《犯罪実話 或る嬰児殺し(昭和十年公刊)》【復刻】⑦ 控訴手続き、釈放 …燃え上る図書館



以下ハ、昭和十年ニ執筆及公刊サレタル京都ノ或弁護士ノ手ニ成ル公判記録也。

《国会図書館デジタル》ヨリ入手セル資料タル事茲ニ記ス。







京都地方裁判所々属

弁護士 杉原弁太郎著


犯罪実話 或る嬰児殺し


京都 柳屋書店





控訴手続(大阪控訴院)

                  控訴

                  控訴審に於ける審理

                  検事の論告

                  弁護の要旨

                  執行猶予の判決

                  控訴手続



  控訴

判決の言渡があってから数日後、未決監のけいから、筆者に面会を求めて来た。けいは筆者に「私は覚悟の上でありますから判決に対して何の不服もありません、また殺された子供に対しても不服を言える義理ではありません、然し静かに、後を振り返り、家に残して来た子供等の事を思うと、ぢっとじてはいられません、私は母としての大きな義務のあることを忘れていました、私を誤らしたものは大槻でもなければ、また世間の誰でもなくて、実に、此私自身が、私を誤らしたのです、今は只誰も恨みません、只管、家に残しておいた子供等の行末を考えてやらなければなりません、此尊い責務のある私自信の姿が、判決を受けてから初めてハッキリ知り得ました。私は誤りでした、モウ一度子供等と共に真面目に、世の母の一人となって子供の為めに、只管悔い改めて罪の償いをして見たい、私は斯う考えますとどうしても此場合控訴して、執行猶予の判決を得たいと存じます、どうか此苦衷をお察しの上、私選弁護人として改めてお力をお借りしたいのです」との切々胸を打つ頼みであった。筆者は控訴したからとて必らずしも執行猶予になるとは限らない、寧ろ此儘で受刑した方が結局控訴してから其判決のある時間丈早く刑期が終るのだからと諭したが、けいの決心は牢固たるものがあった、筆者も之れに動かされて第二審の私選弁護を引受けることにした。


  控訴審に於ける審理

けいは、控訴状、を京都中京刑務支所の未決監から大阪控訴院に提出したのだが、夫れから間もない時であった。やがて、身柄は一件記録と共に大阪北刑務支所に送られて其審理を待つことにした。第二審の大阪控訴院では、裁判長久保田美英氏之を担当し、昭和七年八月五日、控訴院大法廷に於て公判が開かれた。審理は原審の調書に基き巨細な事実に亘って、一々被告人を聞き糺された。けいは原審の供述を繰り返して、最後に家庭に残して来た子供の事を述べて執行猶予の恩典を与えられん事を希望した。

裁判長は立会判事と、弁護人として立会した筆者に、事実と証拠につき各其意見を求め、更に立会検事の論告を促した。


  検事の論告

検事は起立して、先ず控訴の理由なきことを述べ、本件犯行は一に被告人の一家の経済上の放漫が原因となりたることを強張し、従って寸毫も同情すべき点なく且つ何等呵酌すべき余地がない、即ち此見地から寧ろ被告人に対する原審判決が軽きに失する憾みがある、然し被告人の本件犯行敢行の動機も亦考慮すべきものなりと信じ原審判決懲役三年を相当なりと結びたり。

裁判長は弁護人として出頭したる筆者に弁論を命じた。筆者は第一審判決の重き故のみを以て控訴したわけではないと前提して大体次ぎのような弁護をなした。


  弁護の要旨

筆者はけいの弁護人として大略一審と同様次のような弁護をなした。貧権犯罪事実に就ては、被告人の原審並びに当法廷に於ける供述、検事廷予審廷に於ける各供述に依っても極めて明瞭であって弁護人として此点に関する限り全然弁護の余地がない。只、少しく、被告人の本件犯罪を敢行するに至りたる動機、情状につき一言述べ、聊か受刑上の御参考に供し被告人の有利に御参酌を願いたいと存ずる次第である。

