小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説⑤ ブログ版
ディオニュソスの女たち
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ
Μαινάδη
マイナス
ジウは知っていた。母親たちが、かつてもう一つの国を棄てていたことを。日本。彼女たちはそこで生まれた。祖父母は日本に残った。祖父は戦争時に連れてこられ、祖母はみずから海を渡ったのがふたりの事実だとは言うものの、日本で出会い日本で結ばれたすでにそこには彼等の生活基盤が在った。それをいまさら棄てる事は彼等にはできなかった。半島に渡ったときに、彼等との連絡は遮断された。ジウは、祖父母の顔さえ知らなかった。あるいは、海の向こうの軍国主義と帝国主義の恐怖の王国で、すでに惨殺されて仕舞ったのかも知れない。さかんに喧伝される、資本主義の拝金主義の犠牲者となって。
遠い故国を思いながら?
眼差しの先に、窓越しの春の、とはいえ、どこからどうみても未だに冬にしか見えない北の風景がただ荒涼として拡がり、その荒廃は故国のそれをはるかに超えて見える。
あまりにも懐かしい故国。別室で、物音もなく叫び声さえあげてはいない母親が支払っている犠牲は、故国を裏切ったことの代償なのだろうか?…ジウに戸惑う隙さえも、与えてはいなかった。眼差しが見い出す、その、いまは誰も住んではいない当座の潜伏民家の中のたたずまいは。
ジウは、その行為のとき、母親が眼を見開いて、意味もなく口を大きく広げているのを知っている。必死で息を吸い込もうとしたかのように。呼吸など、荒れてさえいないのに。
むしろ、その、口が明け広げられていること自体が、彼女の呼吸を疎外しているのに違いないのに。
彼らが回した輸送用バスの古びた中で、彼らはもう、他の三人合わせて、母親たちを愉しんだ後だった。ここに見かけないその三人は、なにかの手続きに行った日がない。
開けっ放しのドアの向こうから物音は、男たちの下卑た嬌声しか聴こえず、その撥ねるような中国の意味などジウは知りもしない。
男たちが姉に眼をつけるのに時間はかからなかった。素肌を曝した男が眼の前に、声を立てて笑いながら現れても、姉はおののきさえしなかった。まっすぐに、無言で男の顔を見上げ、なにも、彼女はすくみあがっているのではない。男が口早に発する中国語を、なんとか聴き取ろうとしているに違いなかった。…あの。
ねぇ
なんですか?
いま
分かりもしない中国語など、いくら聴き取ったところで、なにも
花々の花弁はその自重にこうべを垂れるしかないのだった
認識など
やさしい日差しの下で
できはしないのに。姉も、男の求めていることなど知っていないはずがない。もう、なんども、バスの中で、母親立ちは男たちに強姦されていた。二人の、あるいは、同乗したその他数人の子供たちの眼のまえで。なにもかも、もう、言われるまでも分かっていた。
三世帯の家族たちは。故国から逃げ出した直後、ジウの父親は発見されて殺された。ほんの一日と半分くらいの逃走。
残りの世帯の父親の一人は、彼等と落ち合った時にはすでにいなかった。あるいは、収容所にぶち込まれたのかもしれない。だとしたら、彼らは犯罪者なのだと、ジウは想って、国家犯罪者と同居する落ちぶれた自分の身を哀れんだ。
すこしも言葉にはだそうとしないままに。
残ったひとりの父親は、脱走するバスを運営する中国人たちに降伏するしかなかった。
姉は男に手を引かれて奥に連れ込まれ、ややあって、不意に正気づいたように。いきなり暴れ出したらしい姉が立てる絶叫が、その空間を傷めていた。母親が、叫び声に後れて男たちに、罵るような声で赦しを乞うた。
為すすべはなかった。すべては絶望的だった。たぶん、と、ジウは想った。天国を追放されたこの地獄から生き伸びることが出来たなら、自分は、おかあさん、ありがとうと、そう、つぶやいてやらなければならないに違いない。なぜなら、彼女がそれを望んでいる事は明白だから。
叫び声と罵り声の向うで、時間を持て余したジウは外に出た。だれも警備などしてはいなかった。そとの庭で、その、降伏した誰かの父親は、自分の子供をあやしていた。ジウに気付いて振り返った彼が、ややあって、…大丈夫。
