小説《ディオニュソスの女たち》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/マイナス…世界の果ての恋愛小説② ブログ版
ディオニュソスの女たち
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the puluto》連作:Ⅲ
Μαινάδη
マイナス
知っている。アンは、フエに、愛されたことなど一度もない。にもかかわらず、…愛しなさい。
フエの眼差しはささやきかけてやまない。ふたりは愛し合っていた。
皮膚に、彼女の肌の体温が残す温度があって、かさなりあった肌をそれぞれに汗ばませるが、もはや、感じ取られる汗の息吹きがどちらのものなのか判断など出来ない。
自分を棄て置いて、やがてひとりで体を起こすアンをフエは仰向けに横たわったまま見つめるが、肌と肌が離れ、かさなり合っていた事実を一瞬で放棄した瞬間に、二人の間に圧倒的な距離感が兆したのをいつものようにフエの肌は気付き、もはやフエはその隔たりを意識しない。いつも、と。
ここで
いつものこと、と、想いあぐねる隙さえもなくそこ。
ずっとそばにいよう。そして
手を伸ばせば簡単にふれて仕舞える至近距離に、覆い被さっていたアンの肉体は
見詰めていよう。一緒に
一瞬留まって、そして、身を起こすと、
この世界が年老いていくのを
彼は指先に自分の胸落ちの汗を確認していた。…浴びてきなさいよ。
シャワーを、と。眼に映るもののなにもかもを、ひたすらに歎いた、かすかな恍惚をさらす殉教者のような眼差しを、フエが浮かべていることは知っている。…たかが、と。殉教すること。
たかが俺に抱かれただけだろう?アンは想わず軽蔑とともフエを見て、殉教すること。
それは、こんなにもた易いことなのよ、と、なにをもいまさら嘲笑う気もさらさらなく、眼に映るもののすべてを明確に嘲笑して仕舞う以外のすべをもたない、すでになにかに殉じて仕舞ったものの、想い上がりをだけ感じさせるあざやかな眼差しが、アンにはただ疎ましかった。アンはフエを愛していた。そう断言して仕舞わなければならないことくらい、あるいは、そうこともなげに断言して仕舞えばより楽になれる気がするものの、そうは言い切りたくない障壁が、アンの心の中に巣食っていた。
アンは、姉を穢す気にはなれなかった。彼女に偽りをかさねる事は、彼女を穢すこと以外ではなかった。だから、アンは、自分が彼女を愛していたことを終に認めることは、決して
あなたは私を傷付けた
できなかった。
そのあまりにも鮮烈な
シャワーを浴びて出て来たとき、すでに
美しさによって。それら
フエはそこ、
朝の光の、夜の崩壊する
ダットの、…あるいは、
光の風景は
ハンとダットが寝ていたベッドの上に、フエはもういなかった。もはや、そこに彼女が存在していた気配さえもなく、そこにはフエは横たわってはおらず、彼女は、あるいは寝室で昼寝しているのかも知れない愛する夫のところに行ったのかもしれない。
それともクイのところにでも。
眼差しの中にだけ、不在のベッドの上にフエの面影が名残った。
フエは三階のチャンの傍らで時間を潰しながら、彼女の夫になるべき人がその家屋の一階で、赤いプラスティックのテーブルを囲んで、英雄クイを中心に、家族の男たちとの酒宴に捕まっている事は知っている。そうなるものだから、そうなるしかなく、そうなったのだから、そうするしかなかった。フエはチャンの、うたた寝を続ける額にそっと手をふれたが、温度。
その、やわらかさを皮膚に残すチャンの額の体温が、彼女の手のひらにじかにふれた。想いだす。フエは、やがて、あの《破滅の日》の正午を過ぎた午後に、あのジウという名の韓国人に誘われるままにクイの家を辞しのだった。なんという気があるわけでもなく彼女らを見送ったヴァンの眼差しに、執拗な猜疑の色が浮んでいた。フエを疑っているのではなかった。彼女の褐色の肌は直射された日差しに、かすかに汗ばんでいた。フエが、あまりにも歎き、そして疲れ果てていたので、ヴァンは彼女を訝ったのだった。…どうしたの?と、なにが…。
ときどき、僕は
あなたを、なにがそんなにも悲しませているの?
