小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説⑧ ブログ版
ディオニュソスの女たち
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ
Μαινάδη
マイナス
ハンの握りこぶしがフエの額をうった。ダットは、一瞬気付かなかったふりをして、ややあって、付かれたように妻を激高させた娘を、遠巻きになじった。
フエにはなにも聴こえなかった。…違う、と。
フエはそう想った。想っていたことと違う、と、フエは茫然としながら、とはいえ、何かがすでに予測されていたことなど在り獲ない。何も予測などされていなかったから。
なにも考える余地もなく、表情のないハンの顔色を伺って、自分の存在感を消したまま、通り過ぎようとしただけだったのだから。
フンと、トゥイがブランコに座っていた。だれも、一体何が起こっているのかわからなかった。
ハンの折檻はやまなかった。壁に投げつけられて、フエは息をついた。一瞬陥った、ほんの数秒の呼吸困難に、…大丈夫。
想った。
わたしはまだ生きている。
ハンに髪の毛をひっつかまれて、不意に決壊した涙と鼻水に塗れながら、フエはブーゲンビリアの下になぎ倒された。
雨上がりの泥に塗れて。
どうせなら、また、さっき上がったばかりの大雨が降りしきればよかった。学校の前で、自分を待っていた時の、ダットが打たれていたような。
雨合羽をさし出したダットの傍らに駆け寄りればその瞬間に、雨は弱まって、ものの数秒でやんで仕舞った。
ただ、空間に撒き散らされた雨の匂いだけが残った。…どうせなら、と。
あの土砂降りの雨が打ちのめしてくれればいいのに。
見あげればブーゲンビリア、その花々、咲き乱れたむささきに近い紅の色彩。匂い立つその花々の香気。
匂う。雨の気配の中に、より一層の鮮度で、それらは一気に。
ハンの忙しく開閉されるゆがんだ唇が、自分をひたすら罵っていることには気付いていた。
フエは、その眼差しを、地べたに倒れこんだまま無防備に見あげて、聴き取れはしない。
まるで、外国語のように聴こえた、聴き取れない言葉などなにひとつなく、言葉の意味の分からない瞬間など一瞬たりともない明晰な気違いのハンの言葉は、フエには、どうしようもないくらいに、何を言っているのか理解できない。…教えてください。
フエは、無言のうちに願っていた。
お願いですから、と。
願う。その眼差しにさえ、表情をなくし、なにも訴えかけることが出来ずに、ただ一途に彼女は願っていた。…あなたが、と、何を…願っているのか、ね?お願いなので、…ください。教えて、言っているのこと、あなたの、と。そして、お願いです。どうか、言っているのか、なにを、あなたは、と、あなたが何を言っているのか教えてください。
聡明なハンの眼差しに、どんな表情が兆しているのか、それさえフエには認識できなかった。あまりにも激しい逆光の中に、それは存在しているとしか想えなかった。曇った空の下、鮮明に隈なくその表情の隅々まで曝しはてながら、その、ハンは。
フエを引き摺りたたせたハンは、フエの衣服を剥ぎ取って行った。ダットの眼差しにも、それが余りにも悲惨な現状に見えたに違いなかった。
急に、なにかの用を想い出したダットは、そのままバイクを切り返して、門の外に出て行った。
雨上がりのハン川が、泥色の濁流を日差しの反射のさざ浪立つ白濁をいっぱいに散らした。
庭の真ん中で裸に剝かれたフエは、泣きじゃくりながら、もはや恥じることさえ出来なかった。衣類の中からはなにも出ては来なかった。ハンはフエをひざまづかせて、吐き出せ、と言った。…食ったんだろう?
腹の中から吐き出せばいい。ほうきで背中を打ちつけるハンの暴力に、フエはもはや耐えることなく好き放題に泣き叫び、その痛みに耐えた。顔中に、突っ込んで仕舞った泥水の香りが匂い、腕に、脛に、地面の粗い触感がある。
知っている。フエは、彼女自身の最後のときも、襲い掛かってい来る同じような触感。…雨。
降り止まない雨。
泥水と、男たちの暴力に塗れる。女は、わたしに抱かれているに違いない。私のうちで。終わり。
私の終わり。わたしだけの、と、不意に自分が上げた獣じみた低音の叫び声を、フエは自分の耳に聞いた。
「花、」…ね?
