小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑲ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
君は、と、彼は、凍りついた大気の下に、微細な細胞の群れの集めて。
知っているか?
あの風景。複眼が捉えた世界の驚くべき鮮明さを。
知っているか?
重力を捉える感覚が見い出すさまざまな重力波の荒れ狂う色彩を。
知っているか、と、見つめられたタオは笑った。…ね?
すきじぇっ
好き?
っ、…ぇっ
つぶやく。
…ぇあ?
なんで、と、タオは、やがて、…好きなの?
太陽光は一方的にただ皮膚にふれていただけで、決して
そう
私の指先にふれることを赦しはしなかった
耳元にささやいて、タオは剝き出された素肌を彼に押し付けた。タオは知っていた。彼がすでに泣いているのを。泣き声もなければ涙も、泣き顔さえも曝さずに、とはいえ、彼の周囲の気配が隠しようもなく彼の歎きを暴き立てているのを、いじらしく、そして、ただ、いつくしみながら。フエは、戸惑いを素直に曝したジウの頭を胸に抱いていた。
ジウは、やがてはひざまづいて、フエに身を預けた。そうするしかなかった。そして、なぜそうしなければならないのか、ジウにはついにわからなかった。クイは眼をそらした。彼女たちには彼女たちの必然があるはずだった。たとえ、それが、明らかに反道徳的で、貞淑さを欠く仕草としてだけクイの眼には映ろうとも、フエがそうするのだから、そうするべきなのに違いないのだろうと、クイは
破壊しかない戦場を
想った。
嫌悪とともにのみ回想するなど
ジウは
かならずしも出来なかったわたしはあるいは
想う。なぜ、こんな、まとも世界の辺境にまで来て、
人間をやめるべきだろうか?もしも
そのまたこんな辺境の、女としての
あなたがその
存在価値もない女に甘えてやらなければならないのか、その
非倫理性を糾弾するならば
余りの必然性のなさに戸惑い、やがては、むしろ、その戸惑いが彼を微笑ませるにまかせた。
それでいい気がした。
ジウは裏切り者だった。だから、自分自身さえ裏切ってやらなければならなかった。その不意の想いつきは、ジウにかすかな興奮を与えた。熱狂させるには至らない、やわらかな、微熱のようなもの。
薄穢い女、自分を同じ人間として愛する価値さえ在り獲ない僻地の女に、美しい自分を無造作に与えて遣ること。自分を、好き放題食い散らさせて遣ること。投げ棄てるように与えてやること。下等な人間たちに。差別的な感情に容赦なくまみれたときめき、の、ような、そんなどこかいたずらな思いつき。
ジウは微笑んだ。女はすでに、自分に魅了されているに違いなかった。貞淑さを必死に取り繕いながら、彼女は彼を煽情していた。彼女は自分のものだった。初めて眼を合わせた瞬間に、ジウはすでにそれに気付いていた。くれてやるよ、と、美しいジウは想った。穢らしいお前に。
あなたに
すべてを。
あげる
その手を後ろ手にまわして、ジウは
苦痛を隠した鳥たちの羽音を
フエの腰を抱きしめた。フエに
あの
顔をうずめ、明らかに
明け方の空に死んでいくあなたを見棄てた鳥たちの
男として、彼女に甘えるジウを、フエは赦した。
見てください
赦し獲ない強姦者、ジウ。
空の切れ目に
あの男。チャンを
虹が侵入して行った
強姦して、タオを生ませたダットの生まれ変わり。なんども転生し、記憶さえ最早なく、ダットはジウでは在り獲ない。だから、ジウを処罰する事は、そのままジウに対する無根拠で不当な単なる嗜虐に他ならない。そんな事は知っている。そして、フエは、自分が今抱きしめた男を許すことが出来ない。愛している、と、その簡単な言葉をフエは禁じていた。
わたしが好きなのは
そんな言葉が存在していることを、あえて
なにげないあなたの
気づきもしなかったように、だれを?
