小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説28ブログ版







カローン、エリス、冥王星

…破壊するもの




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ


Χάρων

ザグレウス









ジウは、ナイフを根元にまで突き刺した。

果物ナイフとは言え、刃渡りは10センチくらいあった。手のひらに刺し貫かれて仕舞えば、それは、巨大で赦し難い異物としての存在感をただ、私の視界の中に曝した。…まじで、と。

「いきそう。」

ジウは言った。「…やばいよ。…ね?」もう、…と、「やばい」そう言うジウが、ゆっくりと眼差しを上げて、私を見たときに、そこに曝されている鮮明で、自分勝手な発情は私にはただ穢らしく見えた。…ねぇ、と。

私はジウに、「お前、…さ。」

ね?「あの…」ね、…

ひょっとして、…「さ、」ん。

「痛いの、好きな人?」と、言った自分の声を聴き取った瞬間に、私は声を立てて笑って仕舞っていた。

私はむしろ、眼の前に見い出された風景におののいていたのだし、嫌悪してさえいたのだった。にもかかわらず、私は自分の笑い声を留めることに苦労するばかりだった。なにも、おかしくはなかった。なにも、笑うべき理由などなかった。眼に映るものすべてがもはや、私を笑わせるしかなかった。「…まさか。」

ハオは言った。

「おれ、」…さ。

ジウ。その、「俺、…」

おるぃぇ

ジウの声を聞く。「ナイフ突き立てた瞬間、もう、…なに?」なんにも、「ね?」…なにも感じてないわけじゃないよ?「けど、…」だから「…さ。すっげぇ…。」ね?「閃光が走る。頭の中を。」…まじで「もう、…なんにも考えられない。」…なんにも「…やばいくらい、単純に気持ちいいの。けど、なんか、いけないのね。まじで。射精とかさ、そういうんじゃない。わからないけど。もう…そういう」…てか、「痛いんだけど、…」分かる?「自己超克ってあるじゃん。想ったんだよ。痛みを超克しないで、何が革命だって。糞かよって。で、遣ってみたの。考え方としてはさ、俺、最初、痛いの我慢しようとしたの。けど、無理じゃん。遣ったけど。…血まみれで。もう、…」なんか…「むしろ後悔した。」…生きてること。「生まれたこと」そのくらい、「いってぇ…って。」でも「さ。で。」…ハオさんに言ったんだよ、俺、…

おるぃえ

「自分自身超えたかもって。次のドア、眼の前にある感じ。それがなにか、…そのドア、まだ何なんだかわかんねぇんだけどって。」笑う。…まじ、「ね?」…いまや、「さ。」いまやもはや笑うしかないんだけど「ハオさん笑うのな。そう言ったら。俺、すげぇまじなのに。で。言うの。こいつ、…この、」おっさん、…この、「糞。あたま、」くっそ…「腐った?って。」言われた。まじ顔。「所詮感覚じゃんって。痛いって言ってるこの感じ?この…さ。これ。これ、を、」だ、ね、「…これ。わかる?」これ、を、…と「気持ちいいとか、やべぇ、すっげぇ…とか、」…さ「そういう感じに、その、感覚の解釈っていうか、言葉尻変えて感じてみろよって。これ、この感じ、痛いんじゃなくって、むしろ気持ちいいって。」例えば、さ。「それ、さ。」例えば、の話し…「それ。考えてみたら、」な、…これ、「すげぇシンプルだけど、」…ね?「わかるじゃん。」わかる?「…言ってること。」…俺の、

すっげぇー…

「わかった。すげぇ分かったから。俺。ハオさんの言ってること」だから…「遣ってやったよね。もう一度。感覚機能超克すんの。自分の、脳細胞革命。てか、むしろニューロン革命的な」やばっ…「てか、まじ、やばいじゃん。」やばいからね…「まじで。」

