小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説⑩ ブログ版
ディオニュソスの女たち
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ
Μαινάδη
マイナス
口に流し込めば、それは、あまりにも豊かで繊細な歯ざわりを残して、口の中に消えていく。
やわらかい、美味の揺らめきだけを舌の上にもてあそんで。…おいしい、と、フエが言うと、チャンは泣きそうな顔で、終に穢されて仕舞ったフエを哀れみ、…でも。
ね?
あなただって、鶏肉は好きなんでしょ?
想わずチャンにそうささやきかけて仕舞ったフエに、クイはやがて声を立てて笑いながら、いい子だ、と、短く、シンプルに、そんな聡明なフエを湛えた。
ホー・ヴィ・ロンを流し込むハンの唇を見つめた。想う。いいのよ、と、母はそう言った。想い出す。母はそう言って、珍しくフエに笑いかけ、そして、食べなさい。そう言ったのだった。
大丈夫。まだ、生まれていないから。
敬虔で、いつでも賢く、未来を見通せる母の言うことなのだから、そこに偽り理など在ろうはずがなく。ならば、と、想う、フエは、想いだす、理沙の奪胎。出会って数日後の、理沙の、そして、私、…ね?
声。
彼女は言った。…殺しちゃった。それは間違いだと、その時、理沙に伝えてやらなければならなかった。未生のものを殺すことが、殺したと言う事実をは意味しないと言うのなら。
そして、未生でさえあれば、終に命に堕ちることなく、いわばハデス紀の雨の中に、たゆたってその、与えられた膨大な無意味な時間をまさぐる以外の意味を持たないというのなら、未生のうちに、すべてを殺戮して仕舞うことだけ、それだけが最後の、もっとも鮮明な救済であるに違いない。間違いなく、唯一の、絶対的な救済は、すべて、生まれる前に完全に滅ぼして仕舞うことだ。
例えば、断末魔の膨張する太陽がやがて、この地上のすべて干からびさせて、あらゆる可能性のすべてを完膚なきまでに破壊して仕舞うとき、その、最後の滅びのときに、顕れていたのは、むしろ唯一の救済の、素直な顕現そのものだったに違いない。それを、あの、紫色の空の下で、この地上における、滅びの究極の姿だとやがて、霞む意識の断片の中に、きらめいた一瞬の認識の、不毛さをフエは笑う。…あなたは、と。
終に救われなかったのよ、と。
すべて、淘汰された未来の、破滅された未生の可能性のすべての壊滅は、巨大な救済だったに違いない。生れ落ちたものの救済には、一切ふれもしないままに。
光。
神々の光は、紫色の空にしたにさえ、あらゆる物を刺し貫き、滅びていく、終に、最後の救済にさえ救い上げられなかった存在の群れ、取り残された残骸たち。
救われた。未生の、救われるべき必然性さえない永遠に未生のそれをだけ、不当にも、そして、論理的に正確に、救いあげて仕舞う最後のときのきらめき。
光。…食べなさい、と、ハンが言ったその音声を、もう一度フエは耳にした。それは、想起された記憶が、頭の中に反響させた声の残像に過ぎなかったも知れず、そして、光。
想いだす。
フエは、いつでも見い出していた。それら、救済の、意志ある神々、…あるいは、意志そのものとしての神々の容赦ないきらめき。
光さえしない、光の、きらめきのない輝かしいきらめき。
救済。
アンは絶望する。
救済。
わたしに触れるたびに。
救済。
アンは、その眼差しに、
救済。
暗いみずからの情熱にそのみずからを
救済。
絶望的なまでに傷付けて、
救済。
もはや、と。
救済。
アンは知っていた。すでに、
救済。
彼がいかなる意味においても、
救済。
何者によっても、もはや、
救済。
救われ獲ることなど在り得ないのだと、
救済。
アンは、
救済。
知ってる。
救済。フエを愛する限り、彼は永遠に絶望しなければならない。…なぜ?
なにものにも、いちどたりとも、いまだ絶望などしてはいないのに。瞬いたフエに、アンは不意に微笑みかけた。自分の体の下に息遣うフエに。アンは、その、十三歳の身体を、そして、…ね?と。
いつか、姉に聴いてみようと想った。どうして、あなたは、私を見つめるとき、そんなに、目に映るものすべてに絶望し果てているかのような眼差しを曝すの?
どうして、あなたは絶望しか出来ないの。いま、あなたが焦がれ、唯一愛している男が、あなたに、あなたが彼のものだと言う刻印を、あなたの体に与えているこの時さえも。
唇に。肌に、体内に。この、至上の幸福。
あなたの、この至福のときにさえも。
なぜ?…と。その、眼差しにさえ語られない言葉の群れに、フエがふれることなど終にありはしないことに、アンはおののいた。なにも、なにもかも、終にはふれあいさえしなかった。時に、容赦もない破壊をさえその身体に与えながらも。
フエは想い出す、フエの結婚式の前夜、いつもと違って、父親の帰って気はしない自分の寝室にフエを連れ込んだアンは、彼女を抱いた後に、不意に、思い出したように言った。…なぜ?
