小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説⑥ ブログ版






ディオニュソスの女たち



《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel



《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ

Μαινάδη

マイナス










フエはつぶやく。

あなたが頭のおかしな穢い女の穢いところが生み出した、穢い親殺しの犯罪者で、もはや救いようもない人間だということを。…何人?

これから、何人、殺すの?

お母さんを殺して、さらにやがてはマイを殺して、その次は?

何人の人を、穢すの?例えば、…と。

わたしをその穢らしく発情した肌で穢して仕舞ったように。…かわいそう。

だって、あなたは永遠に穢い。…破壊する、と、フエは想った。

わたしは、破壊する。怒りさえなにもないうちに。不意に振り返った眼差しの先に、ハンが迫ってくるアンのバスを見い出したとき、そのまま立ち止まらずに迂回して仕舞えばよかった。

アンは、何も知らない。不意に、なにに命じられたわけでもなくアンはアクセルを踏んだ。それは間違いだった。間違いだということには気付いていた。気付かれたそれを、アンが終に認識しようとしたときに、ハンは見い出す。

わたしは殺される。

ハンははっきりと、認識した。

ホアは茫然と一瞬のうちに、その、眼の前に生起しつつある在り獲ない事件自体を、いかに認識すればいいのか戸惑うしかない。あるいは、戸惑い以前の意識の空白にたちずさむ。

アンの意識はすでに白濁して仕舞っていた。何の混乱もなく、ただ、冴えたままに。…殺すのね。

なぜ?…と。

ハンはつぶやく。頭の中にだけ。…なぜ、あなたは。

と。

なぜあなたはわたしを殺そうとしたの?…と。そうハンの想いが最後までつぶやかれる寸前に、バスのタイヤはすでに彼女たちの肉体を引き千切っていた。破壊されて仕舞う。

すべては。

フエは絶望した。

眼差しが捉えるもののすべてに。

フエは知っていた。ハンとホアが、アンに轢き殺されて仕舞うことなど。匂う。

花々。ブーゲンビリアの、芳醇を極めた花々の芳香が。いちども嗅ぎ取られはしないままに。

フエは、ジウの頭をなぜた。あきらかに、この男を愛しているに違いないことを、フエは何度目かに気付く。強姦者ダット。その転生。やがて私の最後を、廃墟の中に看取りもする男。

あの日、チャンの妊娠の事実に呆然としたフエに、めずらしく足音を忍ばせて近づいたマイはフエに耳打ちした。…心配しないで。

自分を見つめ返さないばかりか、目線を上げさえしないフエに、マイは何の非難をも曝さない。…この子、…と。

つぶやく。マイは。…生まれてくる、この子、…ね?

私の子供だから。

マイはそう言った。私の子供よ、だから、私が、育てるの。

マイが、これ見よがしにフエに、決意をただ毅然とみなぎらせた眼差しを誇っていたのを、フエは知らない。そんもの、その眼差しのうちに見い出そうともしなかったから。フエは、しずかなチャンの半開きにされた、むしろみだらな気配を曝した唇に立つ、寝息の音声をだけ見つめた。


…来て。


と。その日、ホアは言った。

不意に、思いあぐねたように。

振り向いたフエの眼差しに、ホアはあわてて微笑を浮かべた。

フエは17歳だった。おさない11歳のホアには、フエの華奢な身体は、それでも成熟した女の身体に見えていたに違いなかった。

匂い立つような、大人の女の色気に乱れさせられた。すべてを知ってる、成熟した女のそれ。

ベッドに座りこんで、いつの間にか寝息を立てているアンの胸に指先をふれていた。

愛撫と言うには、あまりに欲望を欠き、それを否定するには、その指先はあまりにもアンに焦がれすぎていた。

寝室にホアが忍び込んでいたことには気付いていた。ハンとダットの並んで寝ているベッドの母親側の壁際に、そして、ホアは息を忍ばせて部屋を抜け出し、いつも同じような時間に部屋を抜けていく兄の背後を追ったに違いなかった。

ホアだって、ふたりの秘密など、とっくの昔に気付いているはずだった。知らないはずもなかった。年頃の少女と少年が肌を曝して寄り添えば、まさかサッカーボールを蹴り始めはしない。歳の離れていないわけでもない二人の姉弟の、家族みんなの周知の毎晩の行為に、そして、ふたりの行為をとがめだてする兆しは、ホアに一切なかった。

ホアの眼差しの中で、すくなくともフエのすべては赦されていた。…来て。

と、そう言ったときのホアの眼差しには、叱られるに違いないことを認識していて、それでも自分が赦されるはずだという根拠のない確信を、信じて疑わないかすかな倒錯の気配が、鮮明に兆していた。

フエは微笑んだ。ただ、いつくしみ、愛おしくて仕方のないもののその小さな倒錯を、その眼差しの中に確認した。…こっち。

ね?