「で、…」

言った私に、…気持ちいいの?「お前、…」ジウは、「いま、」あきらかに発情した眼差しの上に、さらに私への媚をさえ重ねて、「そうとも言う。」

「なにそれ。」

「事実としてはすげぇ痛い。」

噴き出して笑ったハオのことなど、もはやだれも気にしてはいなかった。笑い転げている当のハオ自身さえ含めて。

空間にハオの笑い声は乾いて響いた。

「こいつ、みんなの前で遣るんだよ。これ。」ハオは言う。「最初は、へんなこと言い出した、…」笑い終わった「…なに?」ハオは、「皇道派、…か」むしろ「そういう…」悲しげな眼差しを伏せて、「そんな、わけのわかんないこと言ってる韓国人の、」その、「…さ。」気配にだけ私に「なんかいびつなマニアックな日本人のお仲間の集まりだったけど」ふれていた。「…好奇心的な?」私に「なんか…」出来る事は、ハオの「私いま、怖いもの見たさの好奇心惹かれちゃってます的な。けど、」悲しみをいつくしみの眼差しの中に、「これやると、」そして「引く奴は引くけど、」そのまま「はまる奴はさ」放置してやる以外にはなかった。「ずっぷり。」…ね?「まじでずっぷり、どっぷり、ときにむっつりやがてがっつり的な?…はめたよね。このアホが。自分の手のひらの残虐ショー…もう、さ」わかる?「キリストっぽいでしょ。」スティグマ。…「なんかの像が血の涙流しましたレヴェルじゃないからね。聖者の遺体は死んでも腐りませんとか。」…見えた。「…って。」…感じ。「ついに見たって、…なんか、そういう感じ。」

「なにを?」

「神を。…奇跡を。」笑うよ。「でも、」ま「すげぇインパクトなんじゃない?」そりゃ「カルトになるよね。なんか詐欺っぽい騙しテクやあたらない予言つじつまあわしてこじつけてるわけじゃない。終末論もない。自分たちが自分たちで終らせちゃうんだからね。…でも、実際、聖痕曝した奇跡の男が眼の前にいるんだぜ。苦痛をさえ超克した男。神さまってのの定義だのその神様ってのの個人名だの文化的必然だの歴史的帰結だの論理的根拠だの正統だの異端だのなんだの、ふっ飛ばして直接信じさせちゃうよな…」てか、…「違うか。信じるって。違うか。…知るって、…なんか、そういう、…知ったって、そういうの?…か?なんか、そう言う感じ。」じゃん?「いきなり眼、開いて直接、神様見ちゃいました、みたいな。信じるとか信じないとか以前にね。眼眼、開けたらそこに神様がこんにちはしてんの。」…もっとも、「…ま、」はまった奴限定だけどね。「いろんなジャンルに信者広げたの。口外禁止で。ネット拡散絶対禁止。門外不出。今の時代に。むしろ、…ね?神聖なものだから、絶対に秘密にしろって。そしたら、コアにコアに拡がってくの。どこまでも。最初、軍隊とか考えてなかったけど、…ね?」やっぱ、…「分かってるわけじゃん。」たぶん…「軍人とか。痛みとか、死ぬこととか、殺すこととか、ぶっ壊すこととか。さすがに、演習でもなんでも眼の前で爆弾ふっ飛ばせば、嫌でも気付くぜ、…その、」なに?「破壊の痛さ。…」なんか、「いろーんな」…ね、いろ「いろー…んなジャンルの人、サークルに集まってきて、人種超えてね。ほくそ笑むのはこいつよ。しょうもない妄想具現化できちゃうじゃん。フィリピンから中国からアメリカからイスラエルまでさ。こいつの妄想はまってくの。中央アフリカだのナイジェリアだのフィンランドだのノルウェーだの、…さ。」ただの…「ね?」こいつ、…「頭のおかしなマニアの変態なんだけどね。」

「だからわかんない…あいつらにゃ皇道精神なんて。」ジウが言い終わる前に、…じゃ、さ。…と。その私のつぶやきを、ハオは見上げた眼差しに追った。

一瞬後れて、微笑を浮かべてみせながら。「こいつの遣ったこと、すでに失敗じゃない?」

私の、軽蔑を素直に曝したゆるんだ笑みを、ハオも、ジウも黙認するしかない。「…第一、」さ。「結局、陛下陛下って…こいつの中で、一番不在になってるの、その陛下さま自体なんじゃないの?論理ゲームとして論理的にそうだってだけで。…べつに、こいつが韓国人…北朝鮮?脱北者…なんか、ようするにこいつがこいつじゃなくなれるんだったら、べつに、天皇でもキリストでもなんでもさ、なんでもいい訳じゃん。一神教的なシステムだったらさ。」…違う?「天皇なんて、まっさきに不要じゃん」…違うから。ジウはつぶやく。「違う。」…と、そしてジウは、ナイフを一気に抜取った。