夫になるべき男と、父親を含めた家族たちの、結婚式を明日に控えた酒宴が終わりはしないことなど知っている。
どうして、…
そのままクイの家で、眠り込んで仕舞うに違いない。あの、チャンの傍らで、彼らは。
なんで、…
あの日、チャンを、あの穢いダットが穢して仕舞ったときと同じように。
…ね?
アンはフエの胸に、顔をうずめながら言った。あなたは、なぜ、好きでもない男と結婚するの?
好きだからよ、…と、フエはその言葉をは口にしなかった。あからさまに曝された、フエのその雄弁な気配には築こうともしないままに、アンは、歎く。
不幸な女は、終に、愛にさえむくわれることもなく外国の男に自分自身をさらわれていく。
アンは、フエが、自分をしか愛せないことなど知っていた。アン、いとしのアンそのものをしか。アンはフエの、絶望を想った。アンを、想い断って、アンを傷つけ、何より自分自身をぼろぼろに、傷付けはてることでしか、自分自身のあまりにも明確な愛を報うことが出来ない。フエにとって、アンを愛する事の最後は、愛そのものを自分の手で破壊して仕舞うことでしか在り得ない。悲しみのフエ。
アンは、姉のために涙を流して遣るべきだった。涙を流すには、涙を流すべき衝動が、アンには決定的に欠落していた。想い出す。フエは、結婚式の前日にさえ、アンを拒みはしなかった。…好きにしなさい。
捧げられた。わたしは
いつものように。
すでに
想い出す。
美しいあなたに
…ね?と、
ミトラスに捧げられた仔牛のように?
お互いの眼差しが、その日の朝、
あなたはわたしを屠る
クイの家で顔を見合わせ、眼差しを重ねた瞬間に
食べなさい
聴き取られた意味を成さない無言の気配が、明示していたもの。
ほら
ふたりが、これから成すべき事。
あなたが咀嚼して、喰い散らしてしまうべきもの
…でしょ?かさねること。肌と肌を。そして、その。想い出す。
その日、フエが誘って、アンを、明日夫になる男の帰ってこないフエの寝室に連れ込もうとしたときに、アンは不意に拒絶した。…やめよう。
フエは、その拒絶の意味を取られきれなかった。…なに?
なにを言ってるの?
言葉のない眼差しの交換のなかに、そして、アンに、彼の寝室に連れこまれるにまかせた。
アンが自分を抱いている間中に、その、息遣いを耳元に感じながら、想いだす。その時に見出していたもの。
天井にへばりついた未生のその、色彩をなくした残骸。
流される血が、天井には触れもせずに、一直線に上方に立ち上る。糸よりもほそい線分そのものとなって、眼差しには、捉えきれてなどいないままに、その色彩。
あざやか過ぎる、その。
色彩、…のない、残骸。もはや、原形をとどめず崩壊した、色彩のない肉体の翳りは、獣じみた、張り詰めた肉体のでたらめな残骸となって、それ、…ホア。
未生の、その、すぐに死んで仕舞う愛しのホア。
アンの子供。
フエは知っている、想い出す。自分がどれだけ、未生のその子を愛して仕舞ったのかを。
その可愛らしさ、腕に抱いた触感。
やわらかく、筋肉の片鱗さえ感じない、ただ、このものを愛せと命じる肌触り。
匂い。
愛をしか掻き立てない、幼い香気。
知っている。何もかも、その、未生の子供失ったときに、流した涙の膨大な、止め処もない水滴の群れの、そのなまぬるい温度も。
匂いのない、香気のような鼻に衝く気配も。
未生のそれを産み落としたときの苦痛、そして、不意に流した一滴だけの涙、その、…そして、…それら、…いずれにせよ。
すべて。
もはや取り戻せもしないもの。
色彩のない翳りの眼差しはフエを直視して、…でも。
ね?…
あなたはもう、なにをも、見い出すことさえ出来ないの。
鼻に、フエが不意に立てた笑い声に、アンが、一種の戸惑いを曝す前に、アンは、フエの体内に命を残した。結ばれた、と、アンは想った。いずれにしても、最後に、フエが自分への苛烈な想いを断ち切って、叩き壊して、みずからの想い諸共自分自身を破壊することをさえ望んむその日の前日、最後の日、最期のときに、と、アンは、容赦のない喪失感に苛まれた。失った。
永遠に。
もはや、フエは、俺を、と、想う、アンは、永遠に、彼女はもう、もはや、すでに、失った、終には、と、想った。彼女は永遠に私を失った、と。
アンは。そして、フエは鮮明に感じた、自分がすでに息吹かせたもの。
その体内に。
育むもの。
覚醒させられたもの。
