小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説⑪ ブログ版






ディオニュソスの女たち



《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel



《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ

Μαινάδη

マイナス










気付く。フエは、同じように、自分も、と、その結婚式の前日に、久しぶりに会ったマイの、悲しげな気配を匂わせただけで、表情を明確には曝さない眼差しを時に偸み見ながら、同じように、わたしは。

想う。生まれたに違いない、と、想えば、わたしは、ハンと同じようなマイ、愛してるの?あなたは、タオを…と、フエの、そして、知ってる、あなたは愛していた、タオを、ハンは、私を、同じように、と、想う。

フエは、タオと同じように、自分自身も生まれたに違いないと。

それはどこかの国との戦争のさなかだったのかもしれない。いずれにしても、ダットに、わたしは似ていない。似ていたくもない。穢いダット、永遠に穢い犯罪者のダットに、そして、私を愛した人。廃墟の中で。私を見棄てた人、廃墟を自ら生み出すその直前に。

花。

舞い散る花々。

ブーゲンビリアの匂い。

色彩。

想いだす。ヴィー。

美しいヴィー、いつも、獣の眼差しを曝して、あるいは、けだものと言って仕舞えば、それはあまりにも獣に失礼だったかも知れない、知性のすべてを喪失して、眼に映るものをそのまま純粋に見い出すしかなかった壊れ物のヴィー。フエは想い出した。

結婚式の前日の、朝の酒宴、今日は一日中、飲んだくれている気に違いない。氷屋の店先に、フエをそっちのけで集った親戚の男たちがビール缶を開ける。彼らの影に、あえて自分の存在感を消しながら、タオはあたふたとその世話にひとりで明け暮れたが、その、タオの挙動の、眼に映るすべてを憎まないでは気がすまないマイ。

同じように、生まれたに違いない。タオは、マイに自分が愛されているに違いないことを鮮明に確信していた。

ヴィー、壊れ物のヴィー。あるいは、壊れきる以前に、出来損ないのそのままの状態で生まれて仕舞った、肉体の形成物、ヴィー。

純粋なたんぱく質。躍動する細胞。

想い出す。

フエは、そして、アンは想った。

その眼差しを見つめて、そんなに悲しいのなら、と、アンは想う。自分の体の下の愛おしい女。自分を誘惑して、崩壊させた、その、姉。せめて、と。想った。俺が、あなたを殺してあげようと、不意に、囚われたその、色彩も、においも、温度もない情熱に、それが一瞬の錯乱に過ぎないとアンは自分で気付きながら、自分のその手のひらがフエの首筋をつかんだことに気付いていた。

行為の後、フエは息遣う。はじめて、体内に、男のそれをふれさせたに違いない、その。

アンは知っていた、今、と、思う。わたしはあなたを殺そうとする。その眼差しの中に、新しい命を育み始めたのかも知れないフエは、涙さえにおわさずにただ、その眼差しを絶望にぬりたくり、いつものことだ、と。アンは気付いていた。すでに、フエのその表情は、自分を見つめるときの、いつもの、当たり障りのない単なる代わり映えのしない表情に過ぎない。

アンの手首が、フエの首を締め付ける、その鮮明な触感が、…あ、と。アンが声にならない叫び声のような、唇にこぼれそうな音声の兆しを、喉の奥に感じたときに、その、フエが苦悶の表情を曝さなければならない一瞬、アンは、手のひらを緩めた。

もはや、握り取れるものなど何もないと、宣言した手のひらが、脱力をだけ曝す。失敗だ、と、アンは自分の隠しようもない敗北を恥じた。屈辱感があった。何に敗れたのか分からなかった。何もかもが倒錯していた。アンが、ふたたび自分の唇を、むさぼり始めるのに、フエは抗わない。それに、答えさせずに、フエはアンの為すがままに任せ、なぜ、と。

想う。

なぜ、あなたは私を殺して仕舞うことさえ出来ないの?

…と、つぶやかれもしない言葉が、その頭の中に繊細な波紋を作って、耳の奥にだけ響き、すべて。

もう、私のすべてを、破壊して仕舞ったというのに。

あなたは。…ヴィー、と。

いつものように、怖いもの見たさで、内庭の離れに忍び込んだフエとチャン、その十歳の二人に、おくれてその存在に気付いたヴィーが、ある表情を曝した。

笑ったような表情をベースに、軽蔑と、失心を混ぜて、歓喜を渦巻かせたような、一切の意味を感じ取らせないその表情、…らしき、顔の筋肉の無造作な硬直。

フエは声を立てて笑いそうになった。眼の前に在るそれが人間だということは知ってる。

顔を半分失った、残酷な顔を曝すクイのそれは明らかに彼が英雄であることを無言のうちに表明し、眼の前に在るそれ、ひたすら美しい造型を曝すそれは、明らかに欠損した人間に過ぎない。

どうしてなのだろう?

