小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説22ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
うなづくフエを、マイは見つめた。マイは、チャンを孕ませたのがダットに他ならないことを改めてフエに教わった。フエは、マイが、自分の実父の名前を知ったのだと想った。フエは、片手のひらにマイの頬をなぜてやった。
マイの眼差しに一瞬だけ、嘆きの色彩が翳った。フエはやさしかった。マイは、フエに縋るように甘えた、媚びた眼差しをフエに投げた。フエが、もはや自分の眼差しをなど見てはいないことなど知っていた。フエに見つめられながら、マイは、自分がフエの眼差しにさえ棄てられたことを知った。フエの指先につままれた、二本の線香が匂った。ジウは、不意に、もはやあの、顔の半分が壊れた男が立ち去って仕舞っていたことに気付いた。女は力尽きたように沈黙していた。
空間は静かだった。階下からの人々の話し声の、そして前面道路のバイクの、あるいは車、大型トラックの音響が、耳の近くで、遠く、ちいさく聴こえた。
それらの音響は、耳にふれながら結局は何の痕跡も残さない。
女の身体が匂った。
ジウは、声を立てて笑いそうになった。哀れむべき女だった。こんな辺境に生まれて、貧しく、なにも知らないままに育ち、そして外国人に慰み者にされて、自分にさえもやがては棄てられて仕舞う。女が自分に焦がれ、愛しい彼を胸に抱きしめたいま、夫への不義と、自分を愛することの恍惚と、その愛そのものの失われる可能性におびえ、おののいていることにジウは哀れみさえ感じ、こんな、と、彼は想う。想えばむごたらしく、惨めで、救いようのない人生がよくあったものだと。そして、このあたりにはいくらでも散らばっているに違いない。無造作に、軒を連ねて売りさばいても売り切れないほどに。
フエの腕から身をもがいて見せ、自由になった頭を上向かせると、ジウは彼女を改めて見つめてやった。その瞳につぶやかせた。…好きだよ。
下等な花々が
愛している、と、そのあまりにも分かりやすく浮かべられた表情を、女の眼差しが
その花弁を開き
いつくしんでいる事は知っていて、花々。
下等な種子が
フエは
撒き散らされる
見つめていた。
下等生物こそはなによりもよくすき放題に繁殖し
無造作に咲き乱れた花々。
刈ってもきりがないほどの増殖を常にみじめに
ジウは女を
曝すしかないのだ
ひざまづかせた。足元に、その、縋りつくような眼差しには、見覚えがある。いつも、彼に焦がれる女たちが見せる一様な眼差し、生き物じみた匂いをさえたてるような、それら花々。
ブーゲンビリアが匂う。匂いたった花々に抗うことなどできずに、フエはそれらの空間への散乱を見い出すしかなかった。
女の頬に、両手のひらを沿わせてやったとき、永遠に、と。女の眼差しはつぶやく。愛してください、と、永遠に、その、咲き乱れるしかない花々に浮んだ少女の素肌を曝した仰向けの沈黙に、不意にフエは見惚れた。
やがて、見出す風景。樹木の茂った密林の中に埋没した、廃墟の名残りの中に、その、目覚めた複眼の視界の中で見い出したあざやかな色彩。
ジウは女の顎を突き出させて微笑み、いいよ。つぶやく。その眼差しが言葉もないままに、…好きにしろ。
滅びていく
俺を愛したいんだろう?
なにもかもが
微笑み、
あなたを見つめるときには、あなた以外の
好きにしろ、
なにもかもが
つぶやいたジウの眼差しは、そして見い出された色彩の向こう、それら空間に散乱する匂いの向こうに、フエは見つめていた。それ。
ふたたび出会ったもの。転生された少女。あの、《盗賊たち》が飛び交う羽の下に壊して仕舞った少女。もはや、と、想った。
ジウは、もはや、と、君は俺を愛するしかすべがない、と、その躯体を自在に変色させ、溶けたチーズのように形態を、ふれるものに添って変形させながら、赤い空の下で。
紅蓮の、そしてあざやかな匂いを放つ色彩の下で、それは知っている。ふたたびそこに目醒めて、なんども、繰り返し、そして、ジウはフエを赦した。
フエが、自分を愛することを。この、眼の前の、いかにも貧しく、知性を感じさせない熱帯の、うす穢い
熱帯の者は熱帯である限りにおいて差別されなければならない
褐色の女に。
いままでずっとそうされてきたから
フエに口付け手やったとき、ジウは
ゴーガンの眼差しの中でさえ
かすかな恍惚を感じた。美しく、だれもが焦がれないではいられない自分が、この、褐色の肌を匂わせた女のものになって無残に穢されていくことの。…殺された。
フエは、想った。そう、ブーゲンビリアの花々の匂いにむせ返りながら、その、紫に近い紅。
かつて、あなたと同じように、と、不意に想起される記憶に、その形態を捉え続ける。フエは、その複眼のうちに、ジウはもはや、声を立てて笑い出しそうだった。
ジウの手のひらが、フエの頭をやさしくなぜた。至近距離のハオの体臭が匂った。私は、眼を閉じる暇も与えられはしなかった。私の頬からハオの、かすかな無骨さを感じさせた唇が離れたとき、私は自分の頬に、あざやかな喪失感が生まれたのに気付いた。ふたつめの居間の御影石の床の上は、さまざま形態を反射して、いたるところに白濁を曝していた。ハオにしがみついて、自分で彼の唇を奪って仕舞うことも自由だった。にもかかわらず、いちど失われた頬の、口付けの触感はもはや、取り戻しようもなく想われた。その、一瞬の戸惑いが、私に彼の唇を奪うきっかけを奪った。ハオは、私をその、無造作ないつくしみに満ちた眼差しに見つめ続け、…ね?
