小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑯ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
開け放たれたシャッターの逆光の中から入ってきたハオは、久しぶり、…の、その一言さえもなくフエを見い出せば、ハオはフエに微笑みかけた。
こぼれそうな、美しい、いかがわしい笑顔。人間の臭みに染まった、人間的な汚点のない笑顔。…臭気のない悪臭、…とでもいうべき?いずれにしても、フエはその微笑みに答えて、彼に微笑んで遣るしかない。…ねぇ?
と、ハオは言う。「…ねぇ。もう、」と、「寝た?」フエには、彼が何を言ったのかは分からない。それは、彼女に理解できる限度を超えた異国語だったから、そして、その、ハオが案じたに違いないジウは、いまだに、睡眠に堕ちる寸前、あるいは、覚醒にふみとどまっているその、危うい境界線をしずかに彷徨っている、そんなことなどフエはとっくに気付いていた。
フエは首を振った。…いいえ。
と。
まだよ。…その、仕草が眼に触れる前に、ハオは、ジウが単に寝た振りをしていることには気付いていた。ハオは、声を立てて笑った。自分の喉の奥にだけ。
不意にハオが言った。…元気だった?
フエに。ささやくように、そして、そう言っておいて、そんな言葉などすでに忘れて仕舞ったかのような、不意に自分に見惚れたハオにフエは戸惑う。…なぜ、と。
想った。
フエは、どうして?
Tai sao ?
そう想い、なぜ、あなたはここにいるの?
Why ?
その、フエが曝すあからさまな戸惑いが、いつか
perché
おののきに変わっていくのをハオは気付かなかった。ハオは
Warum
見つめた。何も言わずに、そしてハオが
Cén fáth
自分を抱きしめて、やがて、口付けるのにフエは
Nima uchun
抗わない。…あの、…と。
…なんで?
そう言ったジウの声に、ハオは耳を貸さない。
「…知り合い?」…だったの?
ハオは、…んー。
しるぃあぃいぜせぅか
んー…と。その、自分の頭の中でだけ繰り返された自分の音声を聴く。…知り合い、では。…と。ない、…言った、その心の中にだけつぶやかれた声を聴いたのは、ハオしかいなかった。フエは、涙を流していた。声もなく。ただただ、懐かしく、顔に泣き顔さえ兆し獲ないままに、フエは自分の唇を奪ったまま、もはや自分に口付けていることさえ忘れて仕舞ったハオを見つめた。
視界の中に、捉えられた形態が涙で無残な崩壊を曝し、ゆがみ、見出すもの。ブーゲンビリア。
綺麗ですよ
花々の匂い。…少女が浮ぶ。
咲き誇った
花々の中に、素肌を曝した、その
花々は
タオ。
とっても
愛おしいタオ、と、フエは想い、私がやがて
夢のように
殺して仕舞う少女。この、世界を
見醒めることのない
殺して仕舞った後で。
春の
唇を離したハオは、フエを、
夢のように
いまさらその存在に気付いたように見つめなおして、頭をなぜてやり、彼は言った。「知ってる。」
それが、自分の問いかけへのいまさらの返答だったことに、ジウは気付かなかった。…やがて、と。
わたしたちは所詮はわたしたちに理解できることしか
ハオは言った。
知らない
「知ってる。未来のどこか。知ってる。昔。…もう、いま、知った。…いま、」…ね?
