小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説23ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
女は氷の入ったビニール袋を抱えて、そして私に甲高い歓呼の声を上げて見せ、…あら。
こんにちは
ねぇ、…どうしたの?
ハンサムさん
眼差しは笑みにむせ返ったが、
「おともだち?」
氷をアイスボックスに投げ込みながら女は、そう言っていたに違いない。だれも理解できないベトナム語を好き放題自分の唇に遊ばせながら、女の眼差しは、交互に私とハオを見回した。…友達だよ。
「…な?」
ハオは、女への哄笑を曝し、隠そうともしないままに、「お前の、…」
…な?
言う。ハオがほくそ笑む。
その、聴こえはしない、立てられはしなかった笑い声を私は、はっきりと耳に聴いた気がした。女は媚を撒き散らした。盛んに私に話しかけて、聴き取られるそれら音声の群れ、…すき?
明かす。
「…私のこと、」
その、言葉もないあからさまな
「好きなの?」
眼差しの色彩。
ハオは口笛を鳴らした。振り返った女の、訝った眼差しに指を立てて、ばぁーん…ハオの唇が、銃声をその気もなく模写して見せた。
私は、声を立てて笑った。立ち上がったハオが、傍らに捨て置いていたままのハンド・バックからその改造拳銃を抜き出して、女に向けたとき、女は明らかに、自分が置かれた状況を図りかねていた。
女の理解を超えていたわけではなかった。だれが見ても明らかだった。頭のおかしな外国人が、自分に銃口を向けいているのだった。「これ、手に入れるために寄り道したんだよ。」ハオは言った。…《軍隊》の…《革命軍》の、ね?「あいつらの所に寄り道してて…」
「ベトナムにも、いるの?」
女の眼差しを、
「いや…」
ハオはあくまで無視したままに、その
「ラオスのほうの奴。」
微笑んだハオの目線は女を
「密入国させた。」
見つめつづけた。その微笑みは
「こっち、持ってこいって。」
女を戸惑わせるしかなかった。…ねぇ。
あなたのかたくて
あなたは、いま、
大きいものが
何をしているんですか?
丸見えですよ
女の眼差しは、言葉もないままにその気配において、眼の前の男に問いかけずにはいられない。いかなる認識もいまだになし獲ないままに、ただ、…ねぇ?
発砲したいの?
「なんですか?」と、その女の声が耳元に聴こえた気がした。ハオは発砲した。わざと外した銃弾が、私の背後の壁に跳ね返ってコンクリートの飛沫を散らし、跳ね返った先の壁に食い込んで破裂した。
その瞬間、銃声が空間に鳴り響いていたことを認識した。硝煙が匂った。…いつ嗅いでも、と。
「くさいよな。」
ハオはそう唇に独り語散た。
「火薬くさい。」笑わない。眉をしかめて、私に同意を求めるわけでもなく、女を見遣り、その気もなくハオは、悩ましげな眼差しを曝す。…ひでぇな。
言った。…なにが?と、つぶやきかけた私の言葉は、私の頭の中でだけ響いて、かならずしも音声にはならない。「ひどい。…」
…まじで。
ハオの、声を聞く。銃声の鳴ったせいで、耳の外側でくぐもって聴こえるハオの音声に、私はいつか耳を澄ましていた。
ややあって、女は我に帰ったように私に縋りついた。…ねぇ、と。「助けて、…ねぇ、お願い、」と。
眉が震えた。
あなた、男でしょ?
その眼差しは、わなないて
わたしの、…
震えながらもはやハオを
愛しい男なんでしょ
見つめて離さない。ハオは、女を
発砲してみなさいよ
見つめた数秒の後、銃を降ろした。女は、銃口をなど見てはいなかった。眼差しを占領していたのは、むしろハオの顔だけだった。女はハオの眼差しを見つめ、黒眼に浮んだ光の白い反射の形態のない散乱をさえ凝視しながら、そして、女はハオをさえも見てはいなかった。
何も。見開かれた眼差しはただ、ハオをだけ向いていた。女の頭の中に、もはや恐怖やおののきなど、かけらたりとも存在していないことには気付いていた。女は眼を見開いて、そこに息づかっていた。…来いよ、と、ただ、もう何もかも飽きて仕舞ったかのように、お願いだからこの倦怠から救い出してくれと、それだけを望んでいるかのように、歎かれたハオの眼差しは、
「…来いよ。」
ハオは女を手招きする。
女はその手招きの意味を一瞬、解することが出来ずに、…え?
「何ですか?」
女に言葉はない。女の唇が立てる息遣いの音に、私は耳を凝らした。ハオは女を手招いた。それに女が気付いたとき、ハオはようやく声を立てて笑った。…こいつ馬鹿なの?
「この女、」
…ね?
「ハナちゃん、…」
…ね?