言った。
「…ね?」
でしょ?…そう言った、ハオに求められた同意に、彼が何を認めてもらいたいのか分からないままの私は、あいかわらず表情を失って、ハオを見つめるしかない。
ハオは、指先を伸ばして私の唇にふれた。唇の形態をなぞる指先の触感が、そして、舌にふれてもいないのだから、感じられるはずもないその皮膚の味覚さえ、私には鮮明に感じられた。…どうするの?
「これから、どうするの?」…知ってるだろ?と、耳元にささやくハオの息は私の耳にふれて、「逢いに行く。」匂った。
熱帯の大気の中で、ハオの皮膚がかすかににじませていた汗の、その、匂いの鮮明さを。
「あの女に?」
言った私に、ハオは言葉を返さない。たくらみも邪気もない笑い顔を私に曝し、…来なよ。
ハオはつぶやいた。「来るだろ?」単に、独り語散たにすぎないかのように。うなづきもしない私を棄て置いたまま、ハオは立ちあがった。筋肉質ななかに、やわらかな脂肪の成分の散乱をあざやかに散らしたハオの身体が日差しを斜めに遮断して、私の視界を一瞬だけ翳らせる。私のハオを見つめる眼差しを、ハオは見つめて、その刹那、彼は不意に表情をなくした。…あ。
と、そう唇につぶやかれたその音声を聴いたとき、
「…ね?」
瞬く私にハオは、不意に声を立てて笑った。…なに?
その、私の声はハオだって聴こえたはずだった。ハオは答えなかった。「…なに?」
…なんでもない、と、そんな簡単な答えさえ返さずに、ハオはシャッターを出て日差しに身を曝した。
ハオを後ろに乗せて、バイクを走らせた。家に鍵はかけなかった。フエとジウが帰ってくるかも知れなかった。フエは、テーブルの上に彼女の鍵を置きっぱなしにしていた。正午の日差しが、Tシャツから、あるいはショート・パンツから曝された地肌にふれて、とはいえ、走っているうちにはその温度など感じられはしない。すべては、風が洗い流して仕舞う。そこに紫外線の触感が鮮明になる事などなく、そんなことは完全になかったことにして、肌は自分を静かに灼いて日差しに仕舞う。
ハン川に沿った主幹道路を走った。河はいつもの、日に差された細かなきらめきを無際限に散らして、さざ浪だった。…ひでぇな。と、そうハオは言った。私の背後に、未だにバイクの後ろに乗ったままに。
私がその、喫茶店の前の道路に寄せて、止めた瞬間、彼は、その樹木の向こうの家屋を見やって。
あるいは、周囲に広大な更地を曝した、そして廃墟じみた家屋を点在させたその町並みに対して、その言葉をつぶやいて仕舞ったのかもしれなかった。ヘルメットを脱いで、私に差し出すとハオはようやくバイクを降りた。
客は誰もいなかった。人気も何もない。女は驚くに違いなかった。一日に、二度も私に逢えるなどと、想っていたはずもない。女は不在だった。
いつものように、ドアさえ閉められないままに放置された家屋の中に、ハオは何を気にかける事もなく入って行って、朝と同じように放置されたままのベッドの上に、腰を下ろした。
木製の、不用意なほどに大きなキングサイズのベッドが、軋んだ。前触れもなく、ハオは声を立てて笑った。「…ひでぇな。」もういちど、つぶやかれた同じ言葉が私の耳にふれた。「座ったら?」
言ったハオは、邪気もなく微笑む。…ほら。
すわれよ。
私は傍らの壁際の、木製の椅子に腰掛けて、身を投げ出し、ハオはベッドに横たわる。匂うぜ、と、ハオは独り語散た。
「やばいね。…安い香水。」…なんだ?これ?
