《犯罪実話 或る嬰児殺し(昭和十年公刊)》【復刻】① 犯罪の梗概…燃え上る図書館
以下ハ、昭和十年ニ執筆及公刊サレタル京都ノ或弁護士ノ手ニ成ル公判記録也。
《国会図書館デジタル》ヨリ入手セル資料タル事茲ニ記ス。
京都地方裁判所々属
弁護士 杉原弁太郎著
犯罪実話 或る嬰児殺し
京都 柳屋書店
はしがき
□犯罪は社会の病源である。若しもこの総ての病源を地上から葬り去ることが出来たなら、吾々人類の生活がどんなに明朗なことであろう。然し、恰も、人類の生命を啄む幾多の疾病が、医術の進歩、薬物の発達とは別に、滅亡どころおか人類の生存と永久に不離の関係にあるように。即ち、吾々人類の生活が存する限り、生活と犯罪とは二つの平行線となって、永久に続くであろう、いはば私達は、常に、犯罪と背中合せに脅威の生活を続けているようなものだ。
□吾々は、所詮、犯罪を地上から駆逐することが出来ないならば、出来るだけ犯罪の発生を未然に防ぐと言う限度に諦めるより外に途がない。頃日[さきごろ]、京都府警察部及び京都府防犯連合会が主催となって、京都大丸で「防犯展覧会」を開催し会期中、実に七十万の観衆に防犯観念を植え付けたと云うのも、一に此趣旨に外ならないものと観察する。
□防犯と言う文字の中には為政者の立場から言うものと、他は大衆自身の立場から言うものと二つの意味があると思う。前の意味の防犯は暫く措き、大衆の立場からの防犯は、全く大衆の自制、自警に基き、更に進んで之を隣人に及ぼすことであらねばならない、即ち自ら犯すことなく、人をして犯さしめざることに在ると信ずる。
□大衆自身の自制、自警は常に精神の弛緩を防ぎ、犯罪発生の余地がないように心懸けねばならないし、兼ねて検察当局と協力して所謂民衆警察の実を挙げるように心懸けねばならない。
然しながら、現今、一般大衆は、検察なり裁判制度の実際については極めて認識が薄い。之れが為めに、犯罪の適正にして且つ敏速なる検挙、衡平なる処罰の機会を逸することは決して少なくないのである。吾々は検察、裁判の本来の目的である正義の擁護、社会秩序の維持、個人権益の保護に存することを茲に改めて認識して、自警、自制、進んで検察当局に協力して犯罪を未然に防ぐ所謂検察の耳となり、眼とならなければならない。
□現今社会の一部には、旧幕時代の非合法検挙、過酷な裁判制度の印象が未だに潜在するものと見え、現行の極めて完備した制度と其実情につき知る処が余りにも浅い。之がため警察、検事局、裁判所と云へば触らぬ神に祟りなしの式で只盲目的に恐怖を感じている向があるように考えられる。之れでは敏速な犯罪の検挙を期することは至難であり、延ては裁判手続に非常な面倒を要することになり更に、また却って犯罪ノ発生を助長する結果になりはせぬかの恐れがある。
私は此見地から、一般市民に現時の合法的検挙、精緻なる裁判手続の一班を嘗て私が弁護人として関係した刑事々件の記録を基礎として、犯罪実話として茲に紹介し兼ねて一般民衆の自警を促がさんが為めに敢て此小冊子を刊行した。固より此目的の重大なるに反し私は自らを顧みて一層その微力を痛感せずに居られない。文章の拙も亦自ら知らざるにあらざるも敢て上梓せるは、只防犯運動の一助にもとの微心にすぎない、大方の寛恕を乞う次第である。
□本書を刊行するに当り、京都府七条警察署長警視渡邊一太氏より少なからざる助言を与えられたること、また表紙書を漆書の創始者戸島光阿弥画伯を煩したることを茲に記して厚く謝意を表する。
昭和十年四月
弁護士 杉原弁太郎
凡例
一、本書に引用の刑事記録はなるべく読者の寛感を損うことを恐れて、総て、その原文の儘で記載することにした。従て、用字の誤りなど、あるかも知れない、予めご承知ありたい。
一、関係者の氏名は、名誉や信用に関するので、総て、仮名を用いた。
一、風俗に関する点で、聊か公表しがたいと思ったところは、総て伏字を用いた、敢えて読者諸君の寛恕を得たい。
一、はしがきの中でも鳥渡[ちょっと]書いたように、此刑事事件は、筆者が弁護人として一、二審を通じて関係したものである、従て事実は、ありの儘を綴ったもので、生々しい血の滲むような一女性の人生行路の一断層を読者の眼前に開示したものである。
