小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説⑨ ブログ版






ディオニュソスの女たち



《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel



《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ

Μαινάδη

マイナス









時に、痙攣して男の腹を蹴り上げて仕舞いながらも、哄笑。

あざやかな笑い声の音響。

反響。壁から壁へ。

鼓膜の中に。

木魂す、それら嬌声。統制など取られようもない、好き放題な彼らの饗宴。

雨が匂う。…想い出す。

フエは、その時に、いつかも同じような匂いを嗅いだことがあったと、その、未来のいつか、転生の果ての廃墟の中で、鼻からもはや止まらない血を垂れ流しながら、冷たい、あまりも原始的ななま暖かい雪解けの豪雨の中で。

身をくの字にへし折って、ブーゲンビリアの木立の下で。あの男が自分を探し出すのを待つ。

雪を、雨が溶かす。上空に、熱波が訪れているに違いない。地上は凍りつきそうなほどに寒いのに、肌に触れる雨はあからさまに温度を持っているのだから。

かつて、インドネシアと呼ばれた熱帯の島国の、小さな島で。…此処よ、と、その時彼女はつぶやきそうになることを想い出す。あの男、ダット、ジウ、…彼ら、つまりは彼、彼を、呼ぶこともなく彼女は待って、逃げ出したのは自分だった。

あなたはなんども、私を穢して仕舞ったの。いま、無償の愛を、歎かわしいほどに私に捧げるあなたは、と。

想う。彼女は、いま、彼は彼女を血眼で探し回ってるに違いない。彼に抱かれた後に、もう長くもないのに、無理やり素肌を曝したまま、寝息を立てる彼の傍らを抜け出して、廃墟の集落を彷徨う彼女を。

空が赤い。

…紅に近い、濃い赤さに、外側から差された雲は、その色彩をやさしく曝す。最期の時期の、雨の色彩。もう一度訪れる、いわばハデス紀の雨。

笑うしかない。なぜ、人類たちは、自分たちの存立根拠の突端たるその時期、突破のながいながい時間を、いつでもあえて死者の国の王の名で呼ぼうとしたのだろう。まるで、自分たちの生など二次的なものに過ぎないと、さげずまないでいられなかったかのように。自分たちのすべては、破壊と廃墟と死滅と永遠の沈黙の中にいだかれて、生起した不意の錯誤に過ぎない。…と。

