小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説⑦ ブログ版
ディオニュソスの女たち
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ
Μαινάδη
マイナス
フエは、そしてホアは声を潜め、足音を忍ばせた。
夜になると涼しくなるダナン市の大気が、フエの肌にじかにふれていた。それが鮮明な、肌寒さだけ、ただ、感じさせた。…ねぇ。
フエは声もなくホアを呼び止めようとした。
…ねぇ。
凍える雪の下に埋もれたまま咲き誇った紫陽花の繊細な花の色彩を
呼び止めたところで、なにも
あなたは見た事があるか?
言いたいことなどありはせず、言うべき事もなにもない。
ホアが、なんども振り返りながら、自分にいざなわれたフエを見い出し、その眼差しになんどかフエを確認して、あるいは、ホアはそのたびに笑みをこぼす。…あ。
と。
そこにいたの?
あら…
ホア。
…よかった。
可愛いホア。
ハンに何と想われようとも、フエがホアを愛している事は事実だった。不意に、想った。フエは、アンが、やがてうたた寝から醒めたアンは、自分しかいないベッドの上の孤立した気配に、戸惑っておののきさえするに違いない。…どこへ?
と。
どこへ行ったの?
アンは、フエを探すだろうか?
あなたは
開けっ放しの木戸に気付くだろうか?
わたしを探していた。なぜなら
自分を捨て置いたフエを、
わたしがそこに
なじるだろうか?
いなかったから
誰かが、あるいは
わたしと出会う前にはすでに、あなたは
悪魔が、
わたしを探していた。ずっと
連れ去ったのかも知れない自分を
あなたの傍らにわたしがいなかったから
案じるだろうか、愛しい人、…と、フエは、あなたには私に問いかける、と、そう想う。
どこへ行ったの?
間違いなく、あなたは、わたしに、
何をしてるの?
問いかけるには違いなく、けれど、
何をされてるの?
わたしは答えることなど出来ない。…だって、私自身、そんなこと、まだ、なにも知らないのだから。どこへ行くの?
と。
傍らには不在の、そして声を届けようもないアンのためにだけ、フエはホアに問いかけようとした。
その、眼差しの気配にさえも、そんな問いかけなど曝さない。…海。
海に出た。
やがて。
かなりの距離を歩いたはずだった。
息が上がって、素肌を曝したフエさえもが、この夜の涼気のなかに、かすかにあせばんでいるのだから、ホアはもっと、汗に塗れているに違いなかった。
…ね?
立ち止まって、振り返ったホアが、湾岸道路を渡りきった先で、そして手を振った。
手を振り返す隙もなく、不意に駆け出したホアの姿は、湾岸道路と海岸の高低差の中に、一瞬でその姿を隠し去って仕舞う。
フエは、眼差しの中の、ホアの不在におびえていた。…泣いているに違いない。
彼女は。
わたしを見失って、迷子のホアは、ひとりで孤独に泣き叫んでいるに違いない。…あの、チャンのように。
両眼の見えない暗がりの中で。
不意に息づいたホアの孤独の気配にフエは我を忘れた、その眼の前を、トラックがいきなり通り過ぎた。茫然としたフエに、運転手は気付かなかった。あるいは、フエは、眼の前にそれが通り過ぎたことにさえ気付かなかった。
フエは、道路を渡っていた。
息を整えて、そして、素足のままの足の裏に、すでにかすかで無数のちいさな痛みの群れが芽生え始めていたのには気付いていた。いまはともかく、一晩明けたら、華奢な足の裏は歩くことさえ苦痛なほどに痛むに違いない、その、傷痕を残さない破綻。…何も壊れてはいない破損。
海岸に、ホアを探した。階段を下りて、砂浜に立って、海に向って歩き、その海岸線にホアを探す。
ホアはいない。掻き消えたように。そして、浪だつ、夜の海の音響はただあざやかに耳の至近距離で鳴った。
波に飲まれて仕舞ったのかもしれなかった。
まっすぐ行けばフィリピンの島々のどこかに、迂回すればインドネシアの島々のどこかに、反対に迂回してしまえば、太平洋を彷徨うしかない。海に溺れたそれ。ホアの死体は。
海面に、その、みずからの死体を浮ばせて、潮の流れのまま海上に、遮るものなく直射する日差しの中に曝されながら。
羽ばたく鳥たちに、あるいは魚たちについばまれて、その肉体の断片をわけあたえながら?
捕食の論理。あるいは倫理。ひょっとしたら、論理形式のかたちをとった、何の善をも前提しない倫理。喰われたホアの死体は、その細胞の群れは、やがて鳥たちの細胞の中に眼醒めるのかも知れない。新たな何かとして。
もはや、ホアには回帰しようもない新鮮な何かとして、そして永遠に、眼醒め続けるしかない。いつでも何かとして変転しつづけながら、そのまま同一のなにかとして。
目舞うような、海の潮の匂いがし、フエはむせかえりそうになる。人々をそのうちに蓄えない海岸は、潮の臭気をただひとり、フエにだけ投げかけ、巨大な海のすべては、ただひとりの、素肌を曝して無防備なフエを想うがままに蹂躙する。
あまりにも巨大な暴力、と、フエは想い、おののく隙さえもない、聴こえ続けるその音響。
波立ちの。
夜の、粗い浪のわななき。
こうして、と、フエは想った。わたしは破壊されていく。
完全に。完膚なきまでに。フエを呼ぶ声がした。
自分を呼ぶ背後の声に、振り返ったフエは、そして反芻する。その声、あまりにも邪気もなく、…ねぇ。
Làm gì ?
何してるの?