そう言ったのを、ジウは気付いた。
男を見つめながら、かならずしも男の姿を鮮明に見い出しているわけでもないその、不意に気付かれた事実に、ジウは想わず戸惑った。
もうすぐ、自由になれるから。
男は声を潜めていう。
もう、泣くんじゃない。…と、男の唇がそうつぶやいたのを聴き取ったときに、ジウは、自分が泣きじゃくっていることに気付いた。
ジウは、自分が、もはや目に映るものすべてを悲しみの痛みの中に見い出していたことを、始めて知った。
フエは、終ったジウがややあって、自分の体の上に身を投げたときに、その重みにかすかな窒息感をその胸の骨格に感じながら、やがて、そして不意に、フエは自分がジウに抱かれたことに気付いた。そんなことはとっくに知っていた。
彼を誘惑したのは自分には違いないはずだった。自分を求めた彼にそれを赦したのだから。彼の行為のすべてを、鮮明に思い出せる気さえした。はたして、本当に思い出せるかどうかなど確信がもてないままに。彼が、自分の体内で終って仕舞ったときの、その触感はいまだにあざやかなままだった。かりに、それが単に鈍い、実体などなにも感じられない感覚に過ぎなかったにしても。
いまさら、ジウに抱かれたことにふたたび気付いたフエは、彼を愛しんだ腕がその背中を抱きしめて、もっと、更に、自分にその体重を預けさせようとしていることに気付いた。自分が、やがて破壊されていくときに、一瞬の錯乱を重ね続ける意識の中で、いま、自分を抱いているのはアンに違いないと気付いたときに、フエが、想わず彼を抱きしめて仕舞ったことを想いだす。
自分を強姦する見ず知らずの彼を、その、肥満に近い筋肉を曝した小柄な男。
アンとは似ても似つかない男が、…この女、と。
飢えてるよ。
そう耳元に大声を立てて笑った。錯誤。違う、と、フエは想った、その時に、フエは、見い出していた。すでに。
あの、花々。
咲き誇るブーゲンビリア。
紫に近い紅の美しい花。香気立つその匂い。
空間を埋め尽くす、それら、花々の、そして、そしてフエは瞬く。知っている。
あなたは殺して仕舞うのね。
…とハンは言った。フエは知っていた。わたしはあなたを殺さない。フエは知っていた。
だれもが、自分が母親ハンを憎んでいると、信じきっていることを。フエは教えてやりたかった。あなたたちは、自分が信じているものを信じているだけだ。
空の上には倫理に支配された仏の国などないことなどだれもが知っている。
地の底には倫理に支配された地獄の世界などないことなど知っている。
だから、人々は仏の教えを信じるのだ。それが錯誤にすぎないことの前提の中にしか、信じるという行為など不可能なのだから。それが、すでに不可能であることだけが、人に信じることを始めて可能にする。知っているか?たとえば、磔になってなって殺された、あの、最後に父に非議を訴えて野垂れ死んだ男の実在の事実だけが、彼を信じること可能にするのだ。
すべては、自ら決然と選び取った嘘と錯誤に塗れている。知っているか。
あなたたちは信じているだけだ。
フエは確信した。
わたしは知っている。わたしはハンを憎んでいる。不意に、降って沸いたような容赦のない摂関に、感情もないままみずから飲み込まれた瞬間にしか、自分を愛する事が出来ないハンを。
憎んでいる。そして、隠しようもなく畏れている。にもかかわらず、わたしは彼女を殺したりはしない、と、フエは想っていた。あの16歳の日にも、12歳、ホアのベトナム語発音を矯正してやっていた昼下がりに、いきなりハンが自分の後ろ髪を引っつかんで引きずり回し、庭先のブーゲンビリアの木陰に、ほうきでなんども殴りつけた日にも、また、あるいは、そして、いずれにしても、フエは知っていた。ハンが、かならずしも自分を憎み、嫌ってなどいないことを。
ハンはフエを愛していた。
ホアをフエの眼の前でこれ見よがしに溺愛しながらも、フエになついてくるホアの仕草のひとつひとつに、フエにホアを奪われて仕舞うひめられた鮮明な恐怖にかられて、その眼差しをおののかせるときにも、ハンはフエを愛していた。知ってる。
フエは、ハンを愛していた。…おかあさん、と。
想う。
フエは、無数の男に強姦されながら、フエは、想った、おかあさん、と。
わたしは、あなたがわたしをあいしていたことをしっていたわ。…ねぇ。
知ってた?
