小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説④ ブログ版
ディオニュソスの女たち
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ
Μαινάδη
マイナス
…壊される。フエは想った。すべてはもういちど、ふたたび壊されて仕舞った。彼は私を処罰するに違いない。そんな事は知っている。わたしは、と、フエは想った、わたしを許しはしなかった。彼は、わたしをさばきもしないままに、わたしは私を処罰した。彼は、わたしを、あのときあふれでたシャワーの水流で、陸の上で溺れさせて仕舞いそうになりながら、と、想い出していた。
フエは、ひとりで、そして見上げた眼差しに捉えられたジウは、自分には意味の分からないおののきと戸惑いを素直に曝している眼の前にフエに、意味もなく微笑みかけてやるしかなかった。…欲しいんだろう?
舐めたい?
ジウはつぶやく。
頭の先から爪先まで
これが、…と、
俺を求める、そんな自分の
頭の中でだけ、お前が欲しがっているものは
感情の鮮明さに
これなんだろう?
溺れながら
夫婦の寝室の場所は知っていた。フエの腰を抱いて、寝室に誘った。フエは、彼女に取り付いた、単に絶望とでも言ってやるしかない心の空白に苛まれた、目に映るもののすべてが悲しかった。なにをも訴えることなく、ただ、悲しいんだよ、と、すべてのものが眼差しの中に告白しているとしか、…悲しいの。想えなかった。…そう。
もう
と。
耐えられないくらいに
そうなの。
いま
そう、フエは
空が青いの
同意するでもなく、それら無数の告白に相槌をうってやるしかなく、
雲の欠片さえ知らない雨上がりの空は
与えはしない。
なにも。
それに、同意をなどは。
その悲しみは、あくまでも他人の悲しみに過ぎなかったから。…ね?
ほら
同意を求めたわけでもない上目遣いの眼差しは、ジウの
あなたは美しい
眼に、不埒なまでの誘惑にしか映らない。フエは、全身で
ほら
彼女の赤裸々な誘惑だけを曝していた。どこまでも
無慈悲なまでに
穢れた女だった。
あなたは美しい
服を脱がされる任せたフエの体臭が匂った。褐色の素肌を曝したフエを、蚊帳の白い細かな網の中に押し倒しても、仰向けに自分を見つめたフエに、彼女がそこまでの絶望を曝しながら、いまだになにものをも想い断ってなどいないことを、ジウは我が事のように恥じた。この期におよんで恥知らずの、と、この、知性を欠く家禽のような女。ジウはそう想う。穢い、誰にも抱かれる類の知能の腐った女。ジウは、フエを抱いてやった。ときに耳元に、フエの前歯が歯軋りするいびつな音を、あくまで低能にして下等な女の無様な性癖として、ジウは彼女のために恥じるしかなかった。階下で、夫を、あるいは、より正確に言えば明日夫になる男を取り囲んだ酒宴が立てる笑い声と物音とがかすかに、とはいえ、鮮明に聞こえつづけていた。
フエは孤独だった。
クイの家の三階の仏間、その狭くはない空間の中に、生きているものはフエのほかチャンしかしなかった。チャンはすでに自分を見棄てていた。事物は、耳に聴こえる物音をも含めて、すべて、彼女の自分自身に対して無関係だった。たとえ、ここに自分など存在していなかったとしても、それらはそのままに存在するほかなかった。フエは、やがて、留保なく実感された孤独に、不意に、微笑むしかなかった。
チャンは、フエをさえすでに見棄てて仕舞っていて、フエのことなど、その眼球による視野のない、あるいは暗い脳裏のなかに、もはや想い出すことさえないに違いなかった。一瞬たりとも。ときに彼女固有の必然によって発する獣じみた男声に近い低音の、叫び声の中にさえ、もしフエが存在するとしても壊れたチャンが、自由にその形態を破壊したフエの残像の残骸の集合に過ぎない。
チャンは、もはやフエには触れない。
永遠に
ダットにさえ、
時さえ忘れて
ふれられさえしなかったに違いない。もはや、
永遠に
ダットがした行為などチャンに認識されていなかったとしたら、ダットのした行為はチャンの無視の前に、なんの痕跡も残し獲ず完全に敗北していた。ダットは、チャンを穢すことさえできなかった。ダットは、自分がチャンを穢したことにさえ気付いてはいない。ダットはその日、夜、暗がりの中で、自分を赦したわけでさえもない、赦すことさえもないただただ無関係な、美しいものにふれた。それには、色づいた肉体。もはや赦すことも赦さないことも存在などしてはいなかった。ただ美しく、扇情的で、生き生きとした細胞の群れの命がここに目醒めてあることの、その息吹きにあふれていた。
事実、チャンはタオをさえ生んだ。もっと、男たちが好き放題、その美しさに素手でふれ獲る自由冴え獲得すれば、彼女はいくらでも生み出して仕舞ったに違いない。ヒト科の生命体など。野放図なほどに、何の計画性もなく、自分勝手にでさえもなく、そうなるしかないのだからそうなるように、ただ、正しく、命を生み出す。
…欲しい?
当然のこととして、そして
見あげて
生み出されたものが生き延びようが滅びようが、あるいは、
この
自分が生み出したものが自分を殺して仕舞おうが、
あまりにも美しい血まみれの
滅ぼして仕舞おうが、そんな
残酷な
事は
世界
知ったことではない。
…欲しい?
チャンは息づかう。眠る。…の?