「ぜんっぜん…」

その瞬間、

…あんたわかってねぇから。

一気に血が吹き出す。その

「違うからね。…それ。」

ふたたび開かれた手のひらの傷痕から。

ジウは、腹部に手のひらを押し付けて、着たままTシャツに手首ごとくるんだ。「勘違いしてる。」

ハナちゃん…

「勘違いしてる。」

「なにを?」ハオの声。

私は聴く。

そして、ジウは自分を見上げたソファの上のハオをは見ない。「なにが、違うんだよ。…かす。」

「愛してるから。」…まじ。

ジウのささやき声を、「まじで、」聴いた。「天皇陛下を。」あえて噴き出したりはしない。

だれも、もはや。

十分だった。すでに、私たちはジウ自体に飽きていた。どうでもよかった。Tシャツを夥しく穢していくその血の色彩さえもが、煩わしかった。…病院、行って来いよ。

私はそう言った。そして、ジウにとって、あるいは私にとって、および、ハオ。いずれにしても、私たちのすべてにとって単に外国に過ぎないここで、ジウが自分で病院には行けないことなど知っていた。言葉の問題以前に、いきなり手のひらを血だらけにした外国人が血だらけで顕れるのを許容して仕舞えるほど、世界の医療は発狂してはいない。私は、彼を病院に連れて行ってやる身振りさえ見せなかった。

事実、私にはもとからそんな気など一切なかった。

ジウは、腹部に手のひらを押し付けて、かすかに右に上半身を傾けながら、私を見つめていた。恍惚として、ただ、剝き出しの官能を自分勝手にむさぼりながら、そして、ややあって、彼はようやく言った。「…いい。」

慣れてるから。…

「もう、…ね」

何回も…

「…ね?」

何回も遣ってきたからね…

「いいよ」

気にしないで

「自分で…」

ね?

「できるから、…」さ。

だから…

「んー…」ね。

シャツ…

「シャツ、なんか、…」

ハナちゃんの、

「なんか、シャツ、…」

貸してくんない?…おれ、

「薬局行ってくる。まじ、」

ちょっと、…

「ね?」私たちは、彼の、誰かをはばかったわけでもなくひそめられた声を聴きながら、私は絶望的な気持ちにさえなっていた。ジウにはもう飽きた。使い棄ててやるしかなかった。腹立たしいほどに、彼はつまらない男だった。存在する価値どころか、破壊されるべき価値さえもなく。たぶん、彼が彼自身の行きつけるところまで、赤裸々に、正直に行ってみせたからだった。そんな気がした。

案内されたわけでもなく私たちの寝室に入っていくハオの後姿を見つめた。こんなにも飽き果てているのに、いまだに彼を見つめている必然が、私にはわからなかった。

シャツを着替えて、古い血まみれのシャツをぐるぐる巻きにしたジウは、私に言った。「ごめん…」これ…「勝手に借りた。…てか、」貸して?「ね?」…鍵。「バイクの鍵、貸してくれない?ちょっと、歩くのうざいからさ。外のやつ、借りる。…」

シャッターの外に出て行くハオは、唐突に振り向いて、そして、言った。「…奥さん。」悪びれもせずに。「壊れちゃったかも。」

笑った。ジウは。

邪気もなく、…あ、と。こんにちは。そんな微笑み。やがて、彼はうつむいて、「なんか、」

…ね?