雨。

降りしきる、その温度。雨がフエの、隠しようもなく曝された素肌をなぶるように打ち付ける。

正面の庭の真ん中に、《盗賊たち》はフエを投げ棄てた、何度目かの苦痛の爆発と、何度目かの失心に目覚めかけながら、フエはおののく。

すでに自分は失心していながら、自分が失心している事実を鮮明に意識している。…声。

いぃいぃ、…と

んー…あ。…あ。あ。あ。

ん、いぁーいあ、おあ。お。

う、たーあ。

あん、あ

いあぅ、うぁあぅ、…ううー…

うる、るるぃうあ。

てぇ、えー…いぁいぃ。

うぃ、んー…。

あ、あ、あ。ああいあいいいい。

てててててててててててて。

い、てぃちてぃと

いーん、んー…

はんな、な。な、ぃ。な。な。

って、てーえ。えー…。

と。

とーお。

お。と、おーと、おー…。

お。…おー…。

男たちは声を立てて笑った。フエが

いぁ。あ、あ。

口に立て続ける、それら

あー…あ、ん。あ。

鮮明な音声に、彼らが自分の

おぁーあ、あ。あ。あ。あ。あ。

発狂を確信したことには、フエは

いあぁ。ぁ。ぁんぁ。ぁ…―…―ん。

気付いていた。…ばか。と。馬鹿な

い。いん、む、やー…。

男たち。フエは想った、彼等はわたしの

ん。ん。あぁい、と。

ことばさえ聞き取れはしない。鮮明な

ととー…る。

言葉。フエは哀れむ。自分が

うらぁあー……

抱いている女の狂気を、もはや

ぃあああ、あ。…あ。

信じて疑わない男たちは、それでも

と、んと。と

気味悪がりさえ出来ずに、じぶんを

とー。と。…る。

ただ求め続けて、饗宴。男たちは

る、ぅるー…ぅん。

罵りあうように声を上げて、疲れ

んぁー…ー…ー…

果てて、あるいは

んんんん。

彼らそのもが破綻して仕舞うまで、もっと、

とと。とん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、ん、

と。求められ続けるフエは、壊されながら

てん、んー……る。

彼らのために歎く。隠しようのない

ぃるぅー…う。…る。

憎悪にまみれ、…いじらしいもの。手を

る、ぁあーは。

添えて、守ってやり、いつくしんで

きぃっ、っぃ、ぃっい、き。

やらなければならない、ただ、

と。んきぃっ、きっ、ぃっ、

いとおしいもの、《盗賊たち》自分の

る、あー…あ。る、

体のうでで、自分を破壊しながら

て、てててててててててててん、って、て。

踊り狂う男たち。

ちとーて………ぃゅっ、

可哀相に、と、フエは想う、わたしが

ていっ、ぃっつっぃいっ、…て。

破壊して仕舞った、魂の残骸の

るうー…、…、ー…る、ぅる。

群れ。もはや、

あなっ、や、ややややぃっ、や。

あなたたちは、と、

て。

想う。フエは、私に

ぃるっぃって、ん。

焦がれて焼き尽くされるしか

ぃきぃっ…つ、…っいぃ、い。

ない。冴えきった意識のなかで、

てた。るぅーん。

フエは鮮明な音声を

とぃー…ん、…るたっ、…っ。

立て続けた。始めて

てぅっ、た。

言葉そのものにふれた

るぁうっ、…ぃーあー…

気がした。それは

てぃっ、…

誰のものでもなかった。フエの、

るぁきぃっんって…ん。

自分自身のものでしか

とぅぃっいー…るた。

なかった。…終に、

ぅとぅおぃっ、てー…

と。フエは想い、

ええええんっにぇ。

発する。それら、あまりにも

てぇー…てぇー…てぇー…ぃっ

鮮明な言葉の群れ。冴えきった、

きぃっ、っっっ、て、ん。ゆぃぇっ、…っき

意識に一点の翳りさえない。

るぅううー……ん、

ぅうるぅぅぅぅうう、う。るううぅぅー……と、そんな風の音にフエは振り返り見た。笑い声をたてるホアの、その、笑い崩れた顔。暗い夜、とは言獲ない。開発途上の深夜のこの町に、地上を照らし出す照明などほとんど存在などしなかったが、隠しようもなく笑みに崩れたホアの眼差しはフエを見つめていて、その、産毛さえ、薄暗い鮮明さの中に、フエは見い出せていたように想った。

ホアが、水しぶきを立てるたびに、自分が嬌声を上げている事は知っている。海水に濡れたホアの衣類などはぎとって仕舞って、フエたちはもはや素肌を絡めあってじゃれあった。海が匂う。

決してその中では生き延びていけはしないことを、耳元に大声でなじったような、あまりにもあざやかな臭気。

泥臭く、穢らしく、破滅的な匂い。そこに堕ちて仕舞えば、あなたの肉体は死んで仕舞うのだよ、と。

破壊するそれ。例えば、昼を照らし出すあの太陽の表面と同じように。

燃え滾る、破滅の炎。素肌を曝せば細胞ごと焼き尽くされる。

やがて降り始めた雨にさえホアは嬌声を立てて、その時、意識の片端に、フエは想い出す、あの、土砂降りの雨。

男たちの咆哮、確かに、と、あの時と同じ、と、想い出したフエは水しぶきを上げて、降りしきるそれ。…雨。

南部の雨期、あの、空が壊れたスコールのような雨の。

フエが嬌声を上げるままに、ホアはたわむれて撥ねた。フエは、雨の中に、素肌に打ち付ける雨の触感と、困難になりさえする呼吸を肺に鮮明に感じ取りながら、想い出す。素肌に打ち付ける雨、記憶。思い出した。フエは、眼を見開いて、天井を見つめたまま、フエは、夫が還りつくのを待っていた。そして、強姦された、あるいは、愛された、あるいは、終に想いを遂げた、単純に、曝された自分の、だれかに抱かれた後の素肌を、その眼に見留めるのを。

