に、驚いて彼を見つめた、その上目遣いの眼差しにハオは一度、一瞬だけまばたいてみせる。…泣かないで。
と。なぜ、そんな、ありもしないことを想ったのだろう。私は。形骸化して仕舞った微笑を頬と、口元と、眼差しに張り付かせたままに、涙の気配など、あるいは必然などなにもない渇いたハオのまなざしに、…ね?
泣かないで。
言った。美紗子は。
初めて彼女に抱かれたその次の朝に、ダイニングに降りて私のためだけの朝食を用意していた美紗子の後姿を見たときに、そのキッチンスペースの小さな通風窓のガラス越しの光。
父親はいない。もう、そこには。いつも朝早く出て行くから。朝、彼と顔を合わしたことなどほとんどもない。…想っていた。私は。前の夜に、美紗子に縋りつくように抱き締めれたままで、彼女の頭の上、頭髪に吹きかけられてたてられていた寝息を聴き、感じ取り、味わわされながら、私に考えられていたのは告白。私は、父にその夜のことを告白する気だった。ぼくは…と。その朝に。穢いです。朝の…どうしようもなく。日差し、その…ぼくはどうしようもなく。鮮明な日差し、…穢いです。ぼくは、…と。
知っていますか?
お母さんを
僕は
**しました。
虐殺されなければならない
いま、すぐに
あなたの息子です
殺してください。
清冽な日差しの窓越しの直射の中で。父親に会えるはずもなかった。美紗子が起きてから出なくては、私にベッドを出る自由などない。美紗子に禁じられていたわけではない。にもかかわらず、それは禁じられた行為だった。…ほら。
と。私は、呼びかけられて不意に振り向いた父に、告げるはずだった。…あなたは、…
そして
僕を殺さなければなりません。なぜなら
父は、私をただ
僕は留保なき犯罪者だから
軽蔑とともに見い出し、…朝の屠殺。父の眼差しが、朝の光の容赦ないあかるさの中に見い出したちいさな惨殺死体。私は死んだ。残虐な暴行の果てに。殴られ、蹴り上げられ、我を忘れた大人の肉体の暴力の前に、子供のひよわな途上の身体などひとたまりもなかった。階段の脇で、美紗子がおののきながら立ちすくみ、その屠殺行為を見ている事は知っていた。気づいていた。わななく、ときに痙攣を曝す彼女の身体。想った。…なぜ?
と、そして、気付く…
なぜ
僕は、…と、私はすでに、穢いから。気付いていた。
あなたは、
私は鮮明に、僕は、…と
ぼくを
死ぬ資格さえない穢れた
助けてくれないの?
壊れ物だから、あなたは僕を助けはしない。なにかが壊れた滂沱の涙をだけただ噴き出して、泣き叫びさえずに不安定な息を吐いてばかりいる美紗子の眼の前で、私は私が肉体の残骸に成り果てていったことを知っている。最後に、たたきつけられたサッシが外れて、私のすでに鼻血と内出血と内臓出血にまみれていたはずの肉体ごと庭にたたきつけられたときに、刺し貫いたもの。
私の喉と、顔の半分と片目。
左の。それ、割れた窓ガラスの、その、鋭利な先端。失心しながら、私は見い出していた。花々。
ブーゲンビリアの花々。容赦もない、その芳香。…美しい。と。そう、留保なくつぶやく。すでに失心し、あるいはすでにまともな機能などなにも果たしはしない脳が。ちいさく。小声で。…美しい。
この美しい世界
それだけ。耳は聴いていた。後れて。ガラスが複雑に割れて立てた、
あまりも美しく、ただひたすらに
その、
甘美なるこの世界
痛いだけの音響。神経の絶叫を聴き取るすべなど、脳にはもはや存在しない。
鳴り止まない賛美の声
まばたく。
栄光の音響
私は
ただ無限に湛えられるためだけに存在する至上のこの世界
まばたき、振り返った美紗子が見い出しているのがなにか、私は知っていた。不意に、その表情を、…あ。
と、その、私の存在。彼女の後姿を見つめていた私の存在に気付いたままに、微笑もうとしたその瞬間の、かたちをなすわけでもない表情をただ曝して、凍りつかせ、あるいは停滞させて、…泣かないで。
やがて美紗子はそう言った。「…どうしたの?」て、その言葉を吐きさえもせずに、なぜ?