その日、フエはハンに耳うちした。…今日。
「ね?」
今日、アンがあなたを殺すわ。
朝の、炊事場で、家族たちの料理の支度に追われていたハンとすれ違いざまに、一瞬の自ら仕掛けたわけでもない不意の接近に、フエは折檻の予感に身を固めて仕舞いながら、「知ってる?」
つぶやく。
…殺すの。
手に握られた、歯ブラシの
アンが。
歯磨き粉が匂った。
あなたを。
一瞬、ハンは、娘が何を口走ったのか理解できなかった。異国後が不意に顔見知りから不用意に発されたのを聞いて仕舞ったような、そんな、穴が開いた戸惑いを曝して、素直にハンは、…なに?
言った。
Con
何を、
nói gì ?
言ってるの?
Không hiểu …
いきなり振り向いて駆け出していくフエを、ハンは眼差しの片隅に、追いながら、そしてフエは知った。ハンが、息子に殺されて仕舞うことを、終に知って仕舞ったことを。
息子、自分の生んで仕舞った娘に、その将来のすべてを台無しにされ、穢されて仕舞った息子に。
アンはもはや手の施しようもなかった。フエに誘惑されて、骨抜きにされていた。すべての根源はフエだった。彼女が存在したこと、それ自体がアンの悲劇だった。ユイを殺したのは自分だった。ユイに、フエは言った。…だめ。
もう、あなたは自由にはなれない。
フエは、彼の耳元につぶやいた。…知ってる?
みんな知ってるの。
ユイが死んで仕舞うその前の前の日に、裸に剝いたユイを好き放題、想うがままにもてあそんでやりながら、「知ってる?」つぶやく。
あからさまに、彼の肉体にだけ焦がれた気配を曝して、その
みんな、
Tất cả mọi người
男に対する欲望をさらけ出してやりながら。
知ってるの。
đã biết ...
女の子のユイに。…わたしが、…
「ね?」
あなたにもう、もらってもらうしかないことを。
…ね?
想いは事実だった。ユイを破滅させるための嘘などつきはしなかった。事実、ユイは男の子だったから。
事実として、彼女の男の子はちゃんと、その用を足していたのだから。…知ってる。
もう、…ね?
と。
不可能なのよ。そう言った。なにもかも、もう。あなたには未来などなにもない。
ユイ。
あなたが穢い誘惑の果てに、わたしを手篭めにして仕舞ったことなど、だれもがすでに知っている。
かわいそうなユイ。
あなたは人々の眼差しの前で、永遠に穢れている。
かわいそうなユイ。
想う。
わたしが一人で握りつぶして仕舞ったユイ。…そしてフエはつぶやいた。チャンに。彼女に戯れながら、すがり付いてくる、もはや自分にしか頼るもののないチャンに、…かわいそう、と。
その、夕方。
一週間前、チャンが、両眼をえぐって仕舞う一週間前に、フエは彼女に言った。お母さんに会いたい?
言ったとき、チャンは自分が何を言われたのか分からない顔を曝した。
…だれ?
クイが拾ってきた、頭のおかしな女。
あなたが殺した女。
可愛そうな女。
その遺伝子を引き継いだ、…その、あなたの肉体の中に、あのかわいそうなむくわれないお母さんをすべて、生きながらえさせているあなた。
さびしいでしょ?
かわいそう、…と、そのとき、フエの眼には深い同情の涙が溢れていた。チャンは、世界でもっとも救いようのない少女だった。そのとき、眼の前には明らかに、チャンの悲惨だけが曝されていた。その悲惨に、なにも根拠はなかった。事実として、ただ、フエの眼の前に彼女は彼女に固有の惨状だけを曝して、無様に息遣っていた。哀れみ、惜しみもなく涙を流す、あまりに少女じみて可憐なフエは、チャンの眼差しに、ただ、フエの曝した絶望をだけ兆させた。
チャンは瞬く。あなたは知ってる?
フエはつぶやく。
あなたが頭のおかしな穢い女の穢いところが生み出した、穢い親殺しの犯罪者で、もはや救いようもない人間だということを。…何人?
これから、何人、殺すの?
お母さんを殺して、さらにやがてはマイを殺して、その次は?
何人の人を、穢すの?例えば、…と。
わたしをその穢らしく発情した肌で穢して仕舞ったように。…かわいそう。
だって、あなたは永遠に穢い。…破壊する、と、フエは想った。
わたしは、破壊する。怒りさえなにもないうちに。
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