小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説21ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
首筋に切り開かれた、赤い傷が差し伸べられたへこみだらけの鍋にためられた、油の上にその血を流し落として行った。油と血は最初、当たり前の反発を見せながら、大量に降り落ちていく血の分量の圧倒的な優位に飲み込まれて、結局は交じり合って仕舞うしかない。この血が、と、旨いんだよ。そうつぶやいて笑うサンは上目にクイを見て、クイは笑った。
見事な鶏だった。
フエに、屠殺の現場など見せられない。いわゆるモダンな、現代的で今風で、そしてだれよりも敬虔な女だった。卒倒するに決まっている。屠殺の匂いさえも、彼女は嗅ぐことが出来ないのだから。
屠殺には、それが血の匂いなのか、単に鳥のにおいか、鳥が最後に発散する何かの分泌物の匂いなのかなんなのか、だれもしらないのだが、明らかに固有の鮮明な匂いがある。
屠殺自体を嫌悪するものにとっては悪臭で、豊饒を感じ取るものには香ばしく、そして屠殺に技術を見い出すものにとってはその匂いには気品がある。自分の手つきがあざやかであればあるほどに、その匂いはいよいよ鮮明に匂い立つ。サンは香気だった、気高い悪臭を、想う存分に吸い込む。サンは想いだす。食用のために、悪い友人の Linh リンが連れてきた犬をさばいたときのことを。その、頭を割られてビニール袋に詰め込まれていた犬は、どうせリンがどこかの家から盗んで北に決まっている。ひどい経験だった。生きていてさえ人間の眼と同じ気配を持つ犬の眼は、死んで仕舞えばいよいよ死んだ人間のそれと同じだった。刃物を入れれば、匂い立つのはいかにも死んだ生き物の、気品も何もない悪臭に過ぎない。
こんなもの、北の人間しか食わないよ、と、リンを罵るサンに、リンは馬鹿、と。彼は言う。…喰ってみろよ。
旨いんだ。
ハノイのほうから来たリンの、特別な好物が犬の肉だったことくらい、Tuấnトンとの話の中で知っている。サンはリンに嫌悪感を感じながら、煮え立った鍋にぶち込んだその屠殺したばかりの肉を口にすれば、確かに、リンが好むのもうなづけた。
屠殺した鶏を調理するのは基本的には女たちの仕事だったが、サンは口を出さずにいられない。女たちはいい加減サンを忌みながらも声を立てて笑い、そんなサンもヴーには逆らえない。ヴーは伝統的なことなら何でも一流だった。もっと若ければ、サンよりも見事に鶏の一匹や二匹などさばいて仕舞えるに違いないことなどだれもが知っている。
だれもが、フエを呼びに遣ることを、完全に忘れて仕舞ったまま、鶏料理の何枚もの大皿を囲んだ宴会が始まったのはもう、午後の三時を過ぎていた。
だれもが呼んでやるのを忘れていたダットが、無意味に、仏壇に飾るために違いない菊の花束と果物をぶらさげてバイクで乗りつけたとき、ヴァンはそもそもがフエのための宴会だったことを想い出した。…すごいじゃないか。
そう言って笑い、宴会の席に座り込もうとしたダットに、ヴァンは言った。…フエを呼んできてあげてよ。
フエ?
上にいるわよ。
果物をぶち込んだビニール袋を、床において座り込んだダットの眼差しは、一瞬、曇った。…フエ?
床に置きざらしの菊がけばけばしいほど鮮明に匂った。
ヴァンは、ダットが、それが誰のことなのか理解できていないことに声を立てて笑い、あんたの娘よ。
フエ?
Huệ nào ?
つぶやくダットは想いあぐねた二秒の後で、なにごともなく声を立てて笑い、言った。帰ってきてるのか?
Huệ ở nhà ?
なら、あいつに食わせてやらなきゃな、と、ビニール袋をつかんで席を立っていくダットに、声をかけるものは誰もいない。むしろ、通りすがりにダットは目に付いた人々に、愉しいか?
Vui không ?