衣服の上からも分かる、鮮明な女の、そうであるべき流線型。男たちに欲望を喚起し、女たちにその、喚起される欲望の正当性を想わず納得させて仕舞うように、…それが事実なのよ、と。

それは、この種の生き物の固有の事実なのよ、…と。

わかる?…そう耳元にささやきかけるような、肉体のあざやかな女性性。

在るべきものが、在るべきものとしてそこに眼醒め、それらのすべてがお前は人間なのだと断定する。失われた両手。その、豊かな成熟した女の抽象的な偶像の、肩越しにぶら下がった、用途をなさないひん曲がった、幼児程度のそれのいびつさが、なぜか彼女を見るものを失笑させ、そして安心させた。彼女は人間だった。フエは、その女が、彼女を取り巻く女たちにいわば、欠損物として差別されている事は知っていた。そして、敬虔なフエは、それを忌むべき事だとも想い、あるいは、感じるのだった。その眼差しは、鮮明に、なんて、と、…ね?

なんて滑稽なの?

残酷なほどに、哀れで、いたたまれず、あまりに悲惨すぎて、寧ろ軽蔑して遣らなければ彼女を見い出す眼差しのほうが壊れて仕舞う。眼差しはもはや自衛として、彼女を穢れたものとして見い出してやるほかない。

あるいは、自己満足げな無私の同情を捧げてやるのか。哀れで、ただ、発育途上に滅びるべきだったものが、間違って生き残って仕舞ったことに対するかすかな非議をさえ感じながら。

あるいは、前世に行われた彼女の、すべて忘却された記憶の中に凄惨に、遁れ獲ることなく失われて仕舞った、だれもあずかり知らない罪のせいにしてとりあえずは納得してやるのか。

いずれにしても、彼女は救いようがない。

なぜ、と、フエは想った。なぜ、顔を壊したクイは英雄で、この女は壊れ物なのだろう?同情にしても、排除にしても、忌むべき、特殊な存在にしかすぎないのだろう。差異。

あざやかに、匂い立つ差異。

まるで双子のようだといわれる、そっくりなチャンとフエ自身でさえ、ふたりが鮮明に描き出す差異の匂い。

固有のもの。

ティエンTiềnはフエをは愛しても、チャンをは愛さない。アンはフエに焦がれてもチャンには焦がれない。公式上は単なる親族なのだから、チャンを抱いて仕舞えばよかったのに。

鮮明に刻印された差異の群れの事実は、眼の前の女の抱え込む差異すら巻き込んで、結局はすべてを統合不能なばらつきの中に散乱させて仕舞わなければならないはずだった。

そして、眼の前にいた女は、明らかにフエやチャンとは差異する特異性をだけ曝していた。

いじましいほどに、その腕と知性のない眼差しに悲惨さをだけ兆して。

生き物の、宿命的な暗い残酷さの顕現を、予兆させて。たかが、両腕を欠損させ、その頭脳を破綻させているというだけなのに。チャンの頭脳の破損。

アンの。

ダットの。

狂おしい嗜虐的な母親、ハンの破損。それらと、どこがどう、決定的に違うのか。そもそもの、それらの集合自体が、決定的な違いをきらめかせ続けるしかないというのに。

フエは声を立てて笑いそうになる。まるで動物のようだ、と、フエは眼の前のその、美しい肉体、細胞がかたちづくった生の集合体の、あまりの匂い立つ女性的な息遣いを、恥ずかしいものを見る眼差しで見出し、そして彼女は明らかに狂っている。

いま、眼の間で、女は表情をなくして、顔を挙げ、上方に向けて視線を投げ出して、…なにを?

と。

何を見ているの?

そんな、一瞬つぶやかれそうになった言葉をさえ、それがつぶやかれる前にはすでに忘却させて仕舞うほどに、かすかな恍惚を、その、なにも見出してはいない眼差しは冴えきった気配の中に曝す。

伸ばされた首筋が、あまりにも繊細な、複雑で、些細で、何の欠損もなく、そしてむごたらしいほどに空間を穿って、白く、匂うほどに白くやわらかい流線をさらして、淡い、雨の日の、開け放たれた木戸に差し込む光に戯れる。

だれもがそれを、美しいと断定してやらなければならない。

チャンが、傍らにフエに寄り添って、…行こう。つぶやく。クイに、勝手に入るなといわれていた。

ヴァンに見つかったら、何を言われる知れたものではない。そして、チャンが、眼の前の美しく、いびつで、壊れた、知性のない、肉体の生き生きとした残骸に過ぎない、そんな、容赦なく軽蔑すべき女性美の偶像を、もとから忌んでいたことくらいは知っている。…なぜ?