「馬鹿なの?」女は、すでに、私が彼女を守りはしないことには気付いていた。女は、私に守られることを期待し、守られていることを確信し、そして、守られるべきものの完全な不在におびえていた。
女が、私を守ろうとしている事は明白だった。立ち上がった女は両手を拡げて、私とハオとの間に立ちふさがった。硝煙の、いまだにけばけばしいままの匂いの隙間の向こうに、しかし、匂い立っていた女の体臭は鮮明だった。
「来いよ」
微笑みながらつぶやいたハオに、かならずしも女は
わたしが与えるのは命
従ったわけではなかった。女にはあからさまな女自身の
あなたの命
意志が曝されていた。隠しようもなく。女はみずから、自分で
わたしが守ったのはわたしの命
ハオに近づいているようにしか見えなかった。目の前に
なぜならそれはわたしのものだから
立ちつくした女を、…ほら。
すでに
「…ね?」
女を見つめたままに、ハオは私に言った。
「…おびえてる。」
女の身体は、むしろ完全に脱力して、そのままハオの前に全身を曝していた。ドアから差す日差しが、その背中のTシャツが無造作に浮かべたさまざまな曲線に、淡いかすかな翳を散らした。「どうしようもねぇな。…」言った。ハオの声には反応もせずに、女はもはや…なに?
と。そう不意に呼び止められて、振り返ったにすぎないような眼差しを浮かべていたが、「ひざまづきな。」
言ったハオの言葉、その日本語という異国語を、女が理解するはずもない。…だから、
「さ。」
ね?
「お前、…」
さ。…
「ね?」ひざまづきな。
ハオは、言葉を唇に曝しながら、もはや自分で噴き出して仕舞っていた。「…ねぇ。」
ハナちゃん…
「…ね?」
ハオが言う。「こいつ、やっぱ馬鹿?」笑い声にその声を乱し、好き放題わななかせてみせながら、「日本語、話せないの?」私さえ、声を立てて笑っていた。
私は、ハオが、まるで愛撫して遣るような指先の手付きで、その顎をなぜて、白く長い指先は肥満しかけたふくよかな頬をなぞり、そして、半開きの唇に、…え?
「なに?」と、その表情は変わらない。ハオの指先が、軽く押さえてその唇の弾力を確認した。その、ハオにとってさえ無意味な行為はハオを微笑ませ、…ね?
諭すような、やさしい
「お前、…」
声を、そして
「家畜?」
女はその声を聞きながら、その
「ばか?」
意味など一切
「無意味だね。…もう、」
わかりもしないままに、
「さ。…ね?」
任せた。女は、やがて
「何のために、…」
ハオの指先がやさしく
「ね?生まれて来たの?…てか」
その鼻筋をなぜて
「どうせなら、…」
いつか、額にふれたその
「…さ。せめて」
瞬間に、一度だけ瞬いて、
「豚かなんかに、」
聴く。耳の
「…ね。お前、」
至近距離に、もはや
「生まれてりゃまだ」
悲しいまでにただ
「人間様にでも喰ってもらえたのに、…」
やさしいハオの
「…じゃん?…くそ」
音声を、そして
「おまえ、本当に」
ひざまづく。女は
「ただの、…ね?」
ハオの指先がそっと
「役立たずの、」
誘うようにしずかに
「知ってる?」
女の額を押さえるままに
「カス。」
ひざまづいて、見あげた女を
「…ね?」
微笑んで見下ろしたままハオは無言のままに
「くそ」
口をあけた。見よう見まねで
「知ってた?まじで、」
従った女の開かれた
「くそ。…くそすぎて」
口に銃口をくわえさせたとき
「やばい。」
ハオは私を振り返り見て、不意に笑った。ハオは発砲した。眼の前に赤い色彩が飛び散った気がした瞬間に、私は身を伏せた。私は床に倒れ臥していた。そのとき、その事実には、いまだに気付いていなかった。確かに銃声は耳の上に鳴っていた。頭部を突き抜けた銃弾は、砕けながら壁に食い込んだに違いなかった。うつぶせた背後の奥にその気配が、隠すすべさえもなくあった。匂った。なにかが、その複雑な匂いを複数混ぜ合わせながら、複数の場所からでたらめに匂っていた。
私は、ややああて、顔を上げた。眼の前に、後ろ向きに倒れた女の、吹き飛んだ頭部の残骸があった。
頭の中に蘇った、あるいは、ようやく正確にそれとして認識された銃声と、頭部の破裂音と、壁に銃段がのめる込む音と、女が倒れこむ音と、それらの一連の音響が、手当たり次第に反芻され始めた。…ね?
ややあって、自分を見上げている、くの字に倒れ臥したままの私の、上目遣いにいつくしむような眼差しをくれながら、ハオは言った。「…終わり。」
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