言って周り、彼は人々に愛想を振り撒いて、ビニール袋の中で果物が揺れた。マンゴー、ドラゴンフルーツ、そして梨。
どうせ、だれかからもらって来たに決まっている。たまには仏壇に捧げてやったらどうだ、と、どこかの中年の女にでも言われて。誰かの命日のパーティも何も、すべては敬虔な娘の仕事だった。線香の一本さえ、まともに捧げたこともない。彼の唯一の仕事は、命日のパーティに出される料理を批評することだった。疎ましいがられているのにも気付かないままに、眼につくものすべてに媚をうって回るダットが、そして動くたびに菊は匂う。
階段の脇に、たたずんでいたマイをダットは呼んだ。…持てよ、と、ダットに果物と花束を渡されるままに、従順なマイは従った。
仏間に辿り着いたとき、ダットはそこにチャンもいたことを想い出した。たしかに、そうであるしかなかった。彼女はいつもそこにしかいないのだから。
午後三時すぎの、未だに明るいままの日差しが、開け放たれた窓越しにじかにふれるままに、彼の娘とその女は寝息を立てていた。
無造作に、マイは仏壇の前の長テーブルに果物と、菊の花々を置いた。ダットはその無様な扱いように舌打した。たしなみというものがない。たまには、と想う。彼は、線香でも立ててやろうかと、その、根元を紫がかった朱に塗られた長い線香を適当に十本ぐらい手に取ったときに、…だれ?
そう言ったのはフエだった。
ダットは答えなかった。答えるまでもなく、娘がその閉じたままのまぶたを開きさえすれば、そこに誰がいるのか、彼女は気付くことができるのだった。娘の態度はダットの眼には不埒に映った。
ダットは線香に火をつけた。
それぞれの遺影の遺影の前に、それぞれのために据え置かれた線香たてが、そもそもどこにどれだけあるのか、ダットはうろ覚えだった。一瞬、曝した自分の戸惑いを、しかし、誰にも見られずにすんだことに、ダットは安堵した。
いつ、…
Khi nào
と、そのフエの声に、
チャンは…
Khi nào Trang ...
振り向いたダットは、身を起こしてチャンの傍らに、自分を見つめているフエが微笑んでいるのを見い出す。淡い逆光の中に、微笑むフエはたしかに美しく、質素で、いかにも賢そうな、その眼差しに、ダットは無意味な安心を感じた。すくなとも、娘は、自分を咎めてはいなかった。咎められるべき理由を想いつかないままに、ダットは、フエのやさしい眼差しを確認した。いつ帰ってきたんだ?
Khi nào về
と、そのダットの思いつきの問いかけにフエは答えなかった。フエは、微笑んだままにダットを見つめて、やがて、どうして?
Tai sao
言った。
チャンを選んだの?
Bố chọn em Trang
やさしい、哀れんだフエの声を聞く。フエは、自分を哀れみ、そして、懐かしがっていた。ダットは、フエが、自分がチャンにしでかしたことをすでに知っていることに気付いた。
マイが、ダットの手から線香を奪った。…いいです。
私がやります、と、その少女の気遣いに、ダットは気付かないままに、みんなもう知っていたのか、と。想い出す。彼は、あの日の夜、チャンを愛してやった時のことを。
ダットは、フエが、とがめだてもしないままにただ、自分を哀れんでいるらしいことに、自尊心を傷付けられずにはいられない。いつでもそうだった、と、彼は想った、この子は、と、いつでも他人のすべてを下に見ている眼差しをする。その、やさしい眼差しで。
泣かないで
眼をそらすダットに、…ねぇ。
悲しくないから
言ったフエを。振り返りもせずに、ダットは、
泣かないで
チャンに聴け。
怖くないから
そう答えた。自分でも分かってるだろう?
その眼を開けばもう空は
背伸びして、ようやく高みに設置された線香たてに線香を差し込んだよたつくマイを、ダットは
晴れ上がってしまったから
罵った。違う。
泣かないで
そうじゃない、と、ダットの発した声が耳にふれた。
ほら
いつ?
Khi nào ?
