小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説25ブログ版







カローン、エリス、冥王星

…破壊するもの




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ


Χάρων

ザグレウス









私は、ハオに、何の反応も示さなかった。むしろ、彼を気遣った。その、こまやかな想いのさまざまなかたちをなさない浪立ちを。「意外に、普通に幸せなんだけど。」

ハオは自分の唇を舐めた。

…俺ら「実際、…」

その舌先の取るに足らないちいさな動きを、私は見ていた。

「ね?…」

そうハオが耳元にささやきかけたとき、私はミーのことを思い出していた。あの、《盗賊たち》に惨殺されたミー。「普通に、」…幸せ。

ハオの声に邪気はない。

「普通って?」

「普通は普通。」ミーは、と、想った。私は。…彼らに裏切られたのだろうか?「よくわからないな。」

「普通って事が?」ハオが笑う。いずれにしても、町の人間たちに買収された《盗賊たち》は、「…例えば、さ。」結局は彼女のために報復したのだから、あくまでミーを裏切ったとは言い切れない。

「誕生日に、…ね?」

たとえ、彼らがミーをその手にかけて仕舞ったには違いなくとも。

「あばあちゃんの?」

「…ばか。」とはいえ、彼らがみずから彼女を「…まだ若いよ。」惨殺した事実は隠しようもない。「…本人的にはね。」

「てかそれ、…」…笑う。まじ、「…笑う。」

いずれにせよ彼らが、その仲間の姉を殺して仕舞った私たちに報復するのは当然だった。「いっつも…」ハオは言った。

「例えば、さ。おばあちゃんの…」ってか…「く姫の誕生日、…」例えば、…ね「今年の三月」

「三月生まれなの?」…そ。と、そうつぶやいたハオはその眼差しにだけかすかな笑みを曝し、とはいえ、あきらかに悲しげな色彩が、その表情にはあった。

「まじで…」ね?

ハオは、もはや疲れ果てていた。

「どうせなら、」…さ。

ハオが、

「三月三日に生まれればよかったのに。」

口元にだけ笑い声を立てたのを、私は、「ね?」聴く。「…じゃない?」

私はハオを見つめるのだが、ハオは、むしろそこに私など存在してさえいないように自分勝手に振舞って、「そう想う。」まじで…「おれ。」

「で、どうしたの?」

私は微笑んでいた。

「誕生日に。」

「誕生日?」

「誕生日に。」

「誰の?」…く姫。その私の声に、明らかに自分が今何を話していたのか忘れて仕舞っていたハオは、隠しようもなく、そして、隠す気もない狼狽を曝したが、…ああ、と、つぶやくハオは声を立てて笑っていた。「…それ、ね。」

「どうしたの?」

「たいしたことない。普通の…」あくまで、ね。「普通の話し…」あの、…さ。「誕生日にレストラン予約したんだよ。ありふれてるでしょ?なんか…ネットで見つけた。普通に。それなりのところだよ。なんか…イタリアン的な?でも、あれ、たんなる普通のイタリアの料理屋なんだろ?基本的には…さ」ね?「で、そこ連れてったんだよ。」

「おばあちゃんを?」

「そ。」そそそ。「愛しの、」…ね。「おばあちゃんを。」…笑う。「で、」…笑っちゃう。なんか、「く姫がさ、」…ね?「ぐずるんだよ。」笑えるんだけど。「レストランの前で。」…まじ、…「日本のさ、ああいうさ、そういう店ってさ、いかにもなさ、そういうさ、ああいう感じじゃない?だからさ、いかにもなさ、高そうなさ」

「ぐずるんだ。」

「ぐずるのさ。」

「く姫が。」

「おばあちゃんがね。」…で。「やめてぇ…」って。「ね?」言うの。「やめてぇ、」って、「やめてよぉ」とか、さ。…ね?「もう、…」あいつ、「いやだからぁ」…って。

「なんで?」

「わあつぃおばあちゃんよ。んもぉう似合わないからぁ…」その、作った声色が、どこまで本人そのままをトレースできているのかどうかはわからない。いずれにしても、その、ハオにまねられた声色は私を笑わせて、「なんで?」ハオは戸惑った。

「なんで笑うの?」…なんで?