…来て。

その日、深夜の一時。いつも、アンは、十二時を回ってからフエの部屋に来る。なにかの犠牲者なのような、眼に映るものすべてに非議を訴えなければならない眼差しを曝して、いかにも、すべてに飽きはてている眼差しを伏目に曝し、自分が脱がしたフエの素肌にさえも、…もう、いい。

もう、いいよ。と、そんな言葉にされないつぶやきを鮮明に曝して、そして、フエはアンが自分に焦がれているのを知っている。

アンはフエを求めていた。もはや、彼が彼女の体を求めていたのか、それ以外のなにかを求めていたのか、いずれにしても自分勝手に切実に追い詰められて、希求された気配だけを曝して、そしてホアは見ていたに違いなかった。

ドアの向こうに、とっくに知っている二人の秘密を。あるいは、微笑んで、赦しながら?

おののきながら?

嫌悪しながら?

フエを?…アンを?…それともふたりを、もしくは自分をも含めた家族のみんなを?

発情しながら?

嫉妬しながら?

じれったく想いながら?

哄笑さえ浮かべながら?いずれにしても、やがて、その行為の間にホアが入ってきたのは知っている。息使いが蚊帳の中にだけ、こもってちいさく騒ぎ立っているはずだった。

…汗が匂う。部屋の片隅にたって、終には床の上に座り込んで仕舞って、いかにもおかしそうに、彼女は不意に微笑みながら、…ねぇ?

愛しあってるの?

気配の言葉。問いかけられる、かならずしも答えなど期待してはいない、自分で勝手にその答えを知って仕舞っている問いかけ。それを、閉じたまぶたの向うに見い出していた気がした。…何を、…と。

フエは想う。

何を見てるの?子供の癖に。

フエは、いつものアンの、性急な、絶対に彼自身が快感を感じてるとは想えない、いかにも痛ましい苦行じみたその行為に曝されながら、あやうく声を立てて笑って仕舞いそうになるのを堪えた。…見てる。

ここは空

アンは、いつも感じもしないフエの咄嗟の痙攣に、なにか勘違いして仕舞ったに違いない。

わたしは鳥だから

…ねぇ。

ここは空

見られてる。

ここは海

フエは、

わたしは魚だから

知られてる。

ここは海

つぶやく。

しめやかな雨の中でさえ、花々は色彩を失おうとはしなかった

なにもかも。…と、

かつて一度も

頭の中でなんどか、その気もなく、散漫な言葉らしきものが明滅して、アンに教えてやりたくなる。…知ってる?

みずからの色彩と香気にむせかえりながら

もう、…と。

知られてるのよ。

フエに、いちいち言われなくてもアンがすでに、ホアの眼差しに気付いていたことをは知っていた。アンは、最初からホアが付回していたことさえ気付いていたに違いない。

アンは、フエを痛めつけるようにしてアンに甘える。ホアの眼には、フエがアンに虐待されてるようにしか見えないはずの、その眼差しが捉えられた風景の中で、繰り広げられているのがふたりの愛の行為に他ならないことを、ホアの幼い眼差しは正確に認識して、彼女が二人を赦していることを、アンも、すでに気付いているに違いない。…だれもがもう知ってる。

クイも、ヴァンも。

ハンも、フンも、ダットも、

ユイも、チャンも。

みんな、すべて、すべての人が、すべてをすでに知っている。知られているのよ、と、フエは想う。もう、隠しようもなく、そして、だれもまだ、それに気付いていないだけ。なぜなら、と。

まったく、すべて、みんなひとつのものだから。

気付こうとはしない、自分を含めた誰かに対するやさしさに強制されて、彼らはわたしちに気付かない。

アンの行為はあっけない。すぐに、力を失って仕舞うから。何もできずに、その、意味のないやわらかいものを押し付けて、そんなときにも、アンがまだ自分を痛めつけているかのような気配を惰性の腰に漂わせているのを、フエは声もなく笑った。…なにも、と。

あなたは終に、何もできなかった。

横向きのフエの眼差しの先に、ホアの微笑んだ、企んだ眼差しがあって、…ねぇ。

できる?

何を見てるの?

男になれるの?

つぶやく。

孕ませることにしか意味を持たない

声もなく、…見えてる?

生き物。単に

何が?