何の気もなしに、立てられた、
…ねぇ。
その
Vui không ?
愉しい?
ホアの声。振り返った背後の、湾岸道路と海岸の、ちょうど子供一人分の段差のすれすれに、立っていたホアの姿。階段の傍ら、フエが、そこを降りてここまで来たその階段の脇に、ホアは立って、そして声を立てて笑っていた。…ねぇ。
こっち。
ホアは手を振り、手招いて、知っていた。
たしかに、背後の、そっちのほうでホアの忍ぶでもない明け透けな笑い声など、とっくに、ずっと、聞こえ続けていた。
浪うち際の、浪の音にさえ掻き消されることのないその音響。
やさしく、戯れることの喜びを素直に知る、目に映るもののすべてを単純に愉しんで仕舞う能力に長けたその、少女の眼差し。…安心して。
フエは想った。
怖くないよ。
ホアに、手を振り替えしてやる
ずっと、…
暇もなくフエはむしろ
ね?
呆然として、一人だけ
知ってたよ。あなたが、
取り残されたようにそこにたたずんだまま、
そこにいて、
ホアを見つめながら、フエは
わらってたこと。わたしは、
想った。
ずっと。…と。
そう、唇のなかでだけつぶやく。
フエは、ホアが自分を呼んでいることに気付いた。フエには、鮮明に、ホアの期待にこたえてやらなければならない欲求があった。ホアが呼んでいるなら、と、想った。わたしはホアの許に駆けつけて、そして、彼女を抱きしめてやらなければならない。
たとえ、その瞬間、彼女が自分を刺し貫いて、殺して仕舞ったとしても。
その、あざやか過ぎる不意の妄想が、もはや完全にフエの眼差しの中に、現実のものとしてのみ認識されていたただなかに、フエは、ホアの許に駆け寄った。…獣じみた眼差しで、自分の腹部をナイフに差すホアの眼差しに容赦はない。なかば、砂浜に足をすくわれながら、駆け寄るフエを、…血に塗れながら、自分の腹部が噴き出した血に穢れていくしかないホアをフエは哀れむ。ホアは…フエはごめんね、と。彼女は声を立てて笑ったに違いない。…フエは、ただ、彼女が自分の血に穢れたことを彼女のために侘びた。
フエの眼の前で、ホアが笑みを曝していた。ホアの立てた、邪気のない笑い声さえフエの耳には意識されずに、ホアにひざまづいて彼女を抱きしめたとき、フエは留保もない充足が、自分を飲み込んで仕舞うのを感じていた。
フエは、抱きしめたホアの体の匂いを嗅いだ。その、首筋に鼻をうずめて、二度、三度と、彼女は息を吸い込み、駄々っ子で甘えっ子の匂い立った、甘やいだいかにも幼児じみた匂いを、そして、…花。
フエは聞いた。耳元に、その、ホアの唇が吐いた声。
喉に、立てられてホアの唇から、うち棄てられるように呆然と、立てられた声、「…花」
Hoa
フエは眼を「ほら、…」開けなかった。「…花よ。」眼を閉じたままにホアを抱きしめて、いとおしみ、まるで、慰みものにするかのように羽交い絞めにして、ホアが彼女の傍らの、コンクリートを食い破って茎を伸ばし始めた樹木の苗木が、無意味に咲かせた花の存在を、フエに知らせるためにだけここに彼女をつれて来た事はすでに認識している。
何も見えはしない。
眼など、閉じたままだから。何も見たくないのではない。そればかりか、フエは見ている。
鮮明に。
その、コンクリートを食い破った樹木の苗木、…ブーゲンビリア、なぜ、と、想った。
もはやただ唖然としながら彼女は、咲かせたところで何の意味もないその花を、たった二輪だけその、それは花。なぜ、30センチ程度の幼い苗木は咲かせるのか。
やまない潮風の中に。砂地の上で。
花々…あるいは二輪の花。
想いだす。
ブーゲンビリア。
庭のブーゲンビリアの下で、フエの衣類をハンがはぎ取ったのは、彼女が十歳のときだった。
仏壇の裏に供えてあった、サイゴンから帰ってきた親戚のタンThanhがハンに託した400万ドンの札の薄い束が紛失したときに、それは、ハンの無用心を咎めたフンが、勝手に自分の部屋に保管していただけに過ぎなかったが、理由も言わないハンの、振り向きざまの折檻に、フエは言葉を失った。
その日、ダットのバイクに乗せられて、学校から帰ってきて、庭先で相似していたハンの今日の顔色をすれ違いざまに伺い見たフエは、やがて不意に呼び止めたハンを振り向く。
ハンの握りこぶしがフエの額をうった。ダットは、一瞬気付かなかったふりをして、ややあって、付かれたように妻を激高させた娘を、遠巻きになじった。
フエにはなにも聴こえなかった。…違う、と。
フエはそう想った。想っていたことと違う、と、フエは茫然としながら、とはいえ、何かがすでに予測されていたことなど在り獲ない。何も予測などされていなかったから。
なにも考える余地もなく、表情のないハンの顔色を伺って、自分の存在感を消したまま、通り過ぎようとしただけだったのだから。
フンと、トゥイがブランコに座っていた。だれも、一体何が起こっているのかわからなかった。
ハンの折檻はやまなかった。壁に投げつけられて、フエは息をついた。一瞬陥った、ほんの数秒の呼吸困難に、…大丈夫。
想った。
わたしはまだ生きている。
ハンに髪の毛をひっつかまれて、不意に決壊した涙と鼻水に塗れながら、フエはブーゲンビリアの下になぎ倒された。
雨上がりの泥に塗れて。
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