明らかに惑ったハオに、「ねぇ、…」私は新たな笑い声を浴びせるしかない。「おちょくってるの?」

…俺らのこと。そう、ハオは独り語散た。「あいつ、言うんだ。」つぶやく。

ハオは声を潜めた。「わたしもう、おばあちゃんだから、あとは穢くなってくだけだから、あなた、もう、ほかに女作ってって。もういいからって。なにもしなてくれなくていいからって。」

「で?」

こともなげに言うね。…と、ハオはそう言った。まじの話しだぜ、これ。

「違うからって、俺、言ったの」分かるでしょ?「違うからって、それ、」実際、「俺、まじ、」…違うじゃん。「お前と、…ね?」それって、「く姫とさ」…ね?「俺、普通に、」全然「最期まで、さ。」…もう、「普通に、」全然、「ね?」違うじゃん。「添いとげるつもりだからねって。」

「なんて?」

「く姫?」

「なんて言ったの?」

ハオは、私を見つめた。むしろ赤裸々な私への同情が、その眼差しに匂った。

「…ばか。」…って。

ね?

「ばかって。」そう、…ね?「言った。」…俺。「そう、言った。」…だって。

「く姫が?」

「ばかじゃん?あんたって。」

「なんで?」

「わたしが一番欲しいもの頂戴って。…なにって?上げるって。あげるから言ってって。そしたらさ、言うの」あいつ…「ね?」まじ、「あいつ、」…かわいいの「あんたの…」…なんで?「幸せ。」

私が、もはや我慢できずに声を立てて笑って仕舞ったのに、至近距離のハオは気付いていなかった。ハオは、ただ歎かわしげな眼差しを伏せて、ただ、自分自身の痛みに耐えていた。それは彼の身を切り刻むように、鮮烈に彼には感じられているはずだった。私はそれを知っていた。「幸せになってって。で、もう忘れていいよって。わたしこと、もう、…って。もう、おばあちゃんになって穢いわたしなんかじゃなくって、もっと若くてかわいくて綺麗な子みつけてって。」わかる?「ね?」きもち…「わかる?」その、…「…ね?」てか…

言いあぐねたハオが、不意に、想いあぐねて私を正面から見つめた。「まじ、俺、泣きそうになった。」…わかるでしょ?「俺の気持ち。」人間だったら。「まじ、…」分かるでしょ。「泣きそうだったからね。」…言った。「俺。」普通に、…「言ったの。」ばか。「ね?」ばかって。…「ね?」俺の…「俺の幸せって、もはやお前しかいないからねって。」

私は、微笑みながらハオを見つめていた。その眼差しがハオに、自分を嘲っているように捉えられていたことには気付いていた。「まじで、…」

おれ、…

「お前しかいないからって。」

私はハオの頬にふれた。その、左の手のひらで。ハオはそれには抗わない。

「く姫は?」

「見つめてた。…俺のこと。」

「お前は?」

「抱きしめた。…あいつのこと。」想った。俺、…「そのとき、…もう、」ね?「ほんとに、世界、滅ぼしてやろうって。」

「そのとき、想いついたの?」

「まさか。もっと前。…もっと前から、…ジウと、…」ね?「あの韓国人と会ったときに想いついてて、もう、準備も工作もなにも、すでに結局後戻りもなにもできない感じだったけど」

「すでに?」

「でも、」…ね?「想ったんだよ。そのとき、本当に世界を滅ぼしてやろうって。」

「く姫のために?」

「そうとも言う。」…実際、「ね?」じっさい、だよ。…「…ん。」ロマンティックじゃん?「一人の女のためだけに人類の歴史は幕を閉じるわけ。はい、お仕舞い、と。もちろん、次の生態系のスタートだよ。すげぇじゃん、それって。歴史の分岐点。その起因は唯一つ。一人の女。俺のく姫。」