わたしを
と。
生産し、わたしを
寝てるの?…と。
生産した
フエは
この輝かしい絶望の世界
想った。眠ってさえいても、頭脳はすでにどこかで覚醒し、すくなくとも無意識の実体は躍動していて、あるいは醒めてさえいても、意識はもはやまともな形態に束縛などされないというのなら、チャンは永遠に眠り、永遠に眼醒めてるといわなければならない。
ふれる
永遠。
わたしは
もはや、
永遠に
形態の束縛などいかにしても受け入れないチャンに彼女固有の限界の設定など無意味に外ならないその限りにおいて、チャンは
ふれた
文字通り
時に
永遠で、無限であるよりほかに
おののきさえしながら
在り獲ない。
時間も、空間も、チャンの前にすでに敗北を曝していたのかも知れなかった。そのとき、フエの体の上で、ジウは想うがままに振舞っていた。
フエは、声を立てて笑って仕舞いそうだった。あまりにも扇情的で、あまりにも美しく、あまりにも男性的な、匂うような暴力的で、陶酔的な色気を好き放題たたえながら、ジウの行為はあまりにもこなれなさすぎて、彼の一方的な行為は、フエにわずかな快感さえも目醒めさせることなく、あっけない瞬間の中に、ジウは彼女の体の中に力つきた。…受胎したなら。
いっそのこと育んで仕舞えばいい、と、ジウは想った。自分が、その、彼に焦がれた体の中に、自分のそれを与えてやった時に、育み、産み落とし、そして育てればいい。この、と。
もうすぐ滅びていく、と、ジウは、
どうして
滅びていくしかないこの、と、この、やがて
美しいのだろう?
私がすぐに滅ぼして仕舞うこの世界に、と、彼は、
だれかが
育めばいい。産み堕とし、育て、と、ジウは
頼んだわけでもないのに。この
想う。この
雨上がりの空の下の
滅びの刻印された
風にふるえる紫陽花の
哀れむしかない
花々の色彩は
世界の中で。
いつものように、あまりにも短い行為の、瞬間の憑かれた高揚となぜか屈辱的な炸裂の終わりの浅い余韻の中で、自分のそこにだけ目醒めていく疲れ果てた実感に、ジウは、まるでその感覚を他人が感じたもののように感じていた。
軽蔑感が、ジウの頭の中を離れなかった。自分にしがみついて、まるで自分に穢されていくの悦びを、瞳孔を開かせた眼差しのうちに無言で曝し続ける女になのか、その女に、あるいは、十羽一からげの女たちそのものの中のひとつとしてのそれに、あくまでじかに触れて仕舞ったことへの軽蔑なのか。あるいは、射精と言う、あまりにもあっけなく見じめったらしい行為そのものへの軽蔑なのか、ジウは、いずれにしてもそれらしずかに騒ぎ立つ軽蔑感に、頭の中に、力なく垂れ下がった神経系のひとつひとつを焼きつかせるしかない。
泣かないで
…終って仕舞えばいい。
涙なんか
そう、ジウは
流さないで。もう
想った。なにもかも、と、
昨日
ジウは
世界は終って仕舞ったから
想って、薄く、脂ぎった汗を蓄えた、体の下の女の肉体にその身を預けた。
大柄なジウの身体の下で、無造作に投げ出された骨格の、筋肉の、血液の、ひとつひとつの結局はすべてが、その、小柄な身体をあやうく窒息させそうになっていることくらいはジウは知っていた。…ほら、と。
想う。ジウは、
僕は翼
死にたいんだろう、もう、と、
君の翼
もはや、
君を自由に羽撃かせ
これ以上のものなど
君を幸せにする
想い描けもしないんだろう?
君の
と、想い、彼は、
翼
育んで仕舞え、と、
いま
想う、もう、
飛ぶ
すでに終ったお前は、やがて
僕たちは飛ぶ
生まれたものを育み、育て、いつくしめばいい、と、
鳥たちのように
そう思いながら、…母として。
鳥葬された肉体をついばむ
想いだす。
鳥たちのように
母。
僕たちは飛ぶ
ジウの、その、
美しい空を
中国経由で北朝鮮を抜けたときに、その北の、荒れた大地に隠れながら、中国人たちを頼った。むしりとられる金と、そして、求められるままに母親は彼らに体を遣った。
あなたのためよ、と、そう言い棄てて、とはいえそんな事など知っている。ジウのためばかりではない。彼女自身のためにも?
姉のためにも。ジウは十歳で、姉は十二歳だった。
国境を越えた近くの寒村の別室で、母親が彼等になにをされているのかくらいは、姉と弟は知っていた。どこが違うのだろう、と、ジウはそう想った。故国にいたときは、ここまでひどい虐待はなかった。母親は強姦などされなかった。いま、母親は強姦されている。ならば、あきらかに故国のほうが生き易い、優れた治安国家であるに違いない。
なぜ、そんなやさしい祖国を棄てて、あえて軽蔑すべき裏切り者にならなければならないのだろう。
ジウは知っていた。母親たちが、かつてもう一つの国を棄てていたことを。日本。彼女たちはそこで生まれた。祖父母は日本に残った。祖父は戦争時に連れてこられ、祖母はみずから海を渡ったのがふたりの事実だとは言うものの、日本で出会い日本で結ばれたすでにそこには彼等の生活基盤が在った。それをいまさら棄てる事は彼等にはできなかった。半島に渡ったときに、彼等との連絡は遮断された。ジウは、祖父母の顔さえ知らなかった。あるいは、海の向こうの軍国主義と帝国主義の恐怖の王国で、すでに惨殺されて仕舞ったのかも知れない。さかんに喧伝される、資本主義の拝金主義の犠牲者となって。
遠い故国を思いながら?
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