小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑰ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
あなたは、と、フエは想う、強姦者ダット、穢い父。穢れた存在、あなたは、と、血に塗れた。自分の、と、想い、フエは瞬く。光。
雨上がりの日のその早朝の樹木の曝した葉の群れの上に
陽光。穏かな、そして、想う。忘れて仕舞った。なにもかも、と、フエは、あなたは忘れたが、と、忘れはしないのだと、フエは、私は。
きらめいていたのは濡れた羽虫
私は忘れることなど出来ない。今のあなたに一切無関係な、あなたが関わることさえできないあなたの罪に。
賢いフエは知っていた。自分の想いのすべては結局、自分勝手な茶番に過ぎない。無意味な、穢い、妄想か感傷に過ぎない。クイの家の前についたとき、フエはその家の前を通り過ぎそうになった。陽気なヴァンが声をかけてフエは我に返った。店先の陽光の下に野ざらしの、氷を詰め込んだ発泡スチロールボックスをかき混ぜているヴァンの腰を曲げた笑い顔を見た瞬間に、自分がここにいることの意味を思い出した。ジウは、明らかに戸惑っていた。そんな事は、振り返って確認するまでもなくフエは気付いていた。
あら
何してるのよ。
おばかさん
聴く。
遊びに来たの?
その、ヴァンの声を。…誰よ。
あら
その、ハンサムさんは。
おばかさん
頭のおかしな殺戮者よ、と、フエは思いながら自分の顔が笑みにゆがみ始めたことに、戸惑う。…違うわ。
逃げ出してきたの?
夫の、
まだ生きてたの?
唯の友達よ。
どこかの病院で
日差しの下に立ち止まったフエを、陽光が
薬漬けにされていたのに
直射した。光の温度が、肌を直射して、温めていることにフエはいまさらに気付き、振り返り見たジウは微笑んでいた。
邪気もなく、…いいよ、と。
わたしは
好きにしなよ。
無実です
君が今何をしているのか俺にはわからないが、お前の好きにしろよ。…どうせ、と。
わたしはわたし以外の誰をも殺しはしませんでした
当分、暇なんだから。そんな眼差し。なぜかはしらない。フエは、騒ぎたった自分の心の動揺を恥じていた。
店先に出された小さなプラスティックのテーブルに、男たちが群がってビールを飲んでいた。昼間だというのに、その足元には十本以上の空き缶が転がる。よく知っている。毎日、彼らは昼間、此処でビールを開ける。飲み干された空き缶は足元に無造作に転がすのがこの国の流儀だ。だから、彼らはそうする。彼らは当然のように流儀に従う。
彼らはここの人間なのだから。
彼らはフエに手を振った。囃し立てた。もう一人のハンサムさんはどこに行った?そう言った。夫のことに違いない。ハオのことなどまだ誰も知らない。知らないわよ、と、
そう嬌声を上げて意図的に色づいて見せたフエをヴァンは笑った。友達に合わせるの、と、言った瞬間にヴァンの眼差しは翳った。なぜ、と。
彼女は死にました
チャンになどなぜ、いちいち引き合わせなければならないのか。そんな事をして、何が
頭の中に無数の紫陽花の花々が寄生して仕舞ったのです
救われるというわけでもないのに、と、ヴァンの
開いてみたらもう、綺麗な小さい花々の群れが
心に生じた歎きに近い感情は、とはいえ
綺麗に全部食べ尽くしていました
すぐさま、
残念ながら
いつくしみに満ち、悲しく賢いフエのする事なのだから、そんな戯れにも意味があるのかもしれないと、嘆息の中に埋没する。
フエは、ジウの手を引く。階段を上がる。階段の脇の奥のキッチンで、誰かが昼食にありついている物音がする。英雄クイが、遅めの昼食を取っているに違いない。フエは
そのとき
見つめなさい
そう想った。
不意に私を懐かしい感傷が襲った
私のことを
クイは、
頭を吹き飛ばされた君が最後にくれた
永遠に
珍しく
一瞬だけの笑い声
癒されない悔恨にくれながら
チャンのベッドに腰掛けて、うな垂れていた。階段を上がった三階の仏間、フエの眼差しにふれた逆光の中のクイの淡い翳りに、フエは一瞬、あてどもない既視感にかられた。人気に気付いたクイは、ようやく顔を上げた。鮮明な、歎きがその眼差しに浮んでいた。彼が
悲しんです
咬み切って仕舞え
何を歎いているのか、フエには
わたしは、いま
歯に加えたその
分からなかった。
頭の中が血を流すほどに
お前の舌など
ジウは
わかりますか?