残忍になる。きみを、どうして抱き締めなければならない
その、
怒りに駆られたような感情に
あからさまな眼差しの色彩に、
敗北するときに
語りかけるべき言葉などフエは想いつかなかった。三階の仏間、チャンの傍らに、ひざまついたフエを、立ったままの男は抱きしめてみせ、いま、と。フエは想っていた。私はこの男にしがみついている。…と。
まるで、この男に懇願しながら縋り、あるいは哀れみをほどこされることを乞い願っているかのように。その事実に気付いた瞬間に、フエは容赦のない違和感と、共存しないままに放置された同意を感じた。確かに、と、彼女は想った。わたしはいま、この男に縋るしかない、と。フエは、あからさまにこの男を軽蔑していて、そして、間違いなく愛していた。
自分が愛してやるに値する男などでは、…と。彼が、決してそうではないことなどはすでに知っていた。どうせ、すぐさま射殺されて仕舞う男だった。夫を裏切ってまで、彼女にこの男に添う必然性はなく、…裏切り。
容赦もなく
その、不意に想起された言葉にフエは一瞬おののくが、わたしは
降り注いだのは
彼を
…それ
裏切ってはいない。フエは
日差しの鮮度。その
すでに
不意に
確信していた。わたしが、彼を
見あげた休日の朝の深い午後の窓越しの陽光
裏切るはずもない。なぜなら、いまも。いまであってさえも、鮮明に彼を愛しているのだから、と。彼女は想い、想う。たったひとりのホア、あの幼い子どもが死んで仕舞った瞬間に、その男は自分のことなど見棄てて仕舞っていた。死んだホアを見棄てるのと同時に。にもかかわらず、フエは彼を裏切りはしなかった。
フエは、疲れ果てながら、ジウにしがみつき、腰から尻にかけて、そのジウの身体の形態を強く、その腕が自分の身体の曲線をまさぐっている事実にはフエは気付かない。その、無造作に体をなぞる手ざわりの無数の覚醒を隠しようもなく自覚していながらも。
ジウは、自分にしなだれかかるしかない彼女へのあからさまな軽蔑を眼差しに曝して、フエを抱き起こした。腕に抱き起こすとジウは彼女を、その腕に抱きしめて、もう一度唇を奪ってやった。…ほら、と。
これが欲しいんだろ?かさねあわされれば、かさねあわされたものはそうなるしかないのだ、と、もはや自覚されるよりすばやく唇のあいだにフエの舌が入ってくるのが、ジウに新たな軽蔑の種を与えた。
うす穢い女だった。使い棄ててやるほどの価値さえもない。人種差別も、性差別も、個人的な軽蔑もないもかも含めて、…唾棄すべき、と、ジウはこんな女のものになってやる自分を哀れみながら、その自分の身のあまりの無残さに恍惚とした。命がけで、のたうちまわりながら、姉と母をさえ見殺しにして辿りついたはずの場所で、いま、と、想う。俺はその価値さえもない下等な存在に穢されていく。
堕ちていく
彼を愛した女のひとりひとりに教え、見せ付けてやりたかった。お前たちが
そのひとつひとつのちいさな木の葉が舞って
焦がれたものがいま、取り返しようもなく
きみの
こうして
髪の毛にふれた
容赦なく穢されていくのだ、と。
その秋の日に
お前がアジア人種だから穢いのではなく、お前がベトナム人だから穢いのではなく、お前がお前がだから穢いのではなく、俺がいままさにお前を穢いと認識したその限りにおいて、お前とお前が所属するすべてのベトナム人とアジア人は穢い。…ほくそ笑みもせずに、澄み切った眼差しだけを曝して、口付けた至近距離の中に自分を見つめるジウの眼差しを、自分が見つめていることに気付いた瞬間に、フエは自分が眼を閉じていなかったことに気付いた。
あなたは
ふたりは、
ここにいます。あなたは
見つめあいながら、そして
いま
曝していたのは
わたしのやさしい腕の中に
明らかにお互いに飢えた愛し合う人間たちの、胸焼けしそうなほどに焦がれた気配に過ぎなかった。そんなことには、フエは、すでに気付いていて、そして、容赦もない違和感しか感じない。永遠に、…と。
憩う
穢れた存在。あなたは永遠に
腕の中に抱かれて
呪われた犯罪者。永遠に
あなたは
処罰されるべき穢れもの。
眼を閉じたままに
人殺しのダット。
ただ
フエは
憩うのだった
