小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑳ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
サイゴンで働いていたフエがダナンに帰ってきたのは8月だった。マイは、私が言うわ、と、クイにそう言った。
ただ、悲しげな色彩を浮かべて、ひたすらに想いつめ、目に映るものすべてをいつくしまないではいられないような、かすかな恍惚を曝したマイの眼差しに、クイは彼女にすべて任せてやるしかなかった。
その日、マイが大学から帰ってきたとき、バイクを降りたマイをヴァンが手招いた。歎かわしげな眼差しを曝すヴァンを、マイはただ訝った。ヴァンは、自分に近寄ったマイに、指先で上を指した。
Huệ
フエ。
百合
ただ一言、ヴァンは耳打ちした。フエが帰ってきていることを、クイたちは誰も知らなかった。テトになるまで、帰ってこないものだと思い込んでいた。テトの前後に帰ってくるなら、フエ自身がヴーに、一言連絡を入れてくるはずだった。
友達の結婚式のために、フエはその日の早朝、帰ってきたのだった。帰ってきて、荷物を部屋に置き、そのままフエはクイのうちに行った。ヴーに挨拶し、英雄クイに微笑みかけ、家族たちとの再会を祝しあうために。
上にあがっていく階段上のフエを引きとめるものは誰もいなかった。引きとめる可能性もなかった。引き止める口実を思案する間に、どんどん階段は彼女の姿を飲み込んで行く。せめて、だれかがフエに、耳打ちして教えて遣るべきだった。だれも、その役割を果たす気にはなれなかった。いずれにしても、見れば分かるのだから、フエは何も知らないままに、自分で見い出せばいいのだった。家族たちはそれぞれに眼差しを一瞬、翳らせた。ただ一人、クイは、陽気だった。彼は、もう誰かが当然、フエの耳に入れているものだとばかり想っていた。
8月のその日、午前の早い時間に、窓際にチャンを見出したフエは、眼の前に存在しているものに、何が起こっているのか一瞬、理解できなかった。やすらかに眠るチャンの腹部は、あきらかに膨らんでいた。それは自分さえもいまだに知らない、女の身体が抱える女らしい可能性のひとつだった。彼女は妊娠していた。見ればすぐにわかる事実を、フエは理解する事ができなかった。
フエは、チャンのベッドに腰掛けて、その腹部をなぜた。
さまざまな可能性があった。
クイが、厄介払いにチャンを誰かと結婚させて仕舞ったのか。そんなはずもなかった。チャンが不意に起き上がって、町で誰かを捕まえて、妊娠して仕舞ったのか。だれかがこの家に忍び込んで、ちゃんをこんな風にして仕舞ったのか。あるいは、家族の誰かが、チャンに手を出したのか。
フエも結局は、家族の者たちが辿り着いた答えに辿り着くしかなかった。
フエは、もはや歎きさえ感じなかった。ただ、悲しかった。歎くという心の営みと、唯単に悲しいという感情との明確な差異を、フエは知った。目に映るものすべてが悲しかった。
階段を上がって、仏間に行ったマイは、チャンのベッドに寄り添って寝ているフエを見つけた。添い寝するうちに、彼女も寝て仕舞ったのだとばかり想った。マイは安心した。すべて、やり過ごせて仕舞えた気がした。…だれ?
フエが言った。
まぶたも開かないままに、その、問いかけに戸惑いながらマイは、…知らないわ。
そう言ったあとで、フエがそこにいるのは誰だと聞いたに違いないと、マイは気付いた。…誰なの?
マイは思った。
私は、誰なの?
かすかな、無意味な目舞いを、マイは感じた。…マイ、と、呼びかける
…Mai
フエに、マイはその眼差しを上げた。見つめる眼差しの先に、まぶたを閉じたままのフエは、ただ、自分勝手な安らぎだけを曝し、マイは感じた。
どうしようもない理不尽さ。自分が、これほど戸惑い、想い惑い、悩み、苦しんでいるというに、と、その、フエの眼は開かれない。
ときに朝焼けは
眠っているようにしか見えない。
あざやかな朱色に染まってわたしに不意に
誰なの?