Chi
ふたたび、
Hoa
耳元にささやかれたホアのやさしい声を聞いた。
耳の中に、フエはその響きをなぜた。眼を閉じて、こんな時間に、こんなところにまで連れてきて、フエに見せようとしたその花をは、見向きもしないままに、フエは自分が抱いた、ホアの触感を、ただ、その存在ごといつくしんだ。
ホアに求められるままに、フエは海に戯れた。浪に飲まれかかったホアが潮水の味覚に顔をしかめ、何回もおおげさに顔を拭き、…海。
浪立つ。
フエは聴く。かならずしも聴き取ろうとしたわけでもなく、耳にふれ続ける浪の音、不規則な、そして、耳元に立つホアの嬌声の向こうのそれ。
海。…行かないで。
と。
フエは想った。ジウが、余りもあっけない行為の、それでも彼に与えたらしい深刻な疲労を、しばらくの休息にも癒し獲ないままに、疲れ果てたジウが自分からその肌を離して、寝室に自分を置き去りにしようとしたときに、…ねぇ。
行かないで。
そう、つぶやきそうなったフエは、不意に笑いそうになる。わたしは、と、想う。彼を憎んでいる。愛することなど不可能だ、と。あるいは、そして、…と。フエは、彼を愛している。想う。誰を?
眼の前の男を、そして、眼の前の男、彼を、
…と、憎む。フエは、
愛した。もう、すでに、彼を。
想う。
憎しみ。
誰を?
…憎悪。
眼の前の男を。寝室から立ち去る前に、男は一瞬、フエを見返した。その眼差しに鮮明に浮んださげずみが、そしてフエはすでに知ってる。
想いだす。
あなたは私を愛さない。
けっして、と、愛さない。
あなたは私を、絶対に、と、想い出されたその事実に、どう?家畜のような下等なメスをその体に抱いてやったあなたの気分は?…ジウ。
あなたはもうすぐ、殺されて仕舞う。
フエは歎く。…知ってる?
あなたはわたしに、もうすぐ、と、瞬いた瞬間に、フエは自分が泣いてもいないことに気付いた。なぜ、と、フエはたじろぐしかなかった。わたしは泣きもしないのだろう。
こんなにも、全身が悲しんでいるのに、と、フエは気付いていた。いま、ダットは、フエ自身をすら穢したのだった。呪われた男、あの、憎しみしか駆り立てない、破壊した事実もなければ穢した事実もなく、破壊し、穢しつくして仕舞う男が、自分自身をさえも。
地に落とし、汚物に塗れさせ、泥の中に投げ棄てる。…赦されてはならない。
あなたは決して、赦されてはならない。フエは、瞬くその一瞬にさえも、自分が愛したあの、愛しいジウの面影が兆すのを感じた。
ジウは、すでに、自分を見棄てて立ち去った。
フエは、永遠に穢された。
すべては破壊されて仕舞った。何度目かに。
フエは、その無残な事実だけを確認し、空間に漂うジウの名残らせた気配に、彼に、焦がれた。
もはや、フエは想いだす。それら、肌に散乱したジウの触れた痕跡の群れ。いとしい男。フエは、自分がすでにジウを愛していたことを確信するしかなかった。それとも、記憶。
想いだす。それら、ジウの痕跡にかさなって、あの男たち、そして一人残された女、自分がかつて抱いた女の妹、ミーの恋人、最後にミーを見棄て、そして、同時に彼女がミーを見棄てはしなかった証拠として、彼ら、《盗賊たち》に町の一区画を焼き払わせて仕舞った女。
あの美しい肥満しかけた彼女の名前は一体なんだったのだろう?
あの女に命じられたに違いない。あるいは、彼らが当然なすべきだった報復を、彼らに赦してやったのは、紛れもなく彼女に違いない。
家に押し入ってきた《盗賊たち》の所業を、彼女はブーゲンビリアの向こうの白塗りの門を背にして、ヘルメットもかぶらずに確認していた。すぐに、きびすを返してバイクを走らせて、…行ってはいけない。
フエは《盗賊たち》、その男たちに殴打されながら、彼女のためにつぶやいた。声に発されない、その音声は頭の中に無際限に木魂して、いま、と、想った。
フエは。わたしは、いま、叫んでいると、フエは想った。
なぜ、と、彼女はその女のために想った。自分を穢すために、私のところに行くのだろう?