つぶやく。頭の中に。穢い人殺しの
自分がこの
呪われた生き物、…と。
世界に生れ落ちたことさえももはや忘れて
そうとは言えない。ダットは、決して誰にも手をかけはしなかった。戦争のときでさえ、衛生兵に過ぎなかったダットは結局はだれも殺しはしなかった。ときに彼の適当な治療と処置がいくつかの、癒えるべき傷を化膿させ、生き残るべき人間を間接的に屠殺したにはしても。いずれにしてもチャンはすでに殺されていた。自分自身によって。その両眼を自分で抉り出したときに、チャンはすでにみずから殺されていた。だから、チャンを穢したという事は、チャンを殺したということをは意味しない。そして、すでに殺されて、そこに存在しないものをもはや、存在するものは穢すことなどできはしない。誰にも手を懸けはしなかった。わたしは、…と。
間違っている。フエはそう想った。ダットは、かならずしも彼にお前はジウだと言って遣るべき必然などない。その魂は同じであったとして、すでに、もはや、ふたつのかけ離れた存在になにも共有される獲るものなどありはしないのだった。そして、それらを正確に認識しながらフエに、あざやかな憎悪が沈静化されることなど在り獲ない。
フエは、遁れようもなくダットとしてジウを憎む。ジウは、わたしに憎まれなければならないと、そして、発情を素直に曝して、飢えて絡まりあった舌を、いま、自分の舌ごと噛み切って仕舞えば、どんなにすがすがしいだっろう、と、その残酷な想像の痛ましい感覚、あるいは舌の上に蘇った、他人の歯に咬み切られた舌の、知りもしない痛みの鮮明な感覚に、フエはおののく。
いつか
嫌悪した。
ぼくは
のけぞりそうになって、そして、想わず舌を離して仕舞いそうになりながら、フエは
君を微笑ませてあげる。もう
耐えた。唇を押し付けて、
唇も
むさぼって、
歯も
唇を離し、体を
顎も
引き剥がし、たとえば
なにもない、吹っ飛ばされて
ベランダから、
吹き飛んだ
ジウを突き落としてやる誘惑に身もだえしながら、
肉片に過ぎない君の残骸を、たとば
それでも耐え、ジウは
この世界が崩れ堕ちるその前に
つぶやいた。
崩れ堕ちようもないあまりも頑強なこの
頭の中にだけ、その、
世界の唯中で
フエの身もだえする仕草のひとつひとつに、
いつか
何て、…と。
なんて穢い女なんだ、と、そうつぶやかれた沈黙の音声が無数に反芻されるがままに、ジウはいっそう鮮明になっていく嫌悪にだけ倦んだ。フエが、ジウを愛していたのは事実だった。ジウには、女をそうさせずには置かない何かが、媚薬じみた気配が、自分にはある気がした。もしそうなら、フエはジウを愛しているとは言えず、それは女が一般的な必然的反応としてジウに反応しているに過ぎない。だから、わたしはジウを愛しているとは言えない、と、気付かれたその事実が彼女を安心させて、そして、フエはジウに焦がれた。
長いキスを、ようやく終らせた時、不意に、身もだえして、抗うように、抱きしめられた腕から自由になったフエを眼差しは確認しながら、それ。孤独感のようなもの。
容赦のない、癒しがたい、その。もはやなにものにもふれられ、ふさがれてはいない唇にだけ、かすかに、隠しようもなく、その唇にだけ自覚されていた孤独感の存在に、やがてジウは気付いた。ジウは瞬き、…抱いてください。
フエの、潤んだ、自分勝手で複雑すぎる懊悩に酔った眼差しが直接、ジウに呼びかけていた。…もう、と。
わたしは
…好きにしなさい
辱めないでください。
フエのまぶたが、
鳥。たとえば
望むがままに
これ以上、辱めないでください。私を、…
瞬きもせずに、そして
あなたの頭上の周囲を飛んで
穢しなさい。この
あなたのものにして、そして
そっと見出しているのは、
あなたに淡い
特別な日に
壊してください。もう
彼女が愛し、焦がれた、眼の前の
翳りを投げるそんな
赦されないことなど
二度と生き伸びれないくらいに
自分に過ぎない、と、ジウは
鳥
なにもない
後れて自覚した後で、いずれにしても彼は、他者に愛され、焦がれる恍惚に浴するしかなかった。
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