ひと想いに
息を飲んだ。たしかに、そうするしか、ジウにはなかった。地味な顔立ちの、いかにも気の強そうな褐色のアジア人に連れられて、いきなり連れ込まれた貧しげな家屋の仏間の窓際に、ひとりの女が横たわっている。彼女はまともな状態ではない。落ち窪んだ眼の周りの陥没には明らかに違和感がある。その傍らの男は、老いさらばえて白髪をそのまま乱し、そして、顔の半面をひしゃげさせていた。何事だ、と、ジウは想った。
冗談ですか?
男の顔の半分は、明らかに
本気ですか?
傷付いていた。戦争の
やめてください
後遺症であるに違いない事は、見た瞬間に
ぼくが怖がってしまいますよ。あるいは
分かった。
笑い出してしまう可能性さえもあります
徴兵制のある国に生まれた。ジウは軍役を終ったばかりだった。軍役とは言え、もはやまともな精神状態ではお互い国のの戦争などふたたびはじまり獲ない。片一方は独裁に文字通り飢え、戦争などする体力はなく、そして、片一方の国の首都は、国境線に近すぎていた。正気では引き金など引けはしない。共倒れして、滅び去って仕舞おうとしない限りは。ジウは、かつて、その故国にあって、その行き場のない状況を、嘲笑するしかなかった。
引き金を引けない国の末裔が、引き金を引くしかなかった男のに対面する。かつて、と、ジウは想う。彼の故国も、同じように引き金を引いた。半島は血に染まった。結局は、滅びる前に、38度線を引いた。38度線の末裔たち。…誰?と、
「誰?」
言ったあとで、ジウは、自分が日本語を離していることに気付いた。故国を裏切った気がした。傍らの女が日本語など話せないことなど知っていた。そして、ジウはすでに故国を裏切っていた。いまさら、と、想う。ふたたび、俺は、と、ジウは、俺は故国をもう一度裏切る。
にやつくジウを見上げたフエは不審に想った。なぜ、と。
国家というものがなぜ存在していなければならないのか
あなたは笑えるの?
その正当な論理付けなど
つぶやく。フエは、
為し獲たものなど存在しない
あなたの罪を目の前にして。
ナチスとイスラエルを除いては
…そう、頭の中でつぶやいた、フエの声が物静かに連鎖していくのを感じる。まるで、波紋が広がっていくように。
つかみ取られ続けていたままのジウの手のひらが、二人の汗にいつか倦んでいた。ジウは、いきなりその手を振りほどいた。そんな気もないままに、その仕草が彼女への拒否の意味を持って仕舞ったことに、ジウは
ごめんね
気付いた。例えば、
いとしい人
ふざけるなよ、と。
明日の天気はわかりません
なぜ、
たぶん水星に雪は降りません
こんなところに連れてきたんだ?と、浮んだ単なる差別の眼差しが、フエに、自分への軽蔑として見い出されているに違いないことをジウは嘲笑う。違うよ。…と。
あなたの眼差しはいつも
俺が
不意に降りしきった雨のように
軽蔑しているのは東南アジアの貧しいお前たち十羽一からげに対してであって、なにもお前自身を真摯に軽蔑してやったんじゃない。
ジウは、不意に、背を向けて
あなたの眼差しはいつも
帰ろうとした。フエはそれを
偶然切り裂かれた曇り空の雲の切れ目の一筋の閃光。とても
赦さなかった。…見なさい。
やわらかな
あなたの罪を、と。その、つぶやかれなかった言葉がフエの頭の中に舞う。目舞いが、と、想った。いま、私は、…と。眼を回して仕舞いそうだ。彼女はそう想った。
チャンは、息づかっていた。
あなたの眼差しはいつも
クイは、
突然想い出されたいつかの日の見上げられた樹木のそれら
眼差しの中に捉えられていた男が、ようやく
木漏れ日のきらめき。繊細でそして
彼の眼に見馴れないこと、そして、男が異国の
やわらかな
人間に違いないことに、クイは気付いた。想っていた。クイは。ヴィーを。
その名残りさえとどめない、彼女の腹から生まれた名残りの残骸を見つめた後で、クイは
なんどでも
歎いていたのだった。過去を、ではなくて、かつて
あなたを。わたしは
あれほどにも美しく、結局は
なんどでもあなたを想いだそう。ただ
この世における明確なその
あなたをすみやかに弔って仕舞うためだけに
存在理由さえ持ち獲なかった存在が、かつて
その翼に持ち堪えられないほど苦痛を忍ばせた鳥たちが
存在していたというその
羽撃く日にも
事実そのものに。ヴィーは美しかった。知能と、両腕に深刻な障害を抱えながら、彼女は確かに美しかった。すくなくともクイにとっては。異母兄弟のSáng サンが言った。死んだ彼女の死化粧をクイの肩越しに垣間見て彼は、…綺麗だね。
これで薄穢い野良犬もすこしは綺麗になったよ。
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