いま、日が沈んでいくという錯覚を与えた
フエはつぶやく。その、聴き取ることが困難な小声は、しかし、耳を澄まして音声を、聴き取る必要もなくその意味をだけすでに伝えていた。…パパは、
おはよう
誰?
朝ですよ
マイは
耳元で天使がそうささやくのです
答えなかった。
目醒めの朝にはいつも
もういちど、知らないと、素直にこたえる気にはなぜか、ならなかった。マイは言葉を探した。言葉を探すうちに、フエの問いかけに答える機を、すでに失っていた。
沈黙の時間が流れるままにマイはまかせた。
フエは、知っていた。その父親が誰なのかくらいは。ブーゲンビリアの花々の下に、かつて見たことが在った。その、色彩をなくしたチャン。
細かな枝に、不用意にぶら下がった、雑巾のように垂れ下がるもはや、形態を留めない翳りは、
聴いた
チャン。
わたしは、それら
歎きさえしなままに、血を流しながら、その
不意にどこかに
男。
堕ちた
その男が花々を口にいっぱいに含んで
それは水滴
咬み千切ろうとする。
ただ一滴の
飲み込む暇もない、増殖していく花々の群れに、男は
水滴は
あごをもはや、
しずかな水面にただ一度だけ
動かすことさえ出来ない。
小さな音を響かせて、そして
ひん剥かれた眼がさかさまにのけぞって、フエを
拡がった
見つめた。
波紋
男は自分が、哀れまれて当然であることを確信していた。彼は犠牲者だった。もっと、と、フエは歎きながら、想った。増えて仕舞え。
綺麗な輪をなす揺らめきはただただ水面上に拡大していくのだ
分裂し、増殖し、大量に、そしてその、あなたに咬み付いた男の口を、そのあご、あるいはすべてを、叩き壊して仕舞うがいい。
聴こえますか?
知っている。フエは。その男は、深夜に
波紋の上に彷徨う空気の一瞬の
目醒める。
動揺
トイレに立って、そして、未だに酔いの醒めない眼差しで、開け放たれたままの窓、差し込む夜の光に照らされたチャンの肢体を彼は見つめていた。
降り注ぐ
手篭めにする気はなかった。辱める気も。
光よ、君を
チャンは美しく、
輝かしめよ
色づき、その、同性のフエ以外にいまだに手付かずの身体は、
その存在限界すれすれにまで
ふれなさい。
…と。
いま
そう、ささやきかけている気がした。
花弁はふるえた
自分がそれを求めた気は最期までしなかった。
風もないのに。そのときただ
求められていた。誘惑されたのは、むしろ
みずからの紛れもない美しさに
彼自身のほうだった。
耐えかねていたその
久しぶりに抱く女だった。そして、彼女は
あざやかな記憶に
美しく、若かった。肌さえもが匂う。
彼は、自分が姦淫されていく、不可解な悲しみを感じた。チャンを、処罰してやる必要があった。
彼は、抗いようもないチャンの誘惑に屈している自分を哀れんだ。…誰?
あなたは処罰されるべきだ
ふたたび言ったフエの言葉を、マイはもはや
この世でもっとも穢れた先験的な犯罪者として
聴き取りはしなった。ただ、その
あなたは。なぜなら
音声らしきものが聞こえた瞬間に、マイは
わたしに愛されて仕舞ったから
ごめんなさい
Xin lỗi
つぶやいていた。
眼を閉じた眼差しの中に、天井には張り付いた自分が見えていた。
フエは、それをもはや、言葉もなく眺めるしかなかった。その、色彩をなくした暗い翳りはただ、血を流すしかない。
あ
その鮮血だけが、なぜ
ごめん
こんなにも、と、フエは、
すまん
こんなにも、そうフエは、
わるい
こんなにもあざやかでならないのか、と、その
すみません
流れ出す血だけが、…と。
失礼ですが
フエは
あなたの存在理由ってなんですか?
