小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説24ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
ややあって、自分を見上げている、くの字に倒れ臥したままの私の、上目遣いにいつくしむような眼差しをくれながら、ハオは言った。「…終わり。」
そう言ったあのとき、ハオは微笑んでいた。私をいたわるように、その、私を不意に振り返って見つめたときに。最期の日、やがて訪れるその、あの日にはハオは「…終わり。」
どっちにしても、と、ハオはささやいた。「お前が、選んでよ。どっちにするのか。」…ね?
「俺か、…お前か。どっちを、」…さ。「撃ち殺すのか。でも、」…ね?「分かるでしょ?」
声。
「どっちにしても、」…ね?
耳元でささやかれたように、
「なにかが、…」
その
「…おわり。」
小声すぎてもはや、うまく聞き取れない離れた、数メートル先に鳴る声を、私は聴いていた。想い出していた。私は。そのときにも。ハオは、やがて笑みに顔を崩して、…ごめんね。…と。
そうつぶやいたのだった。「穢しちゃったね。」…若干、「ね?」
私に。
硝煙の匂いが籠って、そして、眼の前の女の吹き飛ばされた残骸は、哀れみさえ誘えないほどにただ無残で、私は言葉をすら失っていた。言葉そのもの。その瞬間、私は言語というもの、それ自体の存在にさえ気付いていなかった。それらは容赦なくすでに忘れさられていて、…悲しいの?
「ひょっとして」
…ね?
ささやかれる声。ハオの。聴き取られながら、その意味さえすべて完全に理解されながら、私はそれを言葉としては認識しない。それらは、無造作に空中に舞い散った音響の、一瞬鳴り響いただけの痕跡の名残りにすぎない。
倒れ臥して、頭部の残骸を見遣り続けるままの私を、近づいたハオは後ろから立たせてくれた。「そんな気はなかった。」
わかるでしょ?
「ハナちゃんを血まみれにしちゃう気はなかった。…」ハオのささやき声はすべて、ただ限りもなくやさしく耳にふれては消えて行く。
銃をベッドに放りなげると、それが暴発もせずにベッドの上に撥ねて、壁に当って音を立てたのを確認した二秒後に、私は銃弾の暴発をおそれて身を固めた。ハオは笑いさえしない。私をいつくしむように後ろから抱きしめて、その、ハオの上半身のやわらかな触感を私が感じているままに任せた。
ややあって、いかにも面倒くさげにハオが息をついて、女を外の庭の、日差しの下に引き摺りだし始めたときに、私は背後の椅子に座り込んだ。身を投げ出すように、そして立った粗い物音と木材の軋みは、ハオを振り向かせる。ハオに足首を疲れたまま、引き摺られていく女の仰向けの身体は、床に合わせてわなないて震え、死んだ、その肥満に近い豊満な身体にすでにいかなる筋肉の微細な緊張も含まれていないことをさらけ出した。
女は死んでいた。そして、その眼差しは…あ、と、不意につぶやいた瞬間そのままに、見開かれたまま何をも見出さずに、どこかを見つめ続けていた。
ドアの向こうに見渡せる日差しの直射の下に、女の身体がTシャツを脇にまで捲り上げさせて、その、素肌を無造作に曝していた。「笑っちゃうね。」
ハオは言った。「強姦したって、想うよな、」…たぶん、「これ見たら、」…さ。「だれも。」
ハオの、唇の先に立った笑い声を聞く。ハオの身体は血をかぶってはいなかった。私は、女が吹き飛ばした血の霧に、全身を覆われていた。唇に、女の撒き散らした血の、あるいは味覚が、匂いを伴って感じられる気がした。…シャワー、「ね?」シャワー、浴びなよ。
そう、ハオは言った。「先に。…なんか、」…ね?「匂うよね。…なんか」全身、「嫌いなんだよね。この」…火薬くさいの。ずっげぇ、「こういう、さ。」…なんかさ。「におい。…俺、」…匂う。「好きになれない。」
誰にと言うわけでもなく言い捨てて、ハオは自分の腕の匂いを感じた。「先、」
…ね?
「先、浴びるぜ。」言ったハオが私を案じてのぞきこんだその後に、眼の前の床の上、何に気を遣うでもなくそのまま脱ぎ捨てたシャツを投げ捨てていくのを、私は見ていた。そこに、何があるのか、私はすでに知っていた。はだけたシャツの向こうに、ゆたかな胸をきつく締め付けたスポーツブラを曝して、ハオは首を回す。いかにも、一仕事終えた人間のように、そして、ハオがズボンを脱いでいくのを見るでもなく見る。
眼差しに触れる、余りにもたくましい下半身を、獣じみた体毛が覆っていた。…ホルモン異常。
ビルを爆破した後、なかなかその眼差しを正気づかせないでいる静華を二三度ひっぱたいて、「…ね。」
ハオは言った。
「静華ちゃん、…」…生きてる?