「若干、フォローして遣ったほうがいいんじゃない?」…的な。そんな感じかも「でも、」さ。「あの女のほうだぜ。」やってくださいって。「もう…さ。」…もろ。「もろ好き好きせがんで来てやがんの…」てか、「ね?」…ごめん「傷付いた?」

ジウは微笑みながら私に頭を下げて、何かを謝する。バイクを借りた感謝だったのか、フエを手篭めにしたことの謝罪なのか。いずれにしてもフエは、寝室に、ジウの言うように壊れているに違いない。

痛みなど気にもせずに、止まりようのない血の流出にだけ気遣いながらジウはハンドルをそのまま両手に握り、エンジンをかける。

私とハオは、ジウの、走り去っていくバイクの音響を聴く、その手前、庭先のブーゲンビリアは匂い立った。

むささきに近い紅の色彩を撒き散らして。

振り向くと、ハオは一人でただ、想いつめた歎きの色を曝していた。何と言うこともない。ただ、その場に変わりもなく座り込んで、何と言うことでもなく、何も考えることを想いつかないから何も考えていないだけだ、…と。

そんなありふれた表情をしていたに過ぎなかったが、そこにはあからさまな歎きが匂われた。私は眼をそらした。…ね。

ハオが言った。

「あいつ、どうなるかな?」

…あいつ?と、私はためらいながらハオを見やって、「あいつって…」唇の先にその言葉をようやく吐きだしながら、「フエ?」瞬く。

ハオはなにも言わなかった。

ほんの数秒間、そして、私を見つめ返すわけでもいなくハオは鼻にちいさく笑い声を立てた。むしろ、私を嘲るように。「…ジウ。」かならずしも「あいつ、…」私を嘲ったわけでもなく。

「…あいつ薬屋なんて分かるの?」

言った瞬間に、そのなんでもないことを吐いた自分を、なぜかハオは後悔していた。そんなことではなくて、…と。俺が言いたい事はそんなことではなく、と、そう想った瞬間にハオは言うべき言葉など元からどこにもなかったことに気付いた。それが、私には鮮明にわかった。

立ち上がったハオを眼に追った。ハオはシャッターのほうに一人で歩いていって、開け放たれたシャッターに凭れる。整形した薄い鉄板を組んだだけのシャッターが、安っぽいがらついた音を立てる。

私は眼を伏せる。

くだらねぇ…「な?」…ね?

振り向きもせずにハオが言った。私はその声に誘われるようにハオを見つめたのだが、淡い逆光じみた光線の中、ハオの姿は眩んで見える。その形態を、むしろあざやかに光にくまどられたままで。「フエ?」

答えないハオに、「ジウ?」

言った私は、不意に聴く。

唐突に言われた、「…ブーゲンビリア。」その、ハオの声を。…なに?

問い返す私は、いつか微笑んでいた。

「ブーゲンビリア、…詐欺の花。」ハオの声はただただやさしい。「…知ってる?」

振り向いたハオは、しかし、かならずしも私を見つめるわけでもない。「この花ってさ…」

花々。

ハオの足の先に、夥しく散った無数のブーゲンビリア。庭先の、花々の色彩。「白いんだよ。」

…ね?

確かに、白のブーゲンビリアもある。ときに、同じ樹木に、白と紫がかった紅の花々が、同時に咲いていることさえあった。「…本当は、」…ね?

「ちっちゃいの。…あの」ほら、「あの、紫の花みたいに見えるやつの真ん中の、…雄蕊とか雌蕊みたいに見えるやつ。…真ん中に突っ立ってる、あの、白いの。あれ。」

「あれ?」と、言った私は、

「そう」

まばたく。

「…それ。あれが、花なの、周りの赤いのとか、白いのとか、ピンクっぽいのとか、あれ、葉っぱなんだよ。…花みたいじゃん。…普通に見ると。あれ、どっからどうみても花なんだけど、よく見ると、ちっちゃい白い花の周りの葉っぱが紫色に変色してるだけ…むしろ、紅葉、みたいな?…」なんか、「そういう…」

そうなの?と、口を衝いて出そうになった言葉は、口からこぼれる前にすでに「…知ってる。」私に忘れさられて仕舞っていた。

「知ってる。」私は早口にささやき、それがハオの耳にも聴こえたかどうかは知らない。

「詐欺だろ?…紅葉と咲き乱れる花って、意味が違うじゃん。まったく。逆向き。流れてる時間も違う。これから生み出す生産の時間と、老いさらばえて、劣化して後は散るだけの滅びの時間。もう、…なんか、…」さ。「そこで体験されてる事柄の意味自体が違う。…けど、」…ね?「実際に咲いちゃってる花の周りに、紅葉の葉っぱが花の振りして咲いてるの。…もう、」笑う…なんか、「もう…」ね?「笑うしかなくない?」