他の事を考えている横顔。かたわらの
と。
わたしの存在さえ忘れて仕舞って
だれを愛しているのか。この男を愛するということが、結局は誰を愛するということなのかフエには分からない。なぜなら、いまだに、フエは、この男を愛しているという事実に気付かないことにして仕舞っていたから。そして、その答えにもすでに気付きながらも。
立ち上がったクイは、フエを見遣った。彼女の、その、ただ、いいのよ、…と。すべてに
そうです
満足して、すべてに留保なく
そうなの
肯定を与えたような、どこかで恍惚を
そう
曝したその眼差しの、かすかな
そうだったの
色彩を。立ち去ったクイに、
わたしたちはいま、美しい
声かけるものは誰もいなかった。
階下に下りて、遅めの昼食を取りに台所に入っていけば、先に一人で昼食のゴイ・カーを食べていたタオがあわてて自分の皿を隠そうとした。英雄クイの、なにをも見逃さない慧眼を秘めた、と、そうだれもに言われる砕けたほうの眼差しから。
損傷の激しいまぶたの皮膚は経年の果てにめくれ上がって、彼の片眼をほとんどむき出しにさせていた。それが、人々をなにも隠せない気にさせた。もの言わないままに、うつむいて見あげた上目遣いの暗いタオの眼差しをクイは哀れんでやるしかなかった。まともに生まれる事が出来なかったこの可愛そうな子は、まともに人に媚びることも、まともに、普通に自分がありつくべき昼食を食うことさえも出来ない。ただ、と、想う、微笑んで、おいしそうに食べればいいだけのことでは無いか、と。
クイは気付いていた。それはタオには困難だった。その困難さの根拠も理由もクイには鮮明に感じられながら、にもかかわらず、この、かわいそうな惨めな少女を疎ましがるしか、彼には出来ることはない。クイはあえて、あっちへ行けと手を振ることもなく、食べろと笑って勧めてやることもなくタオを無視した。
タオは戸惑っていた。断りもなく英雄クイより先に昼食にありついた自分が、罰せられているのか、赦されているのか、その決定されない曖昧さが、タオにすべての判断を停止させた。ライスペーパーに繰るんで、垂れにつけて指先にゴイ・カーをもったままタオはそこにたたずみ、彼女はクイから眼をそらすしかなかった。チャンが退院して帰ってきて、仏間に安置されてから、日々は殆ど彼女の存在を忘れさせて流れて行った。考えてみれば、チャンがそこに存在していること自体がクイの与えた施しに違いなかった。両眼を自分で抉り取ったチャンは、結局は、あのヴィーの腹から、誰が父親とも分からないままに生まれた自分に与えられていた施しのすべてを自分で裏切って、そして、さらなる施しを英雄クイにあたえられているのだった。
そう考えて仕舞えば、クイは少しくらいは落ち着くことが出来た。チャンの世話はヴァンと、マイがした。
マイは、ただ、姉の悲劇を悲しんでいた。
やさしい家族だった。だから、家族が悪いのではなかった。フエにしても、アンや、あのかわいそうなユイにしても、だれもがチャンを尊重していた。だから、友達が悪いのではなかった。チャンには恋人などいなかった。チャンが、フエに恋していたことになど気付いていた。その是非はどうでもいい。いずれにしても、彼女たちは幸せだったはずだ。だれもが多かれ少なかれ気付いてはいたにしても、おおっぴらに発覚もしていないのだから、だれがそれに気付いていたわけでもなかった。なにも、彼女を傷つけていなかった。
マイの眼の前に、ひとりの、あきらかに傷付いて、人間であることをやめることを選んだ、かつて美しかった少女の残骸が息づかっていた。その少女は両眼を失ったのではなかった。すべてを放棄し、自分のすべてを破壊したのだった。…救済。
光はいつでもすべてのものにふれていたのだった
彼女は、
神々のおごそかな内なる光は
彼女の流儀において、あるいは、救われていた。ときに、獣じみた野太い叫び声を、発作としてあげながらも。
マイは歎くしかなかった。かつて愛した姉の、あるいは、尊敬し、焦がれた年上の美しい女の成れの果てに、マイは世界へのあたらしい、瑞々しい眼差しを投げつけられた気がした。いまでも、すべては美しかった。そして、すべては残酷で、傷付けられていた。
チャンに懐妊の兆しがあったのは退院の一年後だった。
最初に気付いたのは、ヴァンだった。胃液を不意に吐いて、窒息しそうになるチャンをゆすり起こして蘇生させ、動物のように無様に咳き込むチャンの背中をなぜてやりながら、彼女は彼女の疑いが、真実以外のもので在り獲ないことを確信していた。想いあぐねたヴァンはやがて、その夜、すれ違いざまにマイに不意に言った。
台所の裏、裏庭の蛇口で洗い物をしていたヴァンが、離れのトイレにたって行ったマイを呼びとめて、そのとき、マイは母親が何を言っているのか分からなかった。…だれ?
と、ヴァンは言った。
Chồng nào ?
あなたは知っていますか?
Chồng Trang là ai ?