ジウが離れた後の肌に、容赦のないうち棄てられてあることの孤立のみがふれる。あなたは、と。

すでに、もう、とっくに、もはや、棄てられてここにいる、と。声を立てて笑いそうになりながら、フエは、そして息遣う。

聴く。フエは、自分の、そして、想った、耳を澄ませば、自分の心臓の音さえ聴こえるのでは無いかと、あるいは、未だに未生のときに、母の胎内で聞いていたらしい体内の騒音。皮膚の外から、例えばあの夫の胸に顔をうずめて、耳をぴったりとつければ聴き取れた、その、すさまじい騒音。

体の単純の大きさのせいで、おかしいくらいにほほえましく感じられたそれは、未生の、母の子宮の中に眼を開けることなくうずくまっていた小さなサイズで、羊水のかすかな震動にじかにふれられて聴き取られて仕舞えば、それは余りにも巨大に鳴り響いた轟音だったに違いない。

かつて、と、フエは想った。あの、アンチャイ、…菜食日に、ホー・ヴィ・ロンの露店にバイクを、不意に止めたハンに、…ねぇ。

菜食日よ。

ハンは、沈黙のまま尻をゆすって、下りろ。

ただ、それだけを十二歳のフエに命じた。いつもは、学校の送り迎えはダットの仕事だった。聡明で、知的で、敬虔で、謙虚なハンは、まるでふれずに済むのなら、永遠にフエにふれずに済ましたいのだとばかりに、フエの世話の一切をダットとフンに押し付けていた。

それに対して、フエは何の非議を訴えるでもない。フエは知っていた。母は忙しい。そして、母は私へのあふれ出る愛を、私への拒絶でしか示すことなど出来ない、と、そんな事は、フエはよく、そして、赤いプラスティックのテーブルに席を取って、隣の男たちの服にしみこんだ汗の匂いを嗅いだ。

フエは、ホー・ヴィ・ロン、その、孵化寸前の茹で卵を、ふたつ注文したハンに、…いいの?

その言葉を、上目遣いの眼差しに曝しながら、飲み込んで口には発さない。沈黙し、うずくまるフエに、ハンが苛立っているのは知っている。

いいのよ、と、不意にハンは言った。小さなお猪口に、卵を立てて、その先端をスプーンで叩き、殻を割りながら、そして、塩を振って、卵を唇に運び、飲み込む。そのスープだけを。

フエは、見つめた眼差しに、その、固有の風味と言うしかない臭みを伴った匂いと、芳醇な、甘やいだ味わいが、ハンの口の中に拡がっていくのを感じた。

それは、クイの好物だった。命、…だよ。

家の、氷屋の店先に出した赤いプラスティックの椅子に座り込んで、持ちかえったホー・ヴィ・ロンをスプーンで掬い取りながら、不意にチャンに振り向いて言った。…つまり、命の、味。

どう?…お前も。

チャンがあわてて首を横に振るのを、フエは笑った。クイが、殻の先端を割って、穴を開けてくれたそれを唇に当てて、その中のスープを飲み込んだとき、フエは、命の鼓動を感じた。命の味覚が、これほどまでに美しく、おいしいのなら、例えそれが屠殺の罪に塗れた行為であったとしても、それを求めないわけにはいかないに違いない。

菜食の僧侶たちを、むしろフエは哀れんだ。彼らは、結局は、この世界の美しさも、残酷さも知りもしないで、あるいは、全部見なかったことにて、自分勝手に滅び、死んでいく。人殺しや犯罪者たちが時には語り継いだあれらの経文の群れを読み散らしながら。掬い取ったスプーンにねじ切られた、やわらかい首と頭部がフエを一瞬おののかせたが、覗き込んで、すぐさま顔を背けた傷付きやすいチャンの、いまにも吐きそうな、まるで、禁忌にふれたかのような眼差しを、フエは笑った。

口に流し込めば、それは、あまりにも豊かで繊細な歯ざわりを残して、口の中に消えていく。

やわらかい、美味の揺らめきだけを舌の上にもてあそんで。…おいしい、と、フエが言うと、チャンは泣きそうな顔で、終に穢されて仕舞ったフエを哀れみ、…でも。

ね?

あなただって、鶏肉は好きなんでしょ?

想わずチャンにそうささやきかけて仕舞ったフエに、クイはやがて声を立てて笑いながら、いい子だ、と、短く、シンプルに、そんな聡明なフエを湛えた。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000