振り返って自分を見つめた、微笑むハオからジウは眼をそらした。抱きしめられた触感が、フエの体に残っていた。明らかに同性に抱きしめられたに変わらない、柔らかな触感。…そんなことは知っている。この男は、あるいは、この人は、そういう人なのだから、と、フエは記憶をまさぐって、豊かな乳房。涙を流したままに微笑んで、フエが、ハオを見つめるその眼差しに気付くものはいなかった。
母なるお母さんはいつもでもやさしい。たとえ
ハオは、
わたしを虐待の果てに自死に追い込んだときにさえも
嘆かわしげにジウにつぶやいた。…いってやれよ、と、その言葉。行ってやるべきなのか、言ってやるべきなのか、どこへ?何を?誰に?誰の許に?誰と?…それら、了解されないままのかすかな疑問符がおぼろげに、とりとめもなく連鎖するにまかせ、いつか、ジウは微笑みさえして仕舞う。その、微笑みの意味は自分でも分からない。「連れて行って遣れ…」と、ハオは言ったのだった。
フエに、唐突に振り向いて彼女に一瞥をくれたハオは。
彼女に。そして、その、意味の分からない異国語を完全に聴き取り獲る前に、すでに、フエはジウを見ていた。
悲しいジウ。…その、感傷以外の何ものでもない悲しみに、フエは淫していた。フエは気付いていた。自分の感傷の見苦しさ、惨めさ、そして、微妙ないじきたなさ。想いだす。彼を殺したとき、彼は憤怒の表情をさらした。
明け方に、トイレにたったフエが見出した、暗がりの中のダット。たったひとりの父親。穢い強姦者。寝息を立てて、あの日、廃墟が眼の前に拡がる未来のときの中のその最期のときに、自分を背後から抱きしめて最期まで、私と添い遂げようとしたけなげな男。
彼にも、あるいは葉に添い遂げたあの真鍋という名の男と同じような、自分勝手な享楽があったのだろうか?涙に塗れた、自己憐憫さえも含んだ自己満足、最愛の、もはや自分なしでは生き残れもしない存在との最後のときを、共有しえる自分勝手な享楽。
ひたすら無私の、そして自己犠牲に満ちた愛と、そして容赦ない享楽。
あなたは、いま
愉楽のとき。
わたしだけのもの
フエは
いま
瞬き、ダットのベッドを
もはや
蹴り上げた。…犯罪者のダット。
わたしがあなたを
穢らしいダット。心の底から穢れた、
見つめるとき
強姦者ダット。知っている。わたしを、と。
あなたはわたしだけのもの
想う。私を見醒めさせた男。かつて、交配された細胞の中に遺伝子を投げ込んで、生命のかたちを与えて仕舞った男、と、…ねぇ?
なぜ
あなたは生き延びるのだろうか?…想う。フエは、
こんなにも空は
あなたは、と、私があなたを殺しても、
青いのでしょう
あなたが目覚めさせた私の遺伝子の中の、記憶のような切片の一つの、無数の
なぜ
連なりの一つとして?
赤い薔薇はこんなにも
息遣いながら、フエのが曝す軽蔑にまれた、もはや
赤いのでしょう
自分への憎悪さえも感じさせない穢らしいだけのフエの眼差しに、ダットは
なぜ
おびえた。…なにを?
あなたはこんなにも
と、想う。
美しいのでしょう
ブーゲンビリア。
わたしに
花々が、そして、光。
愛されたあなたは
ダットは瞬き、自分を不意に罵った娘の声を
いま
聴く。
あなたの声に、耳を澄ます
ささやき、唇の先にこぼされるだけの
愛の言葉をささやく
憎しみの声の群れの、聴き取れない音声の
あなたの
断片の群れ、そして、
声に
おののく。
…ねぇ
光。
どうして
なぜ、と、想った。
すべては
救済の光。
美しいんだろう
お前は何を、と、心に。
たとえ
神々は、すべてを…
眼の前であなたがその
想う。お前は…
手首を切り裂いたときにも
救済する。
どうして
なにを求めているんだ?…と、その、
美しいんだろう?
つぶやかれなかったダットの言葉を、お前は、…
たとえあなたが
聴いたものはだれも、
喚き散らしながらわたしに
何を、…
狂った眼差しをただ
いない。
向けたときにも
求めてるんだ?
どうして?
声。フエの頭の中に、自分では聞き取れない言葉の群れが連鎖した。フエの足が、上半身だけ起こしたダットの頭を蹴り上げたとき、フエが立てた笑い声をダットは
笑いながら生まれたゾロアスターは確実にゲシュタポの
忘れない。
血まみれの惨状を見ても笑うに違いない
ほんの、残された数分の間だけだったとしても。その、あまりにも
正義はやがて勝利する以上すでに正義は勝利しているのであって
鮮明に残った記憶。
絶望していた屠殺される彼らはまさに
おののく。フエは。
勝利しているのだと
自分に向けられたダットの容赦なく穢い、憤怒の表情に、
確信して
怒り。想う。なぜ、と。
祝福しなさい
あなたはチャンを穢して仕舞ったのか。あの、かわいそうで、
みずから自身を。あなたはいま
何もできないチャンを?