消防隊は消火に終われ、騒音が空間を満たした。燃え上るビルの、内部が焼きつくされていく音響、そして臭気、群がってざわめきたつ人々の群れの声が束なって耳の中にじかに触れ、…やばいね。
耳の近くの背後に、知らない女の声が聞こえた。「くさっ」
…勘弁して欲しいんだけど。
煙が臭い立つ。消防隊が私たちを、手を降ってあっちへ行けと、拡声器越しに喚き散らすが、…あ、と、静華の眼差しが、ハオを、見上げていた。
彼女が正気付かないままに、不意に加えられた暴力に対する抗いとして、ハオの胸を拳に一度たたきつけたときに。
「ん?」
その、言葉のないハオの眼差しは、そして、為すすべもなく、慶輔を見遣った。ビルを見上げていた慶介は、首でだけハオたちを振り向き見ていた。ホルモン異常なんだよ、と、こともなげにハオは、目線を合わせた慶輔に釈明し、…いや、
「まぁ…」
ね?…「若干、女の子なんだよね。」…俺。そう言って、ハオは笑った。そのまま、私にまで流し眼をくれて。
下着も何も脱ぎ捨てて仕舞えば、筋肉の薄く張った、骨格の太い上半身はその真っ白い肌のきめの細かさの中に、豊かな曲線を描いた乳房を曝す。両性具有と、そう言えば言えたのだろうか。その、子宮に関わる器官の一切を欠いたままに。なにをも自分では生産しないままに。
ハオは、振り向き見て、私に笑いかけた。…浴びたほうがいいよ。
「あとで、」…ね?「ハナちゃんも。」
…だよ?
そう言い残してバスルームに消えていくハオを、私が、彼をいつくしんで、赦しを与えたような眼差しを与えて続けていたことには気付いていた。
私の心の中に、かならずしも突発的な暴力に対する驚愕や、非難や、おののきや、軽蔑がまったくなかったわけではなかった。それらはむしろ鮮明に沸き立っていたままに、私はハオを受け入れていた。ハオが、もしも私に彼を抱きしめていつくしむことを求めたならば、私は迷うことなくそうしたに違いなかった。
ハオが入念に、血にも脳漿にも穢されていない自分の体を洗い流す水流の、飛沫を撒き散らす音響が耳に聴こえた。私は、それをそれとして気付かないままだった。それらは、空間にもてあそばれるいくつもの音響の中のひとつに過ぎなかった。呆然としていたわけではなかった。立ち上がって、外の庭先の木立の向こう、私が止めたバイクの傍らに、あの女がまたがったままバイクを止めていることには気付いていた。
私の眼差しは、エンジンを変えたままのバイクがたてる、かすかな騒音の中に、私を見つめた女の眼差しを見留めていた。サングラスと、日よけのマスク越しに女の表情はわからない。
数秒の間、私と彼女とは見つめあった。女は私に一度だけうなづいて、バイクの踵を返した。妹は、姉の死体をそのままに、走り去って行った。
彼女が、私を付け回していた事は知っていた。朝からずっと。君は、と。私は想う。もう、知っている。なにもかも、と、私はその、立ち去っていく女のバイクの、遠ざかっていくエンジン音に、知っている。何もかも、と、そう想った。君は、もう、…と。
君の姉の死の顛末、事の経緯などすべて。その、眼差しの中に。私は想わず声を立てて笑った。自分が笑って仕舞った事実の、必然どころか理由さえ想いつかないままに。
シャワーを浴びて出て来た私に、ハオは自分が使っていたバスタオルを投げてよこした。「気にしないでしょ?」…少々濡れててもさ。
言ったハオは、声を立てて笑って、「ハナちゃんて、あっちもOKでしょ。」そのハオの、いまだに何も身に着けずに、曝されたままの素肌の筋肉と乳房と隆起に添って、複雑で繊細な翳りが這った。差し込んだ、日差しにふれられるがまま、そしてハオが身を動かすままに、…どう?
椅子に座って、足を組み、体を拭く私を見上げたハオは、「何が?」問い返した私の声には答えない。…だから、さ。
「どう想う?」
「体?」
ハオはうなずいて、「ハオさんの、…体?」言った私の声を聴き取ったあとで彼は、ややあって、声を立てて笑った。「綺麗?」
ハオがつぶやく。「…どう想う?ハナちゃんは、」…ね?