子宮のために捧げられた付属物にすぎない存在たち

行為が終わったアンを体の上ににせたまま、フエはホアと見詰め合った。眼差しにだけ、邪気をさらさないホアはさかんに七以下を語りかけ、彼女がフエとの対話を愉しんでいるのには気付いている。

ホアは今忙しい。終わりのない、饒舌なフエに語りかけ、饒舌すぎる二人の対話は、渦を巻いてもはや収拾などできない。色彩が動く。

その、おさない眼差しの中で、さまざまな色彩が揺らめいて、変化し、その対話の多彩さを曝した。フエには、聴き取りようのない二人の対話を。

アンが、疲れ果てて、もう、と。

もういいだろ?

満足した?

もう、…と、放っといてくれ。そうつぶやこうとしたかのように、自分勝手に体を離して、フエに背を向けて壁際に、寝息をふたたび立て始めたときに、…ねぇ。

おかしいでしょ?

フエは、いたずらじみた眼差しに、ホアを見た。…彼が、求めたことなのよ。鼻にだけ、小さなフエの笑い声が立ったのをホアが聴き取ったとは思えなかった。…来て、と、ややあって、停滞した時間をもてあそぶしかなかったその時に、不意に彼女がそう言ったとき、フエはただやさしく微笑んでやって、ホアはもう、立ち上がっていた。そして、足音を大袈裟に忍ばせて、フエを振り向き見たホアはフエを一瞬だけ媚びた眼差しに誘った。

…そっと、…ね?

そっと。

服を着る暇もないフエは、そのまま、彼女を見詰めた眼差しの中にだけ少女の戯れをあやしてやりながら、あるいは、声もなく、フエは先導するホアに従った。…待って。

ね?

後ろで身振りしたフエの仕草を、振り返ったホアはいたずらじみて笑い、一瞬立ったその笑い声にフエが、しー…と。

フエが微笑んでいた。

ホアは、音がしないように慎重に表の木戸を開けていく、木と木がこすれあうきしみあった音響が空間を乱したが、…あ、と。

だめ。

…ん。

それら、無数の、声のない音声が頭の中に騒ぎ立って、揺らめき、フエは声を立てて笑いそうになるのを堪えることで、もはや精一杯だった。

庭に出ると外は思いのほか明るい。

この町には、夜の十二時を回れば、出歩く人間など殆どいない。

ほとんどすべての店は仕舞っていて、そして、町は文字通り静まりかえっている。…こっち、と。

淡いピンク色の、寝巻きをだらしなく来たホアを、…だめ。

と、姉のフエは着替えなおさせてやりたくなる。

素肌を夜の光の点在浮かび上がらせながら、フエはホアを追って主幹道路に出る。

ほんの、二分に一台くらい、バイクかトラックが道路を走っていくのを、フエは不思議なものを見るように見い出す。事実、それは不可解な光景だった。これほどまでに寝静まった町の中で、なぜ、こんな時間にまで彼らは出歩く必要があるのだろう。

こんな時間に、だれかがいまだに起きていること自体がおかしかった。

昼の、それなりの人の群れにざわめかせた気配を完全に失った夜の街は、主幹道路沿いであっても、もはや完全に人々を死滅させていた。…どこへ、と。

ぼくは尋ねられません

どこへ行くの?

なにも

そのくらいホアに問いただせばよかった。

ぼくにはもう口さえないから

もう、だれの眼に触れてはいないのだから、そして、時に通り過ぎる車かバイクがフエとホアの姿を認めたとして、彼らに彼女たちに関わり獲る隙などないのだから、裸のフエは何も気にする必要がなかった。通り過ぎる彼らと、そこに歩いている二人には、あからさまな空間の断絶があった。そんな気がした。

それは、事実だと想われた。なにも、空間さえもが共有されないとき、なにものも、関わりあうことなどできない。

もっと、大声で笑ってもいいはずだった。気が狂ったように。よだれでも垂れ流しながら?好き放題失禁でもしながら。あるいはわめき散らしながら?

自分の舌を引っこ抜きながら?

自分の、あるいは誰かの血に塗れながら?

やさしい言葉をささやきながら?

嘆きの涙を流しながら?

フエは、そしてホアは声を潜め、足音を忍ばせた。

夜になると涼しくなるダナン市の大気が、フエの肌にじかにふれていた。それが鮮明な、肌寒さだけ、ただ、感じさせた。…ねぇ。

フエは声もなくホアを呼び止めようとした。

…ねぇ。

凍える雪の下に埋もれたまま咲き誇った紫陽花の繊細な花の色彩を

呼び止めたところで、なにも

あなたは見た事があるか?

言いたいことなどありはせず、言うべき事もなにもない。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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