一、尚、書中、公判調書の中に警察署での取調べ、検事、予審判事の聴取書の一部を引用して、公判調書と対比することにより読者をして、事実を一層詳細に知らしむることに努めた。且つ随所に筆者の感想をも之に加えておいた。公判調書などと彼れこれ混同せぬように予めお断りしておく。
犯罪の梗概
護送
被告人の生ひ立
夫の死
虚を狙ふ狼
罪の子
思ひ余つた児殺し
犯行の発覚
犯罪実話「或る嬰児殺し」
弁護士 杉原弁太郎著
犯罪の梗概
護送
春も慌しく逝った昭和七年五月の或る日。今しも、京都川端署の護送車に、力なく移された、四十絡みの一人の女性があった。縦縞銘仙の裾衣に同じ柄の羽織、メリンスの昼夜帯もキリッと結んだ深編笠の姿だった。小脇に当座の着替えであろうか木綿の風呂敷包を抱えていた。やがて護送担任の警官が運者に何やら合図をしたとうと車は早くも丸太橋を西へ渡って行く。彼女は川端署で係り官の一応の取調べを受けて京都地方裁判所検事局へ護送されるうらぶれの姿であった。
彼女の生い立
戸籍によると彼女は本名けいと称し、原籍は兵庫県出石町にあるが、京都府天田郡福知山町で出生した者らしい。彼女の言う処によると、郷里福知山の小学校卒業後引続き補修科へ通学し、十七歳の時、京都府立病院へ見習看護婦として勤めたが其翌年、恰度十八歳の時病気の為めで郷里へ帰った。其後二十歳の時、京都府綾部町の××医院の薬局生兼看護婦として雇われ二十二歳の暮、同医院を罷めて二十三歳の正月世話する人があって、当時京都の某製作所に技工として勤めて居った窪井富二男(当時二十八歳)と結婚した。夫の富二男は真面目な青年で、会社の方でも、同僚の間でも至って気受けがよかった。家庭内でも夫婦仲睦じく平和な生活を送っていたものだ。やがて二人の中に、長男春男以下兼夫、昭、高の四男と長女留子の七人家族となって、生活は豊かとはゆかなかったが夫の富二男が毎月会社から貰って来る手当で苦しい思いをせずに暮してゆける位だった。
夫の死
処が、昭和六年十月頃夫富二男が思いがけない肝臓病に侵されてから彼女の日夜の看護も効なく、其二十日枯木の倒れるようにポックリ死んで了った。杖とも柱とも頼む富二男に死なれて全く途方に暮れてしまったけいは、五人の子女を擁して自ら生活線上に働かねばならないようになった。けいはわが身を振り返って今更ながらに死んでいった夫を羨ましくも思い恨みもした。然し考えて見れば所詮吾身に降りかかった大きな責任であり、免れがたい天の試練だと考え直して健気にも大に決する処があった。
当時亡夫の勤務先から貰った扶助料などで当座の生活を支え徐に適当な職業に就く考えであった処、親族の者等が寄り合って一時預ってやると敢口して貰うた扶助料の一部しかけいに渡さなかった。斯うして取るものを取った親族の連中は、其後、何彼と理由をつけてはけいの家庭より遠ざかるようにしていたものらしい。尤も夫の富二男の生存中からもけいに対しては親族仲間では余り好感を持っていなかったらしい。子供等も子供等で親族の者に対しても親しみを感じていなかった。
隙を狙う狼
彼れ是れ考えているうちに、僅かばかりの扶助料も残り少くなって頗る心細くなって来た。生活難は容赦なく彼女の一家に襲いかかった。生とし生けるものの同じい悩みであるが、幼い子女を擁した彼女にとって、殊更ら闇夜に荒野を行く思いであった。之を切り抜けて行くには余りにも力弱い彼女だった。当時、夫の生前から出入していた大槻という洋服屋が、或夜突然訪れて来た。腹に一物のある彼は、一見してけいの困り抜いている姿を見逃さずにおかなかった。恰も羊の前の狼のように。彼はその夜何気なく装うて親切な言葉の一つも残して立ち去った。其後表を通ったからと云っては訪ね、子供に変りはないかと言っては這入って来たものだ。斯んな事がたび重なって、けいは大槻に多少の義理を感じるようになり、又萬一の場合には若干の無心を云うことも出来まいものにもあるまいと内々考えることもあった。