小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説① ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
序
ふかく息を吸い込む。
吐いて、そして、いちどだけ短く呼吸を止めてみたものの、すぐに肺は息を吸い込んで仕舞う。
眼差しの先に、穏かな午後の日差しが在った。それに対してとやかく言うすべはない。フエは、素肌を曝したままに寝室のベッドの上で、眠り、その苦悶。いつもの。…苦しくて、…と。
もう…
仕方がないのよ。
死んで
もう…苦しくて。
…仕舞いたい
お願い。
このまま、
助けて…ねぇ…
いま
だれか
すぐに
ね?
わたしは
助けて…と、その、いつも眠るフエが曝す苦悶のたたずまいに、そして、眠ることが何よりも好きなフエ。一日、十時間近く眠らなければ気がすまないフエ。どうせ寝たところで、前世の、来世の夢に襲われて、ときに、自分を喰い散らす歯も牙もない音響にさいなまれて、まともに深い眠りをむさぼれるわけでもないはずなのに。
いつもの日曜日、彼女は私が起こさない限り平気で9時まで、10時まで、あるいは、ひどいときには正午近くまで眠ったものだった。いとしいフエ。私の、そして愛するフエ。私をいとおしみ、愛する彼女。知っていた。
彼女が見出す風景。ジウに抱かれる間に、その眼差しが見た風景。それら、すでに私が知っていたもの。彼女はやわらかい日差しに、その褐色の肌をふれさせて、蚊帳の繊細な白濁のむこうに横たわり、股を広げて片膝を立て、…ね?
お願い
苦しいの。もう…
救けて。だれか
死んで仕舞いたいくらいに
ね?
苦しいの、と、愉しむ。ただひたすらに、彼女の眠りを。私は聴いていた。耳に、その眠りをむさぼる聴こえるか聴こえないかくらいのごく微弱音の、それはフエの寝息。なんども寄り添われた耳元に聴こえていたもの。
喪失感などありはしない。彼女が私を愛している事は知ってる。私が彼女を愛しているように。私の肌は、知りもしないはずの、ジウにまさぐられたときの触感を想い出す。私は知っている。ジウの体臭。彼の愛しかた。若干、うぬぼれがすぎて、実のところ役立たずな、とはいえ、ある一定以上の満足を、女たちには精神的に与えずにはおかないに違いない彼のその流儀。…あ。
と。
ね、…
女たち。彼が
好きだったんだ。あなたは
好き放題に食い散らした、そして
わたしのこと
私が同じように、あるいは
…ね?
それ以上に食い散らしてきた
本気で
女たち。
…まじ?
生み出すものたち。自分の細胞の、かならずしも正確ではあり獲ない、その意味では劣化したコピーを。音響は鳴り続けていた。かたときもやすむことなく。フエの耳の奥にも、ハオの耳の奥にも。無意味に、喰い散らすことなど出来ないくせに私を喰い散らし続ける、歯も牙もない私の家畜じみたナイーブな音響。喰いついてみせればいいのに。せめて、一度だけでも。フエの閉じられたまぶたが、かすかにまばたこうとしたかのように、一度だけ小さな痙攣を見せて、そして何事もない。日差しが通風孔から、部屋の中の雑然としたたたずまいの中にじかにふれて、それら、色彩。
無造作な、さまざまな、人間が作り出した色彩。ベッドにかけら手シーツの青基調の花柄の色彩。枕のピンク、同じ柄の色違い、その色彩。フエの足許に投げ出され、ふくらはぎに遠慮なく踏まれたタオルケットのそつのない青。…何の柄なのだろう。のたうちまわるようなそれら、曲線の乱舞は。ハンガーにかけられた衣服。白、黒、紫、茶色に紺色、赤、淡いピンク、…色彩と、そして描かれた形態の群れ。壁は緑。
淡い、それが緑であるべき必然さえ感じられなくなった色あせた緑彩。なぜ、…と。想う。私は。なぜ、これほどまでに色彩などが必要だったのだろう?