さて、被告人の供述、それから記録を通じて本件犯行の動機を見るに、要するに生活苦と情夫に対する反感に帰することが認められる。

被告人の生活状態就中本件犯行直前の状態はどうであったろうか?、一言にして云えば実に悲惨の文字に尽きる、尤も夫の死亡当時は多少の余裕もあったが、之れで以って数人の子女を擁して安全に生活して行くには余りにも僅少であった、只弁護人としても遺憾に思うことは、被告人が亡夫の勤先から送られた扶助料、夫れは其一部にあったにせよ、僅かの間に費消してしまったことである。然し之は考え方により強ち責むべきではないと信ずる、即ち、亡夫生存中は可成り派手な生活をしていた惰勢で、夫ノ死亡後俄かに経済上に手心を加えることが出来なかったからであった。世に弱り目に祟り目と言う言葉がある通り、被告人の困窮している矢先に出て来たのが大槻だった。大槻と言う男はドンな男であるかは既に記録に現われた丈で大体其人物を知ることが出来る。被告人が少しばかりの義理の為め、ウカウカと大槻に謀られたことは如何にも残念である。当時の生活の安全を計る一助にもなるつもりであったかも知れないが夫れなら、全く売笑的行為と言われても仕方があるまい。ドンナ誘惑があっても、如何なる難関があっても、被告人は其節操を守るのに死力を尽さねばならなかった。本弁護人は此点につき被告を断固として責むべきものと考える。其情痴の結果はもとより被告人自信に於て刈り採らねばならない。何の顔を以て亡夫に、其子女に、更に社会に対して陳謝し得るか、然し、之は大槻との関係が出来る迄の話であって、今日当公廷に立つに至った場合に言い得べきものではない。被告人が大槻との愛欲関係以来、懐胎、引続き分娩と生活上の苦難は益々募るばかりであった。大槻の心は此頃から被告人より離れて行った。被告人は屡々大槻に生活上の援助を求めたが之に対して大槻は僅に白米五升と金拾円を与えたに過ぎなかった。しかも之を与えるに際し「今後は一切無心を言いませぬ」と云うような奇怪な書面と引換にしたと言う、之れが今の今迄木に餅のなるような話をしていた男だとはよもや被告人も知るよしもなかったであろう。本弁護人は被告人の犯行自体は決して良いとは申しませぬが、此大槻の仕打に対しては一個の社会人として義憤を感ぜさるを得ないものである。斯くの如き冷酷無慈悲な大槻の為めに誤らされたに拘わらず法律上同人が制裁の埒外にあって、現に恬然として安穏の生活をしていることはどう考えても公平だと言いかねる。被告人の為めに裁判所はセメて科刑の上に相当御参酌あらんことを切望するものである。亡夫から残された唯一の責は此子女の養育にある、若し被告人にして実刑を科せられんか、すなわち此子女の養育が出来なくなる、父に死別して悲しみの未だ新しい幼けな子女が、更にその母をも奪われることになる。悲惨と云えばこれ程悲惨なことが外にない。被告人の三男昭が嘗て親族の高田に預けられたことがあった、偶日曜かなにかの休日に遊びに帰った昭に、被告人が「高田の家で居るほうがおいしいものを食べさしてくれて何も不自由がないだろう」と尋ねた時、少年昭は「高田の家は僕を可愛がってくれるけれども矢っ張りお母さんのところが良い」と被告人の母の許に帰ることを取りすがって、ねがったと言うことである。

斯のように、被告人の子女が被告人の母の一日も早く自由の身になることを念願して待っている。

故に私は弁護人としてまた一社会人としても此被告人の子女の行末を案ずるものである。子を知るは親に如くはない、其たった一人の母をも今明暗の岐路に立たしているのだ。一女性としての被告人には、何等呵酌すべきものがない。母として、人の親としての被告人に、一物の同情を与えられんことを切望する。

只今御立会検事から原審判決が相当なりとの御論告があった。私も固より原審判決は刑法の適条から申せば、御立会検事と同一の見解を持っている。然しながら只今も申し上げたように被告人の犯行の動機、夫れを作った大槻が、法律上何等の制裁を受けないと言うような寧ろ吾々の社会道義から見て、極めて片手落の結果になることを御参酌を願うべきものであると考える、且子女の養育につきては、必らず被告人の手をからねばならない、またそれが何と言っても自然であることを御考察の上、相当減刑の上特に執行猶予の恩典を与えられんことを切望いたします。

尚終りに臨んで私は第一審で官選弁護人に選任せられましたが此事案の内容を見、被告人の家庭就中子女の行末、犯行の動機を真に一物涙なき能わず、控訴審に於て、自ら進んで私選弁護人を引受けた次第であります敢て五人の子女の為めに御同情せられんことを重ねて希望致します。