もはや、未生のものではない、未だに未生のもの。あの、星々の最後のときにも、その巨大な救済に終にふれられはしないもの、その、極小のもののあざやか過ぎる覚醒。想い出していた。
フエは、…私の子供。
そう、マイは言った。雨の日。テトの前でもないのに、その、7月の日に降った不意の豪雨。朝から晩まで、たたきつけるように降りしきった、その、土砂降りの音響、声。…私の。
と。
子供なの。そう言った十七歳のマイは微笑んでいた。もはや、何かを確信して仕舞ったことに、その確信の余りの強固さに、想わず、一瞬遅れて、眼差しをだけと惑わせて仕舞いながら。この子は私の子供です。
仏間に、フエと、マイと、ヴァンがいた。
チャンを、彼女立ちは見つめ、ヴァンの手によって、生み出されたその乳児は、いまだその体さえ洗いあげられてはいなかった。だれかが、下に行って、ミンMingかサンSángを呼んでこなければならなかった。
彼女たちは、すでに疲れていた。剃刀を当ててやる以外に、取り立てて何が出来るというわけでもないにもかかわらず、そして、意外にあっけなく、まるで排泄されるように、チャンの獣じみた怒号の中に吐き出されたその幼い生命。
まだ、私を愛せと、その定言命令をさえその身体に気配立てないままの幼い乳児。母親の血をかぶった、その。
ヴァンは、一人で息を荒らげていた。ふとり、ひたすら豊満に体をゆすりながらヴァンは、そして、マイの、沈黙し続ける眼差しの先を、フエは追った。
マイは、チャンが怒号を発していた間中、眼を見開いたままに、ひたすら、窓の向こうを見つめ続けていた。そこに誰かがいるかのように。そんなもの、どこにもいないのに。ただ、眼の前の出産の惨状から眼をそらさずにはいられなかっただけなのに。
いまや、完全な沈黙と、静寂に覆われたように思えた。耳に、外の主幹道路の、交通の騒音が耳にふれ続けながら、そして、降りしり、匂い立つ雨の轟音が。チャンは、すでに、失心しているのかも知れなかった。何も言わなくなったのだけなのかも知れず、そして、不意に眠り込んで仕舞っただけなのかも知れなかった。そのすべてに違いないことを、フエは確信した。
この子は自分の子供だとマイが言ったとき、フエは、彼女がそう言い出すに違いないことなど知っていた。すでに、マイから聞いていた。私が育てる、と、そして、フエはそれを押し留める気はなかった。いかにも繊細な気配をただよわすマイは、そんな少女に限ってときに曝す容赦のない強情さを、いつも、好き放題曝すのが常だった。何を言っても聞かないことなど、フエはよく知っていた。
ヴァンは、かつてチャンが自分の両眼を抉り出す前に、あまりにも残酷に、無残に殺して仕舞った娘が不意に、想い出したように言ったそのけなげすぎる言葉を、そのまま耳で聴いたとき、そしてフエは、ヴァンが、声をなく、表情さえ変えずに一瞬で激高したことに気付いた。腕に生まれたばかりの赤ちゃんを抱えてさえいなかったら、すぐさまマイをひっぱ炊いたに違いなかった。…いいわ。
不意に、ヴァンは言った。
好きにしなさい。…あなたの、と。
あなたの子供よ。そう言うヴァンの言葉を、マイは窓の外を見つめ続け、その、自分の子供をいまだに一度も眼差しにさえふれさせないままに、何か言いかけて、口を閉じた。
だれにもなつかないマイ。
繊細で、周囲の空気がおののいてふるえるほどやさしく、悲しげな眼差しをしたマイ、笑ってさえいても、…ね?
悲しいよね、と、不意に差し込まれた悲しさへの同意に、人を戸惑わせて仕舞うマイ。
自分の子供を、顧みもしないマイ、とは言え、人々は、その生まれ落ちた子供をマイの子供だと認識するほかなく、そして、マイが自分を母親として認識していることには気付いていた。まるで、と、想う。フエは。
あなたはハンのようだ、と。
気付く。フエは、同じように、自分も、と、その結婚式の前日に、久しぶりに会ったマイの、悲しげな気配を匂わせただけで、表情を明確には曝さない眼差しを時に偸み見ながら、同じように、わたしは。
想う。生まれたに違いない、と、想えば、わたしは、ハンと同じようなマイ、愛してるの?あなたは、タオを…と、フエの、そして、知ってる、あなたは愛していた、タオを、ハンは、私を、同じように、と、想う。
フエは、タオと同じように、自分自身も生まれたに違いないと。
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