小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説⑫ ブログ版
ディオニュソスの女たち
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ
Μαινάδη
マイナス
フエは、十歳のフエは、そして不意に入り口にたたずんで、おののきのような、何をも語りかけない単純すぎる、表情以前の筋肉の硬直を顔に曝したチャンを見つめ返したその瞬間に、クイが男ではないことなどだれもが知っている。
だれもが、英雄クイは傷付いて、もはや男ではありえなくなったことなど。そして、サンがヴァンの尻を、ときどき隠れて引っぱたくことくらいは知っている。だれもが。マイも、タンも、クイはヴァンに生ませることなどでるはずもない。ダットは女になら誰にでも尻を振る。やがてはチャンにも手を出して仕舞うのだから。壊れたチャン。あなただって知っている。そして私とチャンとは双子のように似ている。だれもが見間違うことなどない差異を撒き散らしながら、褐色のフエ、真っ白いチャン、アンは私には似ていない。お母さん似だから。フエはダットに似ているといわれる。そうなのかもしれない。そうに違いない。ダットはクイの弟なのだから、クイの親友はダットの友人でもある。まともに仕事もしないで、ほとんど一日を遊びに費やすダットは、一日中暇を持て余している。…知っている。
チャンも。ヴァンも。フンも。ホアも。みんな、いずれにしても知っている。認識されない事は、知られていないに他ならない。だから、知っている。そして、知らない。想い出す。
アン。最後の日に、夫を待ちながら、その帰宅の気配にさえ気付かずに、すでに、フエは眠って仕舞っていた。気配があった。眠りの、醒めかかった意識の中に、…いるよ。
と。
そこに。
声。
いるよ。
頭の中に
ここに。
発される自分のもの、…らしい、それ。
声。
そこには自分しかいないのだから、それはフエ自身のものに他ならない。そして、それを、自分のもとして認識する事は、フエには出来ない。
声。…いるよ。
ほら。…と。
眼差しを開いたフエは、その、眼差しの中に暗い男の眼差しを見た。フエは後れて、鮮明に知っていた、その時刻が夜であること。空間、自分が素肌を曝したまま身を横たえた、その空間の暗さが、当然その、ベッドの傍らに腰掛けた男のすべてを暗ませる。
ささやくような気配を聴いた。何も言わない、男の眼差し、眼差しは、暗がりの中に、その男の表情さえ曝させない。アン。
弟は、姉の姿に何を認識したのだろう、と、…ねぇ。
想わずフエは、微笑んでつぶやきそうになって仕舞った。…お母さんになるの。
知ってる?
アンは、姉の、疲れ果て、そこに生きて存在すること自体が苦しくて仕方ないのだとさえ言いたげな、その眼差しをみつめて、窓越しの、そして、開け放たれたドアに漏れ入る夜の光の中に、鮮明に曝されたフエの表情は、何をも語りかけてはいない。
いつでも、眠っているときの苦悶の表情を引き摺って、寝覚めのフエは、…駄目。
もう、なにもかも、…すべて
駄目なの。…もう。
そんな眼差しを曝す。
いつでも。そして、アンの眼差しにふれるその、あまりにも傷付いたフエのまなざしは、アンに、ただ限りもない切実な、追い詰められた悲しみだけを掻き立てる。
アンの目には明らかだった。姉の身に、何かが起きたことなどは。着替えを取りに、うちに久しぶりに帰って見れば、隠しようもないうち棄てられた廃墟の気配が匂った。照明はどこにつけられていないままに、その家屋は、いつもどおりに開かれるべきシャッターを、木戸を、そのまま開いてそこに存在していた。夜の十時。早い時間ではない。
町の人々は静まり返り始めて、そして、もはや顧みる者などいない家屋は街より深い沈黙を曝す。不意に、中の人々が蒸発でもして仕舞ったかのように。
フエが、町の一区画、すぐ近くの焼け跡の住民たちを敵に回して仕舞った事は知っていた。町の中からさえ、此処はすでに見棄てられていた。なにも、悲劇的な予感などはしなかった。普通ではないその家屋のシャッターをくぐったときにも。
ただ、アンは悲しかった。悲しさの、その根拠の所在地など分かりはしないままに。床の上に、背後から差し込んだ夜の光が無造作に、形態をなさないアンの翳を散らす。アンは、それをかならずしも見出したわけでもなく、その眼差しの中にはそれはおぼろげに、その存在を明かした。
姉を探した。
庭、炊事場。あるいは、フンたちの使っていた廃屋。そして、自分の寝室と、シャワールーム。
仏間。つけっぱなしの蛍光照明が、飾った仏像を照らし出した。
知っている。姉がどこにいるのかくらいは。いまさら、いまはじめてその認識の存在に気付いたようにアンは、姉たちの寝室の、あけっぱなしのドアをのぞいた。
力尽きて、そこでそのまま息絶えてしまって、にも拘らず、…ね?
