小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑱ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
想っていた。クイは。ヴィーを。
その名残りさえとどめない、彼女の腹から生まれた名残りの残骸を見つめた後で、クイは
なんどでも
歎いていたのだった。過去を、ではなくて、かつて
あなたを。わたしは
あれほどにも美しく、結局は
なんどでもあなたを想いだそう。ただ
この世における明確なその
あなたをすみやかに弔って仕舞うためだけに
存在理由さえ持ち獲なかった存在が、かつて
その翼に持ち堪えられないほど苦痛を忍ばせた鳥たちが
存在していたというその
羽撃く日にも
事実そのものに。ヴィーは美しかった。知能と、両腕に深刻な障害を抱えながら、彼女は確かに美しかった。すくなくともクイにとっては。異母兄弟のSáng サンが言った。死んだ彼女の死化粧をクイの肩越しに垣間見て彼は、…綺麗だね。
これで薄穢い野良犬もすこしは綺麗になったよ。彼女は引っ掻き傷のような痕跡をクイにのこした。その傷は、何の意味をも明示しなかった。自分が彼女の美しさに咬み付かれていたことは知っていた。その癒えないあざやかな傷がなにをも意味しない以上、要するに、無意味だった。手の施しようもなかった。その娘の存在も無意味だった。唐突に、彼女自身にしかわからない理由で、人間であることをやめて仕舞った。ヴァンが生んだ娘さえ道連れにして。自分の体が流れ出させた自分の血に穢れて死んでいた刺し傷だらけのマイ。チャンはもはやなにものをも見い出さない。なにも言葉にせず、ただ、そこに存在しているに過ぎない。クイの眼差しのそこに。…ならば、と。ヴィーは結局は、なにものをも生み出しはしなかった。クイはそう想うしかなかった。なにかを破壊することも、なにかを打ちのめすことも、なにかを傷付けることも、なにかに咬み付くことさえも。
ヴィーに咬み付かれたままのクイの傷が喚き散らしたような痛みを噴き出して倦む…だれ?
Ai ?
と、そう言ったクイの声を、フエは
そちら
聞いた。立ち去ろうとするジウに
どなた?
しがみつき、そして、ジウは
どなたさま?
抵抗しない。長身を、そのまま
どちらからいらしたのかしら?
小柄なフエの両腕に
こんな土砂降りの雨の中に
抱きしめられるにまかせ、匂う、と。
ジウは想った。
下等な人種の、野晒しの下等な匂いが、と。フエは、ジウを責める気はなかった。彼は、と、もはや
あなたはいつも
彼ではない。
わたしのものだった
ジウは、
わたしが
ダットでは。そんな事は
あなたのものであったときでさえ
知ってる。彼は彼であって、もはや彼では無い。彼が
世界は私が世界を咀嚼して崩壊させて消火して仕舞った瞬間に
彼に
わたしの眼の前に顕れていて
他ならなかったとしても。フエは、
わたしは永遠に突き放されていた。だから
自分のしていることの無意味さに、明らかに
常に
気付きながら、むしろその、自分がしている行為自体に戸惑い、
冷たく暴力的な雨は降るしかなかった
フエの表情は無表情なままにゆがんでいく。
それは、ジウの眼差しには気違いじみた、自分勝手な他人の切迫をだけ感じさせる。彼女は
そしてクイは知っていた。いつでも
追い詰められている。それだけは
ヴィーはクイを表情のない眼差しに見い出しながら
知っている。彼女がいくら追い詰められ、自分の救いを
実は彼女が想像以上によく知っていることを
求めてさえいようとも、ジウにできる事は
だれが《餌》をめぐんでくれるのかも
なにもない。ジウは、彼がいまだに
雨の日の冷気にいかにしてその身を
名前さえしらない女の性急な
守るべきなのかも
訴えを、退けることも出来ずに
誰を警戒し、そして、誰が自分を迫害する敵なのか
従ってやるしかない。戸惑いをさえ、その表情に
…知性。ヴィーにはあきらかに
曝せないままに。
クイには一切の共有を赦されない
自分が、微笑さえ浮かべている事は
知性があった
知っている。
否定しようもなく
ジウは。
鮮明に。あるいは
そしてそれは、
ヴィーは認識したに違いない。彼女の
彼にとって、他人の
眼にする生き物たちのあまりにもグロテスクな
微笑みに過ぎない。彼が浮かべた
狂気を。まさに、留保もない
彼自身の
狂気として。ときに
容認した微笑ではないその限りにおいて。
ふかく、クイのそれとはまったく差異する歎きに染まりながら
押しやられるままに、ジウは、背を向けたままベッドの傍らに歩いた。かすかに、足を取られそうになりながら。開け放たれた窓から吹き込む風はさわやかだった。ジウは
微笑みなさい
笑うしかなかった。なんて、…と。
冷たい雨の中で。あなたの
さわやかな日差しなんだろう?
すきだったあの花を抱えて
そう想う。もはや、と、ジウは、すべての
あの
気配すらもが、と、
あなたがちぎって仕舞った花を
想う。さわやかだ。
月の海は永遠に干上がりはしない。かつて
ジウは、
満たされた事などないままに
そう思う。その想いを知るものは、ジウしかいない。
振り返ったジウは、あわてて差し出したクイの、握手を求めた手には気付かなかった。クイの手は空中に、誰にも掴み取られないままに静止していたが、ジウは見つめた。若々しいうぶな肌を曝した、老いさらばえて見える眼の前の、眼窩を落ち窪ませた女。
見える?