斯んな情勢を作ることに相当腕達者な大槻は、漸く自分の計画が思う壺に這入って来たことに、憎らしい微笑みを浮べた。昭和六年二月十三日の夜、大槻は或種の期待を持ってけいの許を訪ねた。けいは折柄、手仕事に編物をしていた。子供等を附近の夜店見物に出させた後、大槻はけいに×××××××××××××××××××したがけいは婉曲に之を拒絶した。然し、之しき位に後退するような大槻ではなかった。尚も執拗に言い寄った、けいは初めのうちこそ堅い律儀なことを言っていたものの、何時の間にか、許すべからざるものを許して了った。斯くしてけいは悲劇の第一歩に惜しみなく吾身を投げ入れたのだ。阪道に落した鞠の如く惰力のついた彼女は悪いと知りながら子供に恥かしいと知りながら、浅ましくも大槻と情痴の世界を展開したのだ。五人の子女を亡夫の遺志によって養育してゆかなければならなぬ身を全く忘れてしまったかのように大槻との不倫の道が暫く続いたが神の悪戯と云おうか、けいはやがて常ならぬ身になった、彼女が斯う気がついた時は余りにも時期が遅かった。悔恨と不安の数日を経て、大槻に此旨を打ち明けた。然し此時はモウ大槻の心がけいより遠く離れていた。けいの訴えは彼にとって寧ろ五月蝿さくこそ聞え優しい言葉さえ与えなかった。彼は、けいに堕胎の教唆をしたのも此時のことだ。世間に対する面目、先夫の遺子殊に、当時十八歳にもなった長男の春男に対する自分ながら不思議な程の気兼ね、親族に対する言い訳、考えれば考える程真暗な行く末だった。ただ自らの無智を恨むより外にない。夫れにしても、日々の生活が極端に行き詰まり此頃になって家賃、米屋、魚屋に至るまで相当嵩まった不義理が出来て来た。
罪の子
昭和七年四月五日、けいは、不安と焦燥の裡に、丸々と肥った男児を分娩した。謂はば行く処まで来たのだ。斯うなれば此上更に加へられた新しい責任を如何にして果たしていくのか、思えば日暮れて途遠しの感があった。今や全く彼女は茨棘の道に踏み迷い、前途にただ破滅のみが彼女を待っているばかりだ。今になって復讐をなすべきかも考えてみたが其結果の総てが小児病的になった自らを嘲笑するに過ぎなかった。一時は、自殺も考えた、然し、そうなれば残された多くの子供の始末は誰がするのか、人の母として余りにも不甲斐なき考え方だった。
思い余った児殺し
昭和七年五月一日、例年、京都第三高等学校の運動会の日だ、楽しみに待っていた子供等を心よく出してやったけいは、予ねて決意していた罪の嬰児を殺害するのに最も良い機会の到来したことに感づいた。さあれ無心に睡る子供に何の罪科があろう。時々夢でも見ているのだろうニッと微笑む子供の寝顔に魅せられて、けいは張り切った心が自らゆるむのを覚えた。表を通る車の音に眼を覚した幼児は、けいの顔を見つめてはまた眠りにつく。思いなしか、けいには其子供の眼が恨みの凝視にしか見えなかった。此子供の死によって一家が救われるのだ、これは今の場合只進むべき一つの道であると誤った考えに捉われた彼女には他に何も考える余地がなかったらしい。両頬に流れる涙は死んで行く我児に対する最後の餞[はなむけ]だった。心は千々に乱れたが、気遅れしてはならぬと考えたけいは、ただ、××××××××××××××××××遂に××××××××××××であった。よよと泣き崩れた彼女にも矢張り世の母としての姿がアリアリと見えた。
犯行の発覚
大きな罪を犯した彼女は、死体の後始末をなしながら、残った子供のことやら吾身の行末について考えたが、犯した罪に心が戦き少しも落ちつかなかった。ただ呆然と数日をなすこともなく過してしまった。
五月六日の夜、けいが三男昭(当時十二歳)の身上について相談した戸崎政吉が何気なく洩した一言が障子に洩れる風にさえ戦く彼女にとって、自分の犯行が同人に看破せられたものとのみ早合点したことから遂に露見して大騒ぎとなった。即日、親族や戸崎に勧められて京都川端署に自首して出たものであった。
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