私は何も言わなかった。呆然としてたわけではなかった。すべては鮮明だった。ハオが、そう言うことを、確かに私はすでに知っていた。ハオが、立ちあがる前からすでに。「色っぽい色彩…」花の…「ね?」

花の色彩、…「だから、」さ。

「ね?」…なんか、「匂うじゃん。」

花。…もう、色っぽい、…

「つやっぽい」…さ。「匂うじゃん。」

眼にね。「め。」には、…「ね?」

ん、「んー…」けど

「嗅いでみ?」花。「…あれ、」…ね?「しねぇー」

の。し、…

「にねぇー」…の、「な。」

花の匂いなんか全然しねぇーのな。…「ま」

よく考えたらあれ、葉っぱだし、「花は。」…花はあくまで「さ。」あのちっこい白いのだから、それに鼻押しつけりゃそれなりにそんなふうな匂いするのかもしれないけど、基本、「全然、…」

匂わねぇー「の、に」おわねぇー「の。」…さ。

ね。「詐欺。…むしろ。」…あれ、「ね?」

詐欺。…の「花…」じゃ、…「ね?」

違う?

言って振り向いたハオを、私は見つめていた。

私は微笑んでいた。なぜか、私はハオを赦していた。彼を断罪した記憶さえもなく。いずれにしてもそんな必然が、理由が、権限が、私にあるのなかないのか、それが私にはわからなかった。

私は背を向けると、寝室に向った。そこに傷付いたフエが横たわっているに違いない事は、私はすでに知っている。






カローン、エリス、冥王星



想いだす。バナー・ヒル、近くの高山の遊園地で、フエを見失って施設の中をさ迷い歩いていた私はふと立ち止まる。

高山の冷気の中に、霧雨とさえ言えないほどのこまかな霧状の水滴が空中に舞った。私は、不意に出て仕舞ったさまざまな花のガーデンの、それぞれの色彩を無防備に散らした広大な拡がりに咲き乱れた、整備されきった花々の色彩を見遣った。

そこが、Jardin de fleursという名の花のガーデンスペースだという事は、あとで知った。出口のほうから入って仕舞った私が、やがて入り口から出るときに、花に彩られていた壁面いっぱいの花文字でそう書いてあったのを見たときに。

花々の尽きた先に、高山の頂から見下ろした。町が見えた。雲の切れ目から。その先には海が拡がる。

何と言うこともない、ただ、巨大な、遠くに見える、指を伸ばしてもふれられはしないし届きもしない、そこにあるその、存在として。

想い出した。その時に。サイゴンからダナンに結婚のために何回か往復した、その飛行機の中。

10月に、サイゴンに珍しく直撃したひ弱で、ただ広大に広がった台風がとろくさい一晩がけの一過の後に拡げたひたすら空を埋め尽くした真っ白い雲。

その上空に突っ切った先の、一番下の階層の雲に、さらに同じような雲の部厚い幕が張っていて、上空の雲の純白はただ、ひたすらに白い。

その、決して見出されえない上から通過した光が、面として巨大な光沢を自由に、その雲に与えて、気流の速さが、視界の中に飛行機の進行方向の感覚を奪う。後ろに後退しているように、横滑りしているように、あるいは停滞しているように、それらは結局は解釈の仕方次第に過ぎなかった。どうとでも見て取れた。上下さえ、とりあえずのものに過ぎない。地上の上下など、所詮は重力の問題であって、そもそもは方向の問題ではなかったはずだった。

目舞うことさえできない。眼差しが捕らえる風景は、力強く、清冽として、ただ、美しい。

何者によっても穢され獲ず、傷付けられ獲ない二層の、光を帯びた雲は、やがてその尽きた彼方に、丁度一本の、まっすぐな青空の青を、視界の切りから切りまで曝していた。その、細い一本の線の、それ自体としてかがやく青はあまりにもあざやかだった。

あまりの遠い美しさに、あわてて傍らに、方に頬を預けて寝ている苦しげなフエを起こそうとしたが、その気もなく緩慢にもがくだけで、フエは終に目醒めない。

私は、ただ、見惚れていた。





2018.11.13.-11.28.

Seno-Lê Ma







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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