「できそう?」ハオの唇は、なにもかにも、目に映るもの、感じられるもののすべてがおかしくてたまらないのだと言いたげに、もはやこまかな笑いに震えて、こまかなわななきをやめようとしない。「…どっちも喰っちゃうからな。…」…言ってたよ。「静華さんとか。」…あいつ、どっちかにしてくれないって。
「嗜みだよ。」私は答えた。「日本人の。」
ハオの笑い声が、空間に響いて、「…ハナちゃんて、」
血に汚れた服の代わりを
「…さ。」
積み上げられた男性物衣類の中から
「時々、」
探そうとした。衣類は
「…ね?」
どれも、手につかんだだけで安物の、
「時々だけ、」
洗剤の匂いか、洗っても
「…ね?」
堕ちなかったその
「おもしろいこと言うよね。ほんの」
服を着る、あの
「時々、…」
女の夫の男の匂いが、
「時々だけね、」
洗剤のそれとまざりあって
「まじで、…」
臭い立ち、そのいちいち匂いを嗅ぎ分ける選別の仕草がさらにハオを笑わせた。「どう?」
ハオは言う。「試してみる?」笑いながら、…綺麗でしょ?
「結構自信あるぜ。」体。…どう?「てざわりとか。実際、」まじで、…「…残念ながら、」…ね?「く姫の」ね?「くーのよりもふつうに」…さ。「いいからね」…垂れちゃってるから。「もう、」てか、…ま。「当たり前だけど。…でも、」ん。「ま、」ね。…「残念ながら、」まぁ、さ。「そんな駄目なところまで、」さ。俺、…「愛してるんけどね。」俺はね。…まじで。「俺は。」ふつうに。「むしろ」…俺はね。
ハオは一瞬噴き出して、そして笑った。…ほら。
と、立ちあがってハオは腕をあげ、私の目の前にその肉体を曝した。鍛えられた男の身体に、かすかに上半身に女性的な、脂肪を散らした柔らかさを感じさせながら、不意に隆起した胸が明らかに女性の乳首を見せ付ける。下半身を覆った体毛の奥には、隠しようもなくハオのそれが垂れ下がっていた。「言って欲しい?」
私は言った。微笑んでやりながら、「吐き気がする綺麗だとでも」…さ。「ね?」
…いいね、それ。
ハオが笑う。「こんど、俺も遣うよ。」…そのフレーズ。「だれかまた、片付けるときに。」ハオの笑い声がやまない。
眼差しに見出される風景は、庭先に転がされたそれをも含めて、確かに惨劇以外の何者でもなかった。床を、汚した血と脳漿と、肉片らしきものは、片付けられもせずに散乱し、庭に引き摺られていった痕跡を、床にあざやかな色彩として曝した。庭先に、日差しを浴びて沈黙する肢体は、頭部にすでに蠅の数匹さえ群がらせて、飛び交う蠅らその正確な個数を私の眼差しには明かさない。隠され、意図的隠匿されたわけでもなく、私の眼差しの中でそれは謎だけを残した。「愛しあってるんだよ。」
背後に、不意につぶやかれたハオの声は、明らかに鮮明な悲しみを曝した。
「…なに?」
言った私に答えもせずに、「…実際、」
つぶやく。ハオは、その、曝された悲しみが一体何を悲しんでいるのかさえ、その本人にすらも明示はしないままに、「すげぇ、…愛し合ってるよね。」
「女?」
「…く姫。」
ハオは、背後から私を抱きしめて見せて、その肌を押し付けられるままに、私は任せる。「安心しなよ。」
ハオが言う。「なにもしないから。」かすかに鼻に立った彼の「すくなくとも、…」笑った息の音を「今は、ね。」聴く。
それは私の首筋にふれた。
背後に、彼の男性と女性が、隠しようもなくそのあたたかな触感を残した。「むしゃぶりついてくるよ。く姫。」…やっぱ、「…なんか、」俺に、…もう、「俺の体。」なんか、「…やっぱ、想うんじゃない?」てか、「女の体。」ほら、「もう、」ね?「なんか、失礼だし、言いたくないけど…なんだろう?本人の体、女引退してるわけじゃない。残酷だよな。体と頭の中の分離状態。生まれてから死ぬまで、所詮女って女なんだけど、体ってさ、年取れば取るほど性別なくしてくのな。」じゃない?ってか…「男もか…。」
「何歳?」…今、
「く姫?」
「何歳?…」…んー…と、「ね?」その音声を、ハオは、私の耳元、唇の先にもてあそんで見せながら、「67?…かな。」
ハオは、明らかに私が哄笑じみた笑い声のひとつでも立ててくれるものだと、予想していたようだった。その、外れた予想を、ハオがどこか持て余して仕舞った一瞬を体験した気配を、私は耳元に感じた。
私は、ハオに、何の反応も示さなかった。むしろ、彼を気遣った。その、こまやかな想いのさまざまなかたちをなさない浪立ちを。「意外に、普通に幸せなんだけど。」
ハオは自分の唇を舐めた。
…俺ら「実際、…」
その舌先の取るに足らないちいさな動きを、私は見ていた。
「ね?…」
そうハオが耳元にささやきかけたとき、私はミーのことを思い出していた。あの、《盗賊たち》に惨殺されたミー。「普通に、」…幸せ。
ハオの声に邪気はない。
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