そう想った。
もはや空気を吸ってる資格さえないですよ
彼女は血を流す。横向きに、それが縦なのか横なのか、見つめるフエの眼差しにはわからない。
ゆがみもせずにまっすぐに、上にか、下にか。いずれにせよ横向きに流れ出す鮮血。匂い立つ。
花々の匂いが、ブーゲンビリア、そのむらさきに近い紅の色彩を、どこにも曝さないままに、うっとうしいほどに
きみは光
撒き散らすのはただ、その
ぼくの行く道を照らす
芳香。
光
匂う。見つめた。フエは、その、形態を留めない老人の残像。鮮明な、色彩のない翳りの、動きのない停滞。
人をしっかり愛しなさい
歎く。
力の限り
フエは、なぜ、と、
そうすれば君は強くなれるのです。すくなくとも
想う。そこに
海王星の青いダイヤモンドの海を飲み干して仕舞えるほどには
目醒めているの?
ぼくは泣く
永遠に、その指先に、なにものをも触れ獲ないままに。
君を愛して仕舞ったから
マイが彼女の、自分勝手に撒き散らした固有の歎きの気配だけを残して立ち去って仕舞ったことには気付いていた。フエは
想い出す
チャンの傍らに添いつづける気はなかった。立ち去る機会はなく、
血に塗れたあなたの惨殺された
そして、チャンに
その身体。朝の
さようならを言うすべもなかった。ヴァンは、
光の中で。どうして
何時間も仏間にこもったまま出てこないフエの存在を、もはや
朝の光はこんなにも
忘れかけていた。
やさしいのだろう。どうせ
クイが、
すぐさま昼の
鶏を潰して仕舞おうと
鮮烈すぎる陽光が君の肌を
言った。屋上のケージの中に飼っている三羽の鶏が、もう
灼いて仕舞うというのに。なんの容赦もなく
それなりに
なんの
大きくなっていた。こんな機会でもなければ、それらは
血も涙もなく
飼われ続けるしかなかった。せっかくサイゴンから帰ってきたフエに、どうせなら食べさせて遣ればいい。クイはそう言った。
鳥を潰すのは、サンの仕事に決まっていた。まともな仕事も取れない塗装屋のサンは、いつでもどこかで暇を持て余していた。クインがその父を携帯電話で呼び出すと、サンは二人の友人を連れて、仕事でもないのに着込んだペンキ塗れの作業着に身をつつんだまま、彼はバイクで駆けつけた。サンは自分で買ったバイクなど持っていないから、どうせ誰から借りてきたバイクに決まっている。その日その日、どうやって彼が終日持て余した時間を潰しているのか、彼自身以外にはだれも知らない。…忙しいんだよ。と、乗り付けた瞬間にサンは、年の割りに色っぽい娘のけばけばしい化粧づらに非議を訴える眼差しで、喚き散らした。だれもがクインの身持ちが硬い事は知っている。
そして、サンは声を立てて笑っていた。
鳥を絞めるのに、ヴァンとクイも立ち会った。サンの友人たちは、店先でビールにありついていた。金ならクインが払う。何も気にする事は無い。
お湯に鶏の全身をつけこんで、体力を奪った。鳥の皮膚は柔らかに、そしてその全方位を見渡すまなざしは、パノラマの視界の中に、自分を取り囲んだ数人の人翳を見い出す。
鶏の眼差しのその表情は一切の変化を見せることなく、とはいえ、それが次第に正気を失っていったのをサンは気づいている。ヴァンは首の羽根をむしりとった。錆びをなんども砥いで落とした、殆ど原型のない屠殺用の刃物の、根っこを首に当てた。ヴァンが手のひらに絡め取った羽と足は、かすかな抵抗を見せるものの、その、あるいは命がけの抗いは屠殺に馴れた彼女の手の拘束のもとでは、一切の意味を成さない。やさしい、筋肉の鳴動程度の、あてどもない無意味な痙攣。
首筋に切り開かれた、赤い傷が差し伸べられたへこみだらけの鍋にためられた、油の上にその血を流し落として行った。油と血は最初、当たり前の反発を見せながら、大量に降り落ちていく血の分量の圧倒的な優位に飲み込まれて、結局は交じり合って仕舞うしかない。この血が、と、旨いんだよ。そうつぶやいて笑うサンは上目にクイを見て、クイは笑った。
見事な鶏だった。
フエに、屠殺の現場など見せられない。いわゆるモダンな、現代的で今風で、そしてだれよりも敬虔な女だった。卒倒するに決まっている。屠殺の匂いさえも、彼女は嗅ぐことが出来ないのだから。
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