以上で私の弁護が終った。判決は同年八月十二日午前八時と定められた。


  涙ある判決

昭和七年八月十二日、大阪控訴院で第二審の判決のある日だった。定刻未決監なる若松支所より法廷に引き出されたけいは、静かに開廷をまった。

やがて裁判長、陪席判事、検事及書記は各定めの席に着いた、けいは一礼して裁判長の前に進んだ。

裁判長は型の如くけいの身分調べをなしたる後判決理由を朗読し、次に左の通り主文の宣告をなした。


 被告人ヲ懲役二年ニ処ス

 但シ三年間執行ノ猶予ヲ為ス


けいは思わず裁判長に三拝九拝した。裁判長はけいに、

第一審の判決は被告人の考えているようにそんなに重いものではない。然しお前の犯した罪は誠に憎むべきではあるが、当審では、其の動機に就て参酌し、且つ被告人には多くの子供があり、此子供をうまく育てねばならない大きな責任のある身であることを考慮して、此判決の言渡をなしたのであるから、今後十分気をつけ、再び斯んな誤のないように、子供の為めに全力を尽すよう。

と涙の籠る訓戒があった。けいは此涙ある判決に服し、将来再び誤りをなさざること、子供の養育に力を尽すことを誓って引きさがった。





釈放

                     再び太陽を仰ぐ喜び

                     彼女の述懐

                     筆者の所感

                     釈放



  再び太陽を仰ぐ喜び

判決が確定すると同時に、けいは直ちに釈放せられた。約三ヶ月の牢獄生活にすっかり窶れた彼女も、流石に俄かに自由の身体になったことを嬉しく思った。裁判長の訓戒を堅く守る決心を持って若松支所の重くるしい衛門を出た時は、只京都に残してある子供の事のみに頭が奪われ一時も速く帰りたかった。しかし牢獄から出てきた自分の姿を見るときの子供等がどんな気持で話してくれるだろう、それにしても、何かしら心恥かしくてならない自分の心はどうしたことか。真夏の太陽は容赦なく身体一杯に照りつけて、今にも焼きつきそうだ。しかし日光を思う存分浴びて子供の事を考えらるる自由の身になったことは永い間の束縛から放された者のみが味うことの出来る悦びであり、母たるものの限りなき嬉しさでなければならない。


  彼女の述懐

けいは釈放後筆者の事務所を訪れて次のように語った。

私は女としても、母としても、極めて弱かった。又浅慮でもあった。余りにも夫の在世中安逸にすぎた。私は今更ら悔ゆるわけではないが、世の母としての自分を振り返って見ると、自分の姿が余りに多くの欠陥のあることを発見せずに居られません、今でこそ、こんなことを言えますが、当時、五人の子女を擁した私にとっては全く世の中のことはすべてが暗闇でした。何が何やら解らなかったと言うのが本当です。それにしても、今自分の浅慮、無智を言い得られるようになったのは、全く前後三ヶ月の未決監生活の賜物だと信じます。此意味に於て想を静かに養うことの境地を得たことが私にとって、まだしもの慰めになると言うものです。

心を強くすれば人は相手にしてくれません、心を弱く持っていては人に乗ぜられる、そこで私は考えました、所詮自分を信じ、自分を頼むより外に途がない。私にとって今度の事件が確かに不幸に違いない。しかし此の不幸から多くの尊い経験と信念を拾いました、之れからは此経験と信念とによって新しい生涯に入りたいと思います、同時に精神生活に入って霊に蘇った「私」を建設し、五人の子女の本当の母になる為めに此一身を神の聖壇に供する覚悟であります。


  筆者の所感

刑事事件としての此の物語は、之で終ることになった。筆者は此事件の弁護人として第一審以来担任して被告人の為めに弁護して来たが、-勿論筆者の力によったものではないが-倖いにも執行猶予の恩典を得たことによって事件は終焉した。事件は終焉したものの被告人としては更に新しい大きな責任を負わされたことになった、之は言わずも知れた被告人の今後の社会生活に誤りないことと、其子女の養育を怠らぬことで在らねばならない。若しも之を誤ったとすれば折角、与えられた判決の趣旨に悖ることになるばかりか国家に対し大きな弓を引く結果になる、此見地から、一審以来関係して来た筆者にも心に責任がないではない。そこで釈放されて筆者の事務所を訪ねて来たけいに対しては懇々将来に不心得のないように勧説したのであった。勿論彼女は誤りなきことを誓ってそして筆者に向後五年の日子を与えられたき旨を述べた。そして五年後には必らず喜んで頂きますと述べて筆者の事務所を辞した。其後ようとして消息を絶ったが聞くところに依れば天理教を信仰し、更生の新生涯を宗教生活に捧げていると聞いている。私は此真摯なる彼女の姿に永く栄光あれかしと希って筆を擱くものである。





昭和十年四月三十日印刷

昭和十年五月八日発行







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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