日差しが顔の、陥没と隆起を
ぼくが浮かべた
翳らせる。淡く。その、
君のためだけの微笑み
鼻の、頬の、口元、唇、顎、あるいは落ち窪んだまぶた。
女は、…と。なぜ両眼を失ったのだろう?戦争の、と、そう想って、ジウは、これは戦争の後遺症なのだろうか?
あなたが眼にしているもの。それは
笑う。
私の微笑み
ジウは、そんな不意の印象を、自分で
あなたが眼にしているもの。それは
嘲笑って仕舞い、そんな
数分前の太陽の光
馬鹿な。
もう、この国は戦争をしていないはずだ。すくなくとも今は。自分の故国と同じように。ハオの、あるいはあの、東アジアのくそつまらない島国と同じように。…どうやって、と。ジウは想う。戦争もしていないのに戦争で両眼を失うことなどできるのだろう?
ジウは、不意に自分が指先で、眼の前の女のまぶたにふれて仕舞いそうになったのに戸惑う。
そんな必然性は無い。
なぜ、…と。彼は戸惑いながらその眼にふれた。女の、あからさまに女じみた肉体。粗い、Tシャツ越しに隠しようもなく明示される、色づいた女の身体。ほら、と。
違います
愛しなさいよ、と、無造作につぶやいたような、そんな
花々の色彩はかならずしも
本能に訴えかけるたたずまい。…家畜だよ。と、
ミツバチたちを誘惑するためのものではありません
ジウは想った。
ミツバチの眼差しは、花を咥えて
本能に訴えかけるしか能のない、わたしたち哺乳類たちの
よだれをたらしているあなたのそれとは
生態。
同じじゃないから
嘲笑う。ジウは、おののきに近い戸惑いを、その表情に曝してフエを、振り向き見て仕舞ったままに。
フエは
ミツバチは
見つめていた。傍らの韓国人が、
聴いたに違いない。その
チャンのまぶたの至近距離に
色彩に。花々の
指先を停滞させて、日差しに直射させながら
色彩をまさに張り上げられた怒号の終わりなき連鎖そのものとして
自分を振り向き見た、その、…ね?
花々の断末魔の叫び
どうすればいいの?…僕。
彼女たちの最後の日々
そんな、いたいけない子供のような
やわらかい朝の陽光の中で、いつものように
眼差し。…触らないで。と、フエは想っていた。もう、…と。二度と。あなたが穢して仕舞ったかわいそうなチャンに。あなたの子供にも。あの、タオにも。私がやがて殺して仕舞うタオにも。あの日、ベトナムに雪が降った日、その、世界、すくなくとも既存の生態系のなかに存在する生き物たちにとっての世界のすべてがいまだ存在しながらにすべて死滅した、そのあとの日々の中のいつか、降りしきる雪。
不意の降雪だったので、庭のブーゲンビリアは花々をそのままに、その色彩を空間に撒き散らしていた。夜、月の光だけが明るく照らし出した空間の、庭の中に。
雪は、ブーゲンビリアの匂い立つ色彩を隠し切りはしない。ほのかに垣間見える色彩に瞬き、彼の言うままにタオは素肌を曝した。…ね?
Anh à
綺麗でしょ。
...Đệp không ?
その、
きれえでっか
戯れにささやかれた声は、耳元の至近距離に鳴ったように感じられた。少し離れた、手を伸ばしても届きはしないあてどない距離のなかに、そして、背中に凭れた埃だらけの仏壇はもはや光など放たない。
だれも発電などしてはいないから。あるいは、しているのだろうか?地球上のどこかでは?
タオは、彼の前で媚を売って見せて、衣服を脱いでいった。これ見よがしに扇情的に。意図的に手間取りながら。決して上げない伏目に男の眼差しを煽って見せて。まだ、ひとりの男さえ知らないくせに。
彼は驚いた。結局は、と、想った。私は何をも破壊できなかった。生み出しはしても。無際限に拡がった宇宙の中に目醒めて、確かに現存する生態系を破壊したものの、そんな事はどうでもよかった。また、ふたたび、と。彼は想う。
おはよう
目醒めるのだから。命のひとつして。転生を
残酷な世界
繰り返す宿命の中で。無際限に
あなたには
連鎖する、さまざまな
ついに
複数の宇宙のどこか、あるいはこの
すこしの容赦さえもなかった
宇宙のときのなかのいつか、例えばあの、灼熱の
片時も
大地に
一瞬さえも
へばりついて見あげたメタンの色彩に染まる空の下で。
溶け出したマグマの熱を避けながら、細胞を急激に分化し、手にふれるものを同化して仕舞いながら。
見あげられた、あるいは凍りついた世界の許の、オーロラの美しさを知っているか。
君は、と、彼は、凍りついた大気の下に、微細な細胞の群れの集めて。
知っているか?
あの風景。複眼が捉えた世界の驚くべき鮮明さを。
知っているか?
重力を捉える感覚が見い出すさまざまな重力波の荒れ狂う色彩を。
知っているか、と、見つめられたタオは笑った。…ね?
すきじぇっ
好き?
っ、…ぇっ
つぶやく。
…ぇあ?
なんで、と、タオは、やがて、…好きなの?
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