ハオは、もはや隠しようもなく、企みをその眼差しに曝した。そのこれみよがしな表情に、私は単なる陳腐さ以外を感じはしなかった。

「なんて言った?」

私の差し伸べた手のひらの、親指にかすかに唇をふれさせながら、ハオは私を見つめていた。「…だれが?」

「く姫。」

「く姫は、まだ、知らない。」

「知らない?」

「そ。」ハオは声を立てて笑う。「なんにも。これから起こることも、なにもかも、全部…」

「なんで?」

「秘密だから。…」永遠に「ね?」秘密だから…

「どうして?」…だって、と、言って眼を伏せたハオの眼差しが翳る。「あいつ、悲しませたくないから。」

堪えられずに噴き出した私を、ハオはむしろ完全に無視していた。もはや、ハオにとって、私などいないも同然だった。真摯な彼の告白は私に対してなされ、そして、もはや、私などこの世界に存在していなかった。もとから、私など影も形も存在してなどいなかった。すくなくとも、ハオにとってはそうだった。「あのとき、…」

「いつ?」

「三月四日…一日後れのひな祭り、…俺ら、抱きしめあってた。麻布のレストランの前で。夜だから、薄暗くって…もう、なんか、」…ね?「俺、」まじ…「泣きそうだった。」死んじゃいたいくらい。…「泣いちゃいそうだった。」

ハオはつぶやき、その、完全に自分勝手に吐き捨てられたにすぎない、私に向けられたわけでもない声を、私は聴いた。彼の、その至近距離にたたずんで。…普通に、と。

「愛し合ってる。」…俺ら、…「普通に。」

ハオはつぶやいた。想い出す。腕の中の、く姫の肥満しかけた身体の放った体温。着込まれたスーツ越しのそれ。自分が買ってやったスーツにく姫はその特別な日に身をつつんで、私はく姫の頭をなでてやった。なぜる手のひらにふれた髪の毛の一本一本が、ただいつくしみを喚起し、なつかしさにむせ返った。背後、レストランに入っていく男女のぶしつけな眼差しが背中にふれた。私は想っていた。…家畜ども。

心から愛しあうことさえできない哀れな家畜の集団ども。私は自分たち以外のすべてを嫌悪した。嫌悪に容赦はなく、そしてあふれかえる彼女のへの愛は、止め処もなかった。フエの家に帰ったとき、私には諦めが芽生え始めていた。何を諦めているのか、自分にさえ分からない。分からないながらも、捨て鉢になっているわけでもなく、私は眼に映るものすべてを、諦めの中に見出していた。疾走するバイク、私の後ろに乗ったハオの、かすかにハンドル越しの重心として感じられるハオの体重さえも。ハオは、むしろ周囲の人間に見せつけようとしたかのように、私にしがみついていた。この国では、さすがに同性愛はまだそこまでおおっぴらでは在り獲ない。向けられる軽蔑と色目だけはおおっぴらなままに。むしろ、それを嘲笑いながら啓蒙してやろうとしていたかのような、ハオの傲慢な想い上がりが気に障った。

どこからどう見ても、服を着て仕舞えば男らしいハオは私の胸に腕を回して、通り過ぎる人々は素直に、奇異なものを見る眼差しをくれる。私は途方にくれる。いずれにしても、バイクを止めた家の庭先に、ブーゲンビリアの花々は匂う。

ショート・パンツだけで、上半身の素肌を曝したジウが、ふたつめの今のシャッターの、開け放たれた傍らに立って、何をするでもなく日差しを浴びていた。その、真っ白い肌の色彩が直射日光にさされる残酷さを、私の眼差しは味わった。

いたたまれない気さえしながら、それでも私は眼をそらしはしない。ジウは微笑みかけ、彼に微笑みかけられるより前に、私はすでに微笑んで仕舞っている。

…ああー…と。不意にジウが何かを想い出したように、場違いないな長い声を立てて、そして、ハオは私の背後、私にしがみついたままにジウに手を振った。ジウは、私たちが関係を持ったのだと、そう想ったに違いなかった。ジウだって、ハオの事はよく知っているはずだったし、私だって、ハオに、その身体的な特徴のせい以前に、その傾向があったことなど、十年以上前から知っていた。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000