すでに
フエは笑った。声をさえたてずに、そして、
勝利したのだ。いままさに
何も見えないチャンを?
あなたがたは
聴く。自分が立てているけばけばしい哄笑の声をただ、
死んで仕舞え
美しく、色づいた身体を曝すチャンを?
殺戮をその身に
自分の耳の中にだけ、まだたきさえ
受け入れよ
動物のように、ときに叫ぶしかない
もっと、虐殺を
沈黙の
凄惨な
チャンを?
血まみれの
…忘れて、瞬くことさえ忘れてダットは、
惨劇を。なぜなら
自分を殴り散らすフエを
あなたがたはすでに勝利している
にらみつけた。かろうじてとった防御の姿勢に、自分の体を床の上に丸めながら。
ふたつめの居間の、夫が選んだ悪趣味な黒いテーブルの上に果物ナイフが置きっぱなしになっている事は知っている。…食べなさいよ、と。
昨日の夜向いてやったマンゴーの切片を、ナイフ越しに差し出したのを夫は口にしなかった。
フルーツ嫌いだから。…体にいいんだぜ。
かつて零一は言った。微笑んで、そして、零一は見る。「嫌いなんだよ。」…と、「そんなもの喰って健康になるくらいなら、喰わずにそのまま死んだほうがいい。」そう言った自分を。
私を。見た。零一は、なんで嫌いなの?と言った零一に私は言った。「うますぎるから。…ふつうに、おいしすぎて、いかかがわしいじゃん。」笑う。
…ハナちゃん
その、
馬鹿?
笑った音声があの、ルーフバルコニーつきの渋谷の部屋の中に、気の抜けた寂しい音響を残していたのをフエは記憶していた。つぶやく、「死んで。」
死ねよ。カス
言った、自分の声を、ダットも聴き取ったに違いないことには、フエは気付いていた。フエが振り上げた果物ナイフを、交わそうとしたダットはただの腰抜けだった。自分の身を守ることさえままならない彼に、フエを襲うことなどできない。その、差し伸ばされた手が蚊帳を引きちぎった。
何度目かに突き刺さったナイフの刃が、彼の腹部をえぐったときに、声を立てることも出来ないままに、ダットはハンガーの列をかなぐりおとしてしまう。
息遣う。フエは、息遣いながら、そして気付く。聴いている、と。気付いていたこと。私たちはいま、息遣いながらお互いの、混濁しあった息遣いが空間に散って消えうせて仕舞っていくのを聴いていた、…と。
聴いている。
やがて力つきて、痙攣するダットの身体を、そしてフエは気付いた。なぜ?
どうして
なぜ、
空は青いの?
殺して仕舞ったの?と、想い、戸惑っている自分を、たぶん、
どうして
と、フエは、彼の眼差しのせいだ、
海は広くて大きいの?
と、慰めているフエは、気付いていた、すでに、まともに
どうして
彼の眼を、見はしなかった。
鳥は空を
私は。
飛んでいくの?
…と。自分の唇が、離れたばかりのその唇を、もはや、すでに、なつかしがっていることをフエは知った。ハオは、ジウを見つめていた。ジウは、沈黙を曝すしかなかった。あなたはなにも知らない、と、フエは想う。
ジウに、嘆きの眼差しを容赦なく曝し、ジウに、知らないのよ。
と。あなたは、…
だれも
なにも。
樹木がささやきあう声を聴かなかった
フエは、ハオのまなざしから彼を庇護しようとしたかのように、ジウの手を引いた。見詰め合うだけの、ジウとハオの間に入って。ハオは、明らかな軽蔑を、だれにというわけでもなく曝して、一人で微笑んでいた。
「どこに行くの?」と、自分を先導して、手を引くフエに問いかける不安げなジウの、その意味を聴き取ることができない異国語に、フエは答えてやるすべなどフエにはない。
彼女は、うちを出て、そのまま、ジウの手をつかんだままにクイのうちを目指した。
陽光が、ただ、気配もなくすべてのものを照り輝かせる。そこに、自分など存在していないかのようなそぶりを装って。牙を抜かれたような、やさしい明るさを、日差しの強すぎない日の6月の正午は曝していた。夏にしてはめずらしいほどに、おだやかな日照だった日。曇っているわけでもないのに。
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