苦しいの。
と。…分かって。
苦しくて仕方ないの。そんなささやきを周囲に撒き散らす無言の、寝息を立てるくの字に身を曲げたフエの裸身。
だれかが、彼女に、そうしたことをアンは見い出す。それは自分ではなく。彼女の夫でも在り獲ない。彼女に来るんだ形跡はなく、暴れた形跡もない。そして、彼女の眠る眼差しはただ、自分が眠っていることの苦悶だけを曝す。
アンはベッドの傍らに腰を降ろして時間を潰した。…ほら。
と。声が聞こえた気がした。
想い出す。
初めてフエを抱いたとき。あるいは、フエに抱かれた、もしくは、フエに奪われたとき。
奪わされたとき。
始めたふれた、フエの肌の触感に、アンは、自分が彼女にこそ焦がれていたことを教えられた。事実、アンは思い出した。彼が愛していたのは、フエ以外ではなかった。いつでも、と、アンは想った。わたしはあなたを求めていた。
アンの指先が、そっと伸ばされて。やがてフエの鼻に触れるのを、アンは見つめた。自分の指先が、その形態をなぞり、夢。
フエは見い出す。いつか、その、指先に鼻筋をなぜられたときにか、その前後にか、その周辺のいつかの短い一瞬にか、ヴィー。
ブーゲンビリアの花々が沈黙する。
無造作に、周囲のいっぱい、無際限なまでに見渡す限り、撒き散らされたビーゲンビリアの花々の散乱。匂い立ち、フエはむせかえりそうになりながらその芳香の無残な氾濫に耐えて、それは、と、想う。
嗅覚に対する強姦に過ぎない。
絶えられないほどの匂いの塊が、嗅覚を膨張させて破綻させてしまう、そのあざやかなてざわりがあって、フエは笑いそうになる。
声を立てて。…知ってる。
夢の中に、匂いなどしないものよ。つぶやく。何かを、フエは執拗につぶやき続けて、その音声が耳の中に連鎖に、それら、さらには重ねて反芻さえされながら、かさなり、束なり、こすれあい、もつれ合い、潰しあい、ひびきあい、無際限なそれら、声。
聴く。
発し、聴き、いつ?