…ね?
「柑橘系、って、…」…って、言うのかな?「ね?」これ、…「なに?なんか…」すっぱいの。
笑う。私は声を立てて笑った。「…あの女、どうしたの?」不意に耳に聴こえた私の声に、ハオは一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。「だれ?」
「お前の女。」…あー…と、その声に、明らかに悲しげな色彩が匂って、「どうしたの?」
…別れちゃった、…とか?
微笑む、その私の眼差しを見るものはだれもいない。空間を共有したハオさえ、仰向けの眼差しをただ天井に投げていたのだから。
その天井に、何の理由によるものなのか、複雑な携帯と色彩を曝したシミが、白い黴をさえ生じさせて無数に散乱している事は知っている。ハオがそれを眺めていたことも。
「金目当てだよ。」
ハオはつぶやいた。…結局は、さ。
「知ってるけどね。普通に。…ふつう、に、さ。」けど、…「ね?」あるじゃない?「信じたくないこと、って」…ね?「…っていう、そういう、」…ね?
もう、何年も日本に帰っていなかった。慶輔とも、同じ時間だけ顔をあわせてはおらず、そして、ハオとも、同じ時間だけ逢っていなかったのだった。今更のように、慶輔をなつかしく想った。「でも、…さ。」
言葉を、不意に切ったハオを私は見つめた。「…ね?」
でも、…
「本質的には裏切られてても、裏切られてない限り、やっぱ、裏切れないじゃん。」…愛してんだよ。
やっぱ、…
「俺、…」ね?
ハオは横を向き、私を見つめた。その、眼差しはやさしく、眼差しの中に、ハオは私の形態を愉しんだ。私を見つめることを。
「別れないの?」
「まさか。」
「お前の金以外興味ないんでしょ」…本当は。「だろ?」…あのおばさん。「…違う?」
ハオは、想いあぐねた表情さえ、その眼差しに曝さない。むしろ、そんな事は、…と。
「…その通り。まさに、」
どうでもいいのだ、と。
「そう。それはそれで、」
気にするな、なんでもない。…
「そうなんだけど、結局はさ、…ね?」
お前に出来る事は、
「やっぱり、俺って、…」
何もないんだよ。だから、
「わからない?」
…ね?ただ、…
「俺ってさ。…んー…」
ただ、…さ。受け入れるしかないんだよ。
「なんていうの?なんか、…」
じゃない?…そんな、ハオの無言の眼差しのつぶやき。「好きなんだよね。」
「誰が?」
「誰って?」
「あのおばさんが?」…何歳?「あの、…」
「く姫?」と、その呼び名をハオが口にしたとき、私は声を立てて笑う。ハオは、明らかに自尊心を傷付けられて、女ごと自分も罵倒されたことに対する非難の眼差しに、その表情を翳らせていた。「く姫は、」…でも、「…く姫だよ。」
「なにが?」
「彼女は、…」んー…「でも、…さ。」あの人しか、いないな。…つぶやく。ハオは、「俺には。」と、その声が耳にふれ、私は眼をそらす。
ハオの眼差しに、明らかに《く姫》をなつかしんだ、柔らかく自分勝手な色彩が浮んだ。それは、私に一切かかわりのない彼の心情の揺らぎであって、そんなものを、いちいち眼差しに収めてやらなければならない必然もなかった。「…好きなの。」
ハオはつぶやいた。
「あの人のこと。…俺」私に、頼まれたわけでもなく口走り始めた彼の言葉を、「殺しちゃうのに?」私は断ちきった。
「十羽一からげに。…全部含めて、滅ぼしちゃうのに?」
…まぁ、…ね。
口先につぶやかれた音声に、歎きも、悲しみも、何の感情もありはしない。諦めさえ、すでにハオの眼差しは感じさせていた。…でも。
「さ?」
…ね?
「…さ。」
ハオが、身を起こす。いかにも、「自分が、…」かったるくて仕方がないと、そう「…決めたことだからね。」言いたげに、そして私にもう一度、微笑みをくれた。
人の気配がして、私は女が帰ってきたことを知った。私は彼女を見なかった。「ひでぇな。」ハオが言って、笑った。…見ろよ。
つぶやく。
「あれでも女のつもりかよ。」
鼻で笑って、
「肉の塊だぜ。」
ハオは私を見た。
女は氷の入ったビニール袋を抱えて、そして私に甲高い歓呼の声を上げて見せ、…あら。
こんにちは
ねぇ、…どうしたの?
ハンサムさん
眼差しは笑みにむせ返ったが、
「おともだち?」
氷をアイスボックスに投げ込みながら女は、そう言っていたに違いない。
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