小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説③ ブログ版
ディオニュソスの女たち
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ
Μαινάδη
マイナス
ジウが自分を連れ出そうとするのに、フエは抗わなかった。背後に窓越しの陽光と、かすかに聞こえるチャンの寝息が聞こえ続け、…眠る女。
不意に振り返ったジウの目が、チャンに触れるのを、フエは忌んだ。もう、と。
お願い
彼女を穢さないで、これ以上、と。
ふれないで
壊さないで、もう、これ以上、と、…お父さん。
わたしの
…ね?
おののくまぶたの震えに
縋りつくフエを、ジウはあえて面倒くさがりもせずに、抱きしめ返してやると、フエはようやく満足したようだった。ジウは想った。感じるがいい、と。自分が愛されているという馬鹿な勘違いに、自分の好きなだけ
青空はいつでも嘘をつく
溺れているがいい。それ以外のことなど、
真実と言う言葉の意味など知ろうとさえしないから
できはしないのだから。
家にどうやって帰りついたのか、フエには殆ど記憶らしいものなどなかった。いつか、いつでも、憑かれたように
見詰めないで
ブーゲンビリアの花々の匂いが鼻を衝いていた。それらは
ふるえる
視界の中に好き放題に咲き乱れ、そこには
蝶の
素肌を曝した少年が
羽撃たきのその痕跡をは
仰向けに浮んでいた。
空間に、ただ
それが、自分自身であることなど
名残りをだけ残した一秒以下の短い過去に
知っていた。そして、
そこに存在していたもの
その事実など、花々は知りもしないだろう事を、フエは哀れんだ。花々のために?
僕の精神は
落ちなかった
あるいは、
血に塗れて
果実は
花々に終に知られない、いわば永遠に不在の自分たち自身のために?
歩く
いつか死滅し消滅するであろう
いずれにしても、目に映るものすべてが哀れでしかなく、フエは、その少年に呼びかけることさえ出来ない。
シャッターを押し開いた。
その瞬間、自分が鍵さえ掛けずに出かけて仕舞ったことに気付いた。背後に、立ち止まっていたバイクが走り始める音が鳴ったのを、聴いた。彼らは待ち伏せした。《盗賊たち》。もしも、傍らにジウがいなかったなら、うちの裏門の横にバイクを止めて、スマホをいじっていた彼ら二人はわたしに襲い掛かっだのろうかとフエは訝り、とはいえ、彼らは襲い掛からなかった。
立ち去った。他人の振りをして。つまりは、そういうことにすぎない。
シャッターを押し広げた瞬間に、閉ざされていた空間に一気に侵入した光が、空間を眩ませた。そこの、淡い緑色の御影石の床の上に、フエが血を流していた。
色彩をなくしたフエ。フエは彼女を見つめた。もはや、形骸でしかない携帯の残骸、それは、唯単なる昏い翳りとしてそこにたたずんで、フエを見つめていたが、フエ、彼女はもはやなにものをも見い出しはしない。
両眼と、あけ広げられた口の穴ぼこから、血を、垂れ流されるその鮮血の色彩。あまりにもあざやかな、それは、そして、フエは覚えていた。惨殺されていく自分。
救わないでください
やがて、その最期に時に見い出した風景、不意に
わたしを
想った、あなたも、と。
このままあなたの腕の中で
ミー、あなたが
永遠に地獄の焔に焼かしめつづけてください
見い出していたのも
取り返しようもなく、ただ
こんなの風景なのだろうかと
あなたを
フエは、もはや
愛して仕舞ったから
痛みそのものさえ遠く感じられながら、
…ほら
それはかならずしも
わたしを見詰めるあなたのまぶたさえもがおののいている
麻痺していたのではなかった。
いま
むしろ鮮烈に、痛みの増殖しつづける群れは神経系を好き放題に燃え上らせていたのだが、痛い、と。
痛い
その
痛いの
連鎖する言葉の、
あなたのやさしい眼差しが
音響を伴わない無際限な羅列の連なりあいに並列されて、フエの醒めた意識にとってそれは他人の感じている苦痛でしかなかった。もはや
口付けはいつも
すべては
猛毒。…だって
冴え渡っていた。
わたしをなんども殲滅させて仕舞うのだから
耳元に男の息遣いが聴こえた。終に、と、フエは想った。わたしは最後の時をなどは見なかった。もう、見て仕舞ったから、と、その人類の、あるいは、現存の生態系の最後の日の風景。
それを、かつて見い出したとき、彼は不意に声を耐えて笑って、タオは、その傍らに彼に甘えながらも、彼のそのふるえる息遣いに気付きもしなかった。…好き?
Anh …
と、タオは
Anh yêu em không ?
その全身で問いかけるのをやめない。ハオは、タオの頭をなぜる。わたしは
あなたを愛し続けてもいいですか?