泣いていたから。私はすでに、彼女の姿を眼差しに捉えた瞬間にもはや、私はしゃくりあげながら号泣していて、泣き声さえも聴こえなかった。耳は、私の泣き声をなど捉えようもなかった。私は、一切の声をなど立ててはいなかったから。
私は知っていた。なにがかなしいわけでもなく、ただ、私は追い詰められていた。自分の、あるいは美紗子の、または、美紗子と私がしでかしたことが、かならずしも悪いことだと言う実感など何もなかった。私には、私が泣き叫ばなかければならない必然性が、どうしても理解できないままに、だから、声をなど失って仕舞わざるを獲なかった。私は泣き叫んでいた。
ただ、かすかに乱れた息を吐くだけで。
ときに、少女じみた過呼吸の発作を起こす私に、父親は倦んでいた。その、ときに、…ほんの時々、彼が私に投げかける一瞬の眼差しに、…知ってる?
と、そのつぶやき声が聞こえた。…お前は。
「お前は失敗作なんだよ、…」と。それ。
声。
私は聴く。それらの声、眼差しの中に、鮮明に反響する声の群れ。音色のない声。すでに死んだ私。あるいは、怒り狂った父に、赦し獲ない犯罪者の烙印を押されて、血まみれの折檻の中に扼殺された私。私は、そして、…ねぇ。
想った。殺してくれたらいいのに、と、私は、父の背中、首筋、腕、…二の腕、手の甲、足。それは太い。あるいは短く刈られた頭髪。それら、彼のそれらが眼にふれるたびに、想った。…どうして?
見た?
殺してくれたいいのに、と。
あなたは、わたしが
あなたがそれをただ、
最期のときに
それだけを望んでいるのなら
立てた、その
いますぐに
悲鳴
…ね?ハオの胸の中に、ふたりの体温がこもる。感じられている温度が、それはハオのそれとしか感じ取れないにもかかわらず、かならずしもハオのそれであるだけでは在り獲ないことになど気付いている。その籠った温度の中には、あきらかに私の体温も目醒めていた。屈辱?…の、ような。
そんな、どうしようもなく惨めな実感に倦み、彼の背中にしがみついた私の両腕は、彼に、私の鮮明な、隠しようもないハオへの発情を伝えたに違いなかった。
ハオは、私を赦すしかなかった。
ハオの指先が私の背中をなぜた後で、顎の線を這って、そして、上向かせられた私の眼差しはハオを見つめていたのだが、…ね。
聴く。ハオの、その、ちいさく鼻の奥、唇の先にふれて堕ちた音声。…ね?
ん、…と、言った私の声は、彼への同意だったに違いない。何を赦し、何に同意するわけでもなく、私はハオを受け入れる。そのシャツの下に、どんなものが秘められているのかは、すでにもう知っている。初めて、十何年もまえにあの、ビル放火のあとの日曜日に、私と慶輔の渋谷のマンションを訪ねたハオが、すでにそれを曝していた。
慶輔が眠って仕舞っていたソファの向こう、窓越しの朝の光。その逆光の中で、…知ってる?
ハナちゃん、…と、その部屋の隅の窓際、慶輔の足元の床に座り込んだハオの逆光、眼差し。…し、…
「し、…」
死、…
詩、…
市、…
視、…
師、…
四、…
「知ってる?」
不意にハオはそう言ったのだった。何かを企んだ眼差しを唐突に曝して、…ねぇ「ハナちゃん、…さ。」ね?…「知ってた?」
すでに、ハオと話すべき事など何もなかった。何もかも、時間も、空間さえも持て余されて、私は彼がさっさと立ち去ってくれることを望み、彼だって同じはずで、そして、ふたりはそのきっかけさえも失っていた。むしろ、…あれ?
知ってる
と。
ぼくは
…なんだ。
知っている。ぼくの
そう
きみの
来てたんだ…
すべてを
と、そう眼を醒ました慶輔が言って、声を立てもせずに微笑んで、その微笑とはうらはらな、面倒くさがっているだけの暗い感情を眼差しに曝すのを、私は待っていた。
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