と、フエは想った。そんなにも嫌いなら、なぜ、彼女を始末して仕舞わないの。永遠に葬り去って仕舞わないの。

大切に匿って、遊離して、一日三色の食事を与え、一日一回、獣じみた喚き声を撒き散らされながら、外のシャワーで水浴びさせて遣る。抵抗する女を裸に向いて、ティエンThiềnと二人がかりで。クイにはやらせない。彼は男だからサンSángにも、ロンLongにも。立ち会っていいのはヴーだけだ。なぜなら彼はもう、すでに、残念ながら男などでは無いから。

女の始末は女たちがつけてやらなければならない。あまりにも健全な肉体。もっと男にふれられていたならば、あるいはクイが、もっと、健全な男でさえあれば、毎年いくらでも子供など生めて仕舞えたに違いない。彼女のように、美しい造型を。あなたは人間なのだ、と、耳元にささやきかける、自覚を矯正する美しさを。…愛しなさい、と。

その女が耳元にささやきかける声をさえ、フエは聞いた気がした。幼いマイが、あるいはホアが、あるいは自分がやがて生んだ子ども、そして、やがてチャンが産み落としたあのタオが、鮮烈にその体臭に、肌触りに、あるいはその造型そのものに刻印した声。…愛しなさい。

私のために、あなたのすべてを犠牲にしなさい。群がる。声が。その、もっとも鮮明な一つの声を、フエは聴く。

チャンは、フエが女に近寄っていてくのをあえてとめようともしなかったのは、ただ、フエを悲しませたくなかったからだった。フエを無理やり引き離して仕舞えば、彼女は非議を訴えるに決まっていた。いつも、自分の気に入らないことがあると、何も言わずに悲しげに見つめてくるフエ。

その眼差しは、いま、チャンが求めているものではなく、そして、その女にフエをふれさせるのは嫌だった。矛盾した逡巡のうちに、すべてはもはや手遅れに過ぎなかった。フエは、その、床の上にひざまづくようにすわり、上半身を、まるで見せ付けるようにえびぞりにそらしたヴィーの、頭を胸に抱いていた。矛盾した逡巡がやまない。チャンの頭の中で、そして、ふれてはいけない、と、チャンは、自分が想い続けていることをは知っている。フエに。あなたが穢れて仕舞うから、と、もう、すでに、手遅れであることの鮮明な認識と、彼女を穢してはいけないという認識が、お互いを疎外することなく綺麗に重なり合って、…あぅ。

と。

不意に、いたたまれずにチャンは唇の先、喉の奥にだけその音声を口にした。

誰にも聴こえないように。だれも聞いていないことは事実で、だれも聞くはずもなく、そして、誰にも、けっして、そんな事実などなかったかのように隠し通して、…あぅ。

… ử

…そうよ。と、その音声のとりあえずの意味に気付いたのは、チャンが、すでにその音声を吐いて仕舞った後にすぎない。

すでに、女の瞳孔は開かれきっていた。完全に、なにものをも捉えないその眼差し。匂い立つように美しく、まさに、女が女であることを明示する。喚起された欲望を周囲に撒き散らし、その造型の根拠など、それ以外には在りはしなかったことに、自分自身に対する軽蔑を抱えながら、抗いようもなく承認してやるしかない。フエは、女の頭を抱いて、胸に軽く押し付けて、毎日シャワーを無理やり浴びさせられているというのに、匂い立つ。女の体の、胸やけしそうなほどの、あざやかな香気、肌の、髪の毛の、それら、束なりあった、想い出す。

フエは、十歳のフエは、そして不意に入り口にたたずんで、おののきのような、何をも語りかけない単純すぎる、表情以前の筋肉の硬直を顔に曝したチャンを見つめ返したその瞬間に、クイが男ではないことなどだれもが知っている。

だれもが、英雄クイは傷付いて、もはや男ではありえなくなったことなど。そして、サンがヴァンの尻を、ときどき隠れて引っぱたくことくらいは知っている。だれもが。マイも、タンも、クイはヴァンに生ませることなどでるはずもない。ダットは女になら誰にでも尻を振る。やがてはチャンにも手を出して仕舞うのだから。壊れたチャン。あなただって知っている。そして私とチャンとは双子のように似ている。だれもが見間違うことなどない差異を撒き散らしながら、褐色のフエ、真っ白いチャン、アンは私には似ていない。お母さん似だから。フエはダットに似ているといわれる。そうなのかもしれない。そうに違いない。ダットはクイの弟なのだから、クイの親友はダットの友人でもある。まともに仕事もしないで、ほとんど一日を遊びに費やすダットは、一日中暇を持て余している。…知っている。

チャンも。ヴァンも。フンも。ホアも。みんな、いずれにしても知っている。認識されない事は、知られていないに他ならない。だから、知っている。そして、知らない。想い出す。

アン。最後の日に、夫を待ちながら、その帰宅の気配にさえ気付かずに、すでに、フエは眠って仕舞っていた。気配があった。眠りの、醒めかかった意識の中に、…いるよ。

と。

そこに。

声。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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