あの、いまだに明確に愛している、その男、自分の結ばれた夫が、彼女を穢して仕舞うことなど知っている。すでに、そして、その瞬間にも想いだす、その手ざわり、自らがかつて曝した、その女に対する軽蔑を素直に曝したただ、残酷な眼差し。
行ってはいけない。あなたは、結局は、壊されて仕舞うのだから、と、想いだす、フエは、彼ら、…声を立てて笑い、甲高い嬌声を上げた《盗賊たち》は、いきなり両方の門から入ってきた。アンを殺しはしなかった。戦意などとっくに、なし崩しに崩壊させられ、廃人じみて、なんどもその不意の失心から目覚めてはふたたび失心して仕舞いながら、血まみれのアン。
小指を折られ、鼻血まじりの鼻水を垂れて、へし折れた前歯を吐き出す。
悲惨な現場。悲惨さとは、と、こういうものを言うんだよ、と、明確に顕示されたようにあざやかに、どこかに、もはや、行き獲るところまで言って仕舞った爽快ささえあった。もう、未来などありはしない。
声を立てて笑いそうになるフエに、男たちは気付かなかった。男立たは家屋の中を引きずり回して、フエをなぶるように壊す。男たちにフエの衣類を剥ぎ取る手間などかからない。なぜなら、その間に、愛の言葉さえ語ることが出来ずに、自分の不明確な感情にうずもれるようにフエを抱いたアンが、彼女にすでに、素肌を曝させていたのだから。裸を曝して、暴力を避けるために、床の上、子供のように丸まったアンを、男たちの数人が、緩慢な歓声を上げたときに、丸刈りの男が蹴り上げる。…そんな気、ないんだけどね。
もとから殺して仕舞う気などない。 する気などさらさらない。色気のない痩せた眼の前に女に興味などない。…そもそも無用な殺しなど俺たちはしないんだ、と。
俺たちはちゃんと倫理を知ってるからね。仏様も言ってるんだろう?殺すなって。
…明日は菜食日だぜ。
壁にたたきつけられたフエが、一瞬の失心にしろ眼を剝くのを、男たちは見たはずだった。
投げ飛ばされたフエの身体が黒いテーブルを倒して、派手な音が立てば男たちは一気に声を立てて笑った。
男たちは、情欲に駆られたわけでもなく、まるで、癒しがたい獣じみた に狩られたように、そして本物の獣になっていく。
フエは最早身を守る気もなくて、押し倒されるままに体を開いた。あるいは、彼らを赦したのかも知れなかった。
好きにしなさい、と。彼らを赦し、手に入れなさい。
いいの
彼らを、フエは、
抱いて。…ね
欲しいんでしょ?…あなたが、欲しいものを。
いちばん綺麗なわたしがいま
受け入れた。そして、
あなたのその
手に入れなさい。いま。
眼の前にある
見開かれた瞳孔をさらし、そして、
抱いて。…ほら
あなたが望むままに。
夢のように
フエは
綺麗なわたしを
彼らを嫌悪した。彼らのもっとも速やかでもっとも残酷な死と、もっとも悲惨な破滅を願い、そして、永遠に彼らがだれよりも呪われてあることだけを望み、ただ切実に求めた。フエは、彼らの一人、押しかかってきた最初の男を抱きしめてやった、…永遠に。
…好き?
破滅して仕舞えばいい。
綺麗に咲いた、美しい花の花の蜜
何も感じなかった。たしかに、フエは、暴力に曝された身体が、繰り返した一瞬の失心の群れが、いつか、彼女の意識を白濁させて、フエは無垢だった。もはや、目に映るものすべて、憎むことも、赦すこともできなかった。
ましてや愛することなど。
彼らが何をしているのかフエは何も、わからなかった。ただ、そこに自分が存在していることだけは忘れられてはいないことを、フエは遠い意識の中に自覚していた。男たちが、自分をなぶる。…ねぇ。
と。
フエは冴えた意識の中につぶやき続ける。あなたたちは、結局は愛し続けるしかない。慈しみ、そして、焦がれて。
そうするしかないから。たとえそれが、その対象を穢し、破壊する以外の結末をしかもたらし獲ないことなど、すでに完全に知ってさえいながら、あなたたちは愛するしかない。
あなたが私を欲しがって、求めていることを知っている。曝された暴力のすべてが、大声でささやいていた。…愛している。
お願い。
幸せになって。…いとしい人、と、ただそれだけを。
いぃ…い
と、フエは言った、最初のその一言は、男の耳にふれなかった。その、短髪を金色に染め上げた男。
男たちは、何人かの蹂躙の後で、戯れにフエを担いで、そして、もはや完全に脱力したフエの両腕は、そして両足は、好き放題に揺れ動く。時に、痙攣して男の腹を蹴り上げて仕舞いながらも、哄笑。
あざやかな笑い声の音響。
反響。壁から壁へ。
鼓膜の中に。
木魂す、それら嬌声。統制など取られようもない、好き放題な彼らの饗宴。
雨が匂う。…想い出す。
フエは、その時に、いつかも同じような匂いを嗅いだことがあったと、その、未来のいつか、転生の果ての廃墟の中で、鼻からもはや止まらない血を垂れ流しながら、冷たい、あまりも原始的ななま暖かい雪解けの豪雨の中で。
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