私たちの眼差しの中に。…寝てるね。
と、…ほら。…
「苦しそうに…」言って、耳元に小さな笑い声を、鼻にだけ立ててみせたのはハオだった。
ハオの体臭があった。匂った。あるいは、私の体臭に近いのかも知れないそれ。どこか媚薬じみて、澄み切っているなどとは間違っても言獲ない、ただ深くみずからの歯茎に咬み付くことをだけ強制するような、昏く執拗で陰湿な臭気。いい匂い、…と、そう、あの《く姫》もそれを嗅いだに違いない。
フエのように。理沙のように。葉の、あるいは葉の、そしてミーの、ときには美紗子のように。
いつか、寄り添うように私に背後に接近したハオの体温さえもが感じられた気がして、皮膚はすでに彼の息吹きを感じていた。いまだ、彼に指一本ふれられたわけではなくとも。想い出していた。かつて、私を一度たりとも愛そうとはしなかった父親の残像。彼は私を愛していた。むしろ自虐的までに私を無視し、冷酷な眼差しに突き放して、軽蔑し、ただ、言葉もなく苛立つことで。私は知っている。彼ほど私を病的に愛した人間はいなかったかもしれなかった。美紗子が、結局はその愛を、感じ取られざるを獲ない欲望と感覚に手助けされて、換言すれば穢されて、あくまで自分の肉体の中にうずもれたままで私をその、愛と渇望を曝した眼差しに見い出していたとするならば、私に殆ど手をふれることも、手をあげることさえもなかった彼はただ、精神の塊としてだけ私を愛した。どうせなら、と。想った。私は彼を見つめる眼差しの中で。なんども、その6歳の、9歳の、十歳の、十四歳の、いずれにしてもそれら、さまざまな眼差しの中で、彼に、壊してくれればいいのに。…と。
想った。私は、せめて、いっそのこと、その手をじかにふれて、
そんな眼で
私を
ときに
破壊してくれれば
見つめるばかりではなくて
いいのに。
この頬を
…あげる
打ってくれれば。
すべてを
唇に手を突っ込んで、引き裂き
あなたに
口の中に
ぼくの
拳を入れて、顎を砕き
眼を
叫ぶことさえ出来ない無様な**の私の
眼が見い出す
何かが壊れてあふれ出す滂沱の涙の
すべてを
その
あげる
眼球を抉り出し**を
ぼくの
握りとって千切り
唇を
引きずり出して叩き切った
唇がささやき出した
***を顎の骨格が砕けたままの
あるいは
口に押し込んで
つぶやいた
窒息させてください。鉄の
あるいは
太いささくれ立ったそれ
叫んだ
鉄柱を焼き、煮えたぎらせて私の
すべてを
**に差し込んで人類種の肉体が
あげる
もっとも激しい絶望のうちに立てた
ぼくの
もっとも凄惨な絶叫を喉に
喉を
与えてください。あるいは
息遣い
腹を引き裂きひねり出した内臓の群れを
止め処もなく命を
飢えた野生の犬どもに喰い散らさせてただ
育んだそれ
軽蔑とともにほくそ笑んだあなたの
咀嚼した
優しい眼差しで
ぐちゃぐちゃの
見つめてください。わたしを
食べ物の残骸を
そして
飲み込んだそれ
生まれたこと自体を
あげる
後悔させながら**を
ぼくの
焼いた灼熱の鉄柱で口まで
手を
突き刺してあなたの
手がいつか
微笑み。私をただ
ふれた、それら
恥辱に塗れさせるしかない下卑たその気もない
ふれられたもの
微笑みを
すべて。この
苦悩とともにだけ
手が
見つめ続け
つかんだものの
凝視し続けながら
すべて
私を絶命させてくだい。いま
殺したもの
花々。
この手が殺したもの
…ブーゲンビリアの、
破壊したもの
むらさきに近い紅の
愛したもの
匂い立つ
慰めたもの
花々の許で。それに
それらの
火をつけ、
すべてを
焼き尽くし、
あなたに
すべてを破壊したその後で。ハオは私の耳元に不意に舌打して、何か言いかけ、…やさしさ。
ほんの数秒とは言え沈黙する、私に投げかけた彼のかすかで、鮮明な優しさが、なにかのやさしい言葉を探して言いよどみ、言いかけた事実自体をなかったことにし、その名残りにはき棄てられた舌打ちが、私の耳元に彼の、私への軽蔑をだけ伝えて私は彼を、殴って遣りたくなる。髪の毛を引っつかんで、体を真ん中からへし折り、逆にひねって背骨を叩き折って、床に顔面をなんどもたたきつけて鼻を、歯をへし折って血まみれにしてやる。…知らない。
と。
想った。私は、彼は…と。知らない。なにも。耳元で舌打ちなどして、いいわけがないことさえをも。…と、想い、深刻な裏切りに遭遇した似た孤立。
…孤独?
あるいは。いずれにしても途方に暮れる。あなたが見ている世界と私が見ている世界は一瞬たりとも一致などしない。知っていた。私は。すでに、私は、雨の日のフエはいつも雨水をバケツ一杯にためて、赤いバケツの中に波立つ透明な雨水で次の日に、皿を洗った。グラスを。箸を。スプーンを。そして振り向いて、…ね?
いい奥さんでしょ?
知っている。私は私の衛生感がそれを許容し獲ないことを。知っていた。私の眼差しに映る、当たり前のことを知らない未開の他人。褐色の肌を曝し、細菌を繁殖させた水面に透明なグラスを沈めた。気泡がわなないて立ち、水面は揺れたが、泥水でスープでも作るつもりか?
…と。
だったら、どこかから滲み出した油の紋様の浮いた水溜りの、その穢れた水で顔でも洗え。
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