チャンの子供の父親を?
その言葉を、立ち止まったマイは、母親を振り向き見たまま、一瞬言葉を失って耳の中に反芻し、…え?
あなたの声が
なに?
聴こえません
つぶやこうとした瞬間、その音声が
あまりにも蝶ちょの羽音が泣き叫ぶから
言葉になって唇からこぼれる前にはすでに、マイは起って仕舞ったことの重大さに気付いていた。
親族の誰かが、もっと言えば、家族の誰かが、正体をなくしたチャンを強姦したに違いなかった。大家族だった。家屋の中が不在になる事はなかった。だから、部外者がそんな事をして仕舞うこちはできるはずもない。ちょっと、物を掠め取るわけではないのだから。だれかが、それを愉しむそれなりの時間が必要なのだから。女が女を妊娠させる事はできない。だから、あとに残ったのは、長老ヴーか、クイか、クイの腹違いの弟のサンか、あるいは時に、この家に泊まっていく弟ダットか、あるいはダットの息子アン、あるいは、クイの息子の14歳のタン、彼らのうちの誰かに違いない。
いずれにしても、何重もの意味で、下劣な、軽蔑するしかない、唾棄すべき行為だった。
何も言わない娘に、ヴァンは自分が告白したことを後悔した。とは言え、いつか、すくなくともマイには知られなければならないことに違いなかった。目の前のマイはあきらかに傷付いていた。ヴァンは、ただ、悔やんだ。
いまさら、チャンをこの世にもたらしたヴィーをなじることも出来なかった。そもそも、ヴァンはもはやかつて、そんな女が存在していたことさえ、ほとんど忘れ去っていた。
ときに、添い寝するクイが彼女のことを考えている事は知っている。とは言え、ヴァンはすでに、彼女のことなど忘れさっていた。死んだ人間は、生きているに人間に、生きている人間がするようには、なにも手出しをする事など出来ない。
家族のだれもが、その数日の間にチャンの懐妊の事実を知った。明らかにクイではなかった。マイはそう想った。ヴァンが、寝室でクイに耳打ちしたのを垣間見たとき、クイはあきらかに戸惑っていた。あの聡明なクイは、まるで、ヴァンが口にする簡単なベトナム語を、まるで理解できないかのようだった。
ヴーではないことなど、考えるまでもない。単純に、80代の老人に過ぎないヴーは、老いさらばえすぎている。もし彼が犯人だったら、むしろ英雄に違いない。
サンか、タンか。あるは、ダットか。アンが、この家に泊まりこむことなど殆どない。とは言え、泊り込むといえばいつも家族のパーティのあとに酔いつぶれて、確かに仏間に泊まりこんでしまうので、在り獲ないわれではない。タンだって、彼の身体がすでに男なのには違いない。そのことに今更ながらに気づいたとき、マイの眼差しはマイに恥知らずな獣が、一匹野放しで家庭にのさばっていることを自覚させた。だれもが、驚きを曝し、そして、想い惑い、戸惑い、歎いた。だれもが、チャンを強姦して仕舞い獲る可能性を持っているように、マイの眼差しには見えた。
マイは、犯人がサンであることを祈ったサンにはまとも人望がなく、その妻は死んでいた。交通事故だった。娘がいたが、マイはかならずしも彼女と折り合いがよくなかった。貧しい父親のせいで、まともに金がないことをマイたちのせいにして仕舞う、容赦のないじゃじゃ馬だった。まともに学校にも通っていないQuyênhクインを、マイはただ軽蔑していた。母方の親族が育てているNởナーなど、持ってのほかだった。だいいち、妹の方は美しくも、可愛らしくもなかった。
アンとダットには、あの、やさしいフエがいた。だれよりも敬虔で、賢く、慎み深く、上品な美しさに恵まれたフエを、傷付けることだけはしてはならなかった。マイは、アンを、もっとも疑っていた。
かれが、フエに恋していることをは知っていた。そして、フエが、歎きと供に、彼に体を与えていることも。軽蔑すべき獣だった。彼以上に、犯人にふさわしい人間は存在せず、そして、彼である以上に、フエを歎かせ、悲しませる事実も無かった。
サイゴンで働いていたフエがダナンに帰ってきたのは8月だった。マイは、私が言うわ、と、クイにそう言った。
ただ、悲しげな色彩を浮かべて、ひたすらに想いつめ、目に映るものすべてをいつくしまないではいられないような、かすかな恍惚を曝したマイの眼差しに、クイは彼女にすべて任せてやるしかなかった。
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