フエが、ややあってもう一度言ったとき、ダットは振り向いて、6ヶ月前だ、と言った。…たぶんな。
きっと
その声をフエは
おそらくは
耳に確認して、不意に、ダットは
想うに
訝った。どうしてだれもが
あなたはまばたくだろう
知っているのだろう?自分が、
雨に濡れた雨上がりの樹木の葉が、しずくを滴らせたときには
チャンと睦んだことを。誰にも話してはおらず、誰にも見られてはいないのに。本当に、と、このチャンが、と、ダットは想う。言ったのだろうか?たとえば、
彼よ
仲のよかったフエに。
彼
知ったことではなかった。
彼なのよ
だれもがチャンが、クイの種ではなく、かならずしも妻帯関係にあったわけでもない出来損ないのヴィーの形見に残した遺児にすぎず、そして見苦しいヴィーはどこからか酔狂なクイが連れ込んで養ってやっていただけに過ぎない。第一、誰かがいなくなるわけではなくて、生まれるのだから、なにかの人手くらいにはなるはずだった。クイは裕福なのだから、なにも問題などあるはずもない。どうせ、なにも出来ずに生き延びさせてもらっているだけの女なのだ。せめて、子供でも生んだらどうだ。二人でも三人でも。
ダットが火をつけた線香は、二本多かった。余分な二本は、マイの手元に残されて、マイは上目遣いに人使いの荒いダットの眼差しを伺った。
ダットは、そこに
かならずしも
マイがいること自体、忘れていた。フエが、自分を
彼女はわたしを殺そうとしたのではなかった
見つめ続けていることが、ダットは
むしろその眼はおびえていた
不審だった。
眼に映るものに。その
線香の煙が匂い、…供えておけ。
おびえる眼差しに映ったものがわたしだったから
不意に振り向いた、ダットに言われたマイは、一瞬
彼女はわたしを殺して仕舞うしかなかったのだった
彼が何を言っているのか分からなかった。舌打し、
その両眼を
物分りのわるい少女を明らかに軽蔑した眼差しをダットは
みずから抉り取って仕舞う前に
曝してテーブルを叩いた。
わかるだろ?
菊の花が匂った。
感じますか?
立ち去っていくダットを、見るでもなく見遣りながら、フエは
花々が匂っています
チャンを妊娠させたのが父親だったことに気付いた。フエは、
だれも誘惑しないその匂いを
確信した。父親は犯罪者だった。かわいそうなチャンを、彼は強姦した。彼を、赦す気は一切、なかった。
眼差しの向こうに、マイは明らかに戸惑っていた。ダットは果物を供えろと言った。そして、手のひらには二本の線香があった。フエが、自分を手招いたことには気付いていた。それに従うことが、自分にとって有益なのかそうでないのか、マイには判断がつかなかった。フエはやさしかった。そして、冷たく冷酷だった。だれもが彼女を敬虔な、仏か観音が化生したような女だと言っている事は知っている。そんなものなかのもしれない。仏に祈ったところで、なにも変わりはしないのに、仏に祈ればしあわせになれるのだから、もともとが、理解できない矛盾を抱えているのかもしれない。自分には、理解できない。
フエは、自分が微笑み続けていることには気付いていた。その表情は、あまりにも不当に想われた。なにも、許してはいないのに。眼に映るものすべてを、憎しみも、嫌悪しも、恨みも、なにもしないままにフエは、ただ、赦すことが出来なかった。赦す気にもなれなかった。
あからさまに戸惑いを曝して、自分に歩み寄るマイの、いたいけない少女じみて胸に組んだ手から線香を奪った。…ほら。
痛みを感じたのは一瞬だった
お供えしなさい。
彼女が突き刺したとき、その
フエは、
果物ナイフ、テーブルの上の
お父さんが言ったように。
だから
そう言った。
わたしは果物
あなたのお父さんが。…と、その言葉をは口にはしないままに、フエはマイを見つめ、
彼女に切り刻まれたわたしは
微笑んでやった。
果物
ダット、…
あまい果物
と、つぶやいたマイの眼差しに、黒眼がかすかに
皮の内に酸味を湛えて
震え続けていた。
日差しを浴びた
うなづくフエを、マイは見つめた。マイは、チャンを孕ませたのがダットに他ならないことを改めてフエに教わった。フエは、マイが、自分の実父の名前を知ったのだと想った。フエは、片手のひらにマイの頬をなぜてやった。
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