想った。どうして沈黙している私はこんなにも、喋り散らしているのか?…いつ、と、終には見開いたまなざしは、咲き誇ったブーゲンびりの花々の撒き散らされた散乱の真ん中に、ヴィーがたたずんで笑っているのを見い出していたことを思い出した。
口の中に、蜂蜜の匂いがした。舌の上に、そこに在るべき芳醇なその香気立つ甘さを探したが、食い散らした。
失われた、ひん曲がった両手では花々をなどつかめもしないくせに、その、人間の男たちが夢に見るような美しい素肌を曝したヴィーは、眼をひん剥いて笑いながら、花々を食い散らす。
不可能なことなど知っている。花々を食い散らすことなど。それに、手を触れることさえできはしないのに、そして、声。
獣じみた声を上げて、怒号。
それは、あきらかに、容赦もない怒号に他ならない。笑うヴィーが喚き散らし、周囲に、そしてフエの耳の近くに木魂させるもの。
叫喚。
知っている。それは、笑い声に違いない、と、フエは想う。間違いなくそれは、と、フエは、確かにそうであるべきもの。彼女は笑う。
その、顔をひん曲げて笑われたヴィーの残酷な表情は、むしろ笑いでも怒りでもなく、ただ悲しみだけを訴えていることに気付いていた。フエは知っていた。認識するまでもなく、フエはよく知っていて、知っている。フエは、自分がすでに鮮明に、ヴィーが耐えられずに撒き散らした燃え立つような一瞬だけの怒りの無際限な連なりが、いま、ヴィーの顔の筋肉をゆがめているのを。その、美しい、いつくしむような微笑の形態に。
食い散らす。ヴィーは、花々を、そして、フエの眼差しの中に、撒き散らされたブーゲンビリアのの芳香の手前に、隠しようもなく芳醇な、その固有の色気立つ体臭を奏でて、塗りたくり、埋め尽くして、ヴィーは微笑む。
いいのよ。
と。
赦してあげる。
…すべてを、と、そう、何の権限さえないままに、すべてを赦したヴィーは、すべてが自分にもはや赦されたことを知った。
眼を開いた、眼差しの先のアンに、…あなた?
と。
フエはそう想った。笑いそうになる。ふたたび、何度目かに。…知っている。
知っていた。あなたがそこにいた事は。知っている。あの、チャンが自分の眼を抉ったその前の夜に、自分がその耳にささやきかけた声。
…わたしたち、双子なのよ。
知ってた?…その音色。…やわらかく、すこしだけ戯れて、かすかな、邪気もない軽蔑を含んだ、その、かわいらしい声。…知ってた?
知っていた。あなたがそこで、私をずっと愛していた事は。
眼差しが彼女を見詰める。知っていた。愛されていたことを。その、眼差しの中で。いとしいものを見つめる、焦がれた眼差しの中で、鮮明に、ただ、アンは、アンの、自分への愛にだけ埋もれる。…すき?
フエは眼差しにつぶやいて、その、悲しげな色彩の意味を、アンは見つめあった眼差しの中に探した。…すき?
と、つぶやきかけて、なしくずしに、かたちを崩して沈黙するフエの唇に、アンが自らの唇を押し当てたとき、敗北した、と、アンは想った。
何度目かに。
いつものように。
彼女の誘惑に。
彼女のために。
愛しのフエ。
フエは、アンが自分をまさぐり始めるのに任せた。
ディオニュソスの女たち
目覚める。
ふたたび、何度目かに。フエは、そして、花々の匂いを嗅いだ。すぐさま、それが不意に見た夢の中でかいだと想っていた、あのブーゲンビリアの匂いの記憶の名残りにすぎないことに気付いた。
傍らに、身を寄り添って、自分に甘えたまま眠り込んで仕舞った男の寝息。それがアンだという事は知ってる。
家屋の壁の向こう、庭に、何台ものバイクが止まった音で、自分が眼醒めたことを思い出し、聴こえるもの。無数の男たちが、ただだらしなく喋り散らしながら、大量の足音を立てて、家屋の中に侵入してくる音声。騒音。まるで、…やあ。
こんばんは。
そんな陽気な来訪の合図のように。哄笑。あるいは、ただの笑い声。自分たちを彼らは探しているに違いない。フエは瞬き、想い出す。花。
ホアは、海辺で、やがて甘えるように素肌を曝したフエにしがみついた。そして、…どう?
言った。
どうですか?
花は、きれいですか?…と、そう言おうとしたに違いない。フエが、その視線さえ投げかけようとはしなかった花。海辺のコンクリートを突き破ったブーゲンビリア。
その二輪だけの花々が、強烈な潮の匂いの中でさえ、匂い立つ。…そう。
綺麗よ。
フエは、自分に甘えるホアのためだけにつぶやいた。鼻に投げつけるべき、視線さえもたずに。
2018.11.29.-12.01.
Seno-Lê Ma
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