知っている、と、フエは頭の中でだけつぶやいて、見つめていた。
ずっと
フエは、
わたしがもはや存在しない、なにもかも、未来さえも焼け落ちた
眼差しの先に
時の果てでも
たたずむその、フエの流した血が横に流れて、どこまでも遠く拡がっていくのを。…なんて、と。
ほら
フエは想う。…悲しいのだろう?
怖がらないで
なんて、悲しいのだろう?…そう想ったフエは、
そばにいるよ
背後にたたずんだジウにその身体を
ずっと
うずめた。
きみを守り続けるよ
ジウは
灼熱の鉛の雨がこの惑星に新しい生態系を覚醒させたとしても
鼻にだけ
きみのそばに
笑い声を立てた。その声はフエに、容赦なく自分が抱え込んだ彼女への軽蔑を、フエにその意図もなく曝して仕舞っているはずだった。ジウは気にも留めなかった。もはや、何をされたとしても、フエは自分に焦がれるしかないのだった。不意に、くず折れるように自分に身を預けたフエを、前に押しのけて家屋の中に、土足でジウは足を踏み入れた。
押しのけられた瞬間にフエはよろめいて、危うく転びそうになりながら、彼女に自分が老いさらばえた実感が目覚めた。わたしは、と。フエは想う。
死んでいく。皮膚に、ジウへの愛おしさが容赦なく目醒め続けていた。フエは知っていた。クイの家を出てからずっと、町をジウにすがり付いて、頼り、慕い、睦まじく寄り添って、なかばジウに持ち運ばれるようにして此処まで連れてきてもらったことを、もう、と。彼女は想う。
隠されていることなどなにもありはしない。たぶん、町の、すれ違った人々の目に、鮮明にすべて、なにもかも知らしめられて仕舞ったに違いない。あの、フエ。
それは秘密だった
外国人好きのフエが、今度は
なぜ、わたしがときに
韓国人を
雨に濡れた紫陽花の花に涙ぐんで仕舞うのか
抱え込んだらしい。…と。
それだけは
どこからどうみても、韓国人は韓国人だった。観光都市たるこの町にあふれ返った、いかにも不遜な、いかにも先進国づらをさげて町を闊歩する韓国人旅行客たちのおかげで、町の人たちはすぐに、韓国人と中国人に関しては、一目でその国籍を認めることが出来た。韓国人でも中国人でもなければ、それは日本人に決まっている。彼らを見かける事は殆どない。ここでは、日本人とは、街中に大量の日本人学校があふれながら、その肉体ものは殆ど姿を顕さない、実在さえもが疑われる存在に過ぎなかった。テレビとインターネット画面の中にしか顕れない彼らは、いわば、いかさまの架空の存在に過ぎない。彼らなど滅びもしないままにとっくに消えうせていて、すでに実在などしない話の中だけの存在であることなどだれもが知っている。掃いて棄てるほどいる韓国人たちの倍の人口を誇りながらも。
ジウに触れてはいない自分の身体が、あまりに執拗にジウの不在を訴えた。それはどうしようもなく鮮明だった。フエは、不意に目舞った。振り返ったフエの眼差しに、至近距離にジウの実在がふれた。フエは、ジウがそこに実在していたことを実感した。穢い男。
愛おしい、最愛のチャンを穢し果てた男。彼は、チャンを見棄てさえしなかった。最初から、見出してさえいなかったのだから。…ダット。決して赦しては置けない男。
知っている。フエは。彼を殺したとき、足元に、あからさまに彼が自分がすでに死んでいることを曝していることに気付いたその時に、心の中に容赦ない正義の勝利の凱歌と、そして、自分の屈辱にまみれた敗北と、そして、どうしようもない永遠にふれてしまったかのような、追い詰められた喪失の痛みとが、共存することなくただ、かさなり合っていた。
フエは泣くしかなかった。
すべては、すでに壊されて仕舞っていた。あるいは、すでに、すべては壊されていたはずだった。ユイが死んだときに。あるいはチャンが自分を壊したときに。そして夫が自分を抱いたとき、さらにはホアが生きるのを辞めさせられて仕舞ったときに。ふたたび、と、フエは想う。
こんにちは
壊れる。
無数の
こわ、さ、
終わりをしか知らない
れる。
この
ふたたび、と、
世界
…壊される。フエは想った。すべてはもういちど、ふたたび壊されて仕舞った。彼は私を処罰するに違いない。そんな事は知っている。わたしは、と、フエは想った、わたしを許しはしなかった。彼は、わたしをさばきもしないままに、わたしは私を処罰した。彼は、わたしを、あのときあふれでたシャワーの水流で、陸の上で溺れさせて仕舞いそうになりながら、と、想い出していた。
フエは、ひとりで、そして見上げた眼差しに捉えられたジウは、自分には意味の分からないおののきと戸惑いを素直に曝している眼の前にフエに、意味もなく微笑みかけてやるしかなかった。
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