小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑮ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
「シュレーディンガーの猫。…知ってる?」
「なにそれ?」
「俺は、すべて知ってる。けど、知るまで何も知らない。」…え?と言ったハオの、こぼれるような微笑に、私は瞬く。「箱の中の猫は死んでいるか生きているか、その二つに一つだ。だから、あけて見るまでどっちかは知らない。けれど、俺はもう猫が死んでいることを知っている。しかし、あけて見るまで、俺がそれを知る事はできない。」…ごめん。と、そう言ってハオは笑った。「何の話?」
「量子力学かなんかの話だよ。たとえ話。思考実験。もともとは、猫の死と生は重なり合って存在している、と。矛盾してるんだけど、素粒子の世界を喩えて言うとそう言うことだ、と。…ね。でも、記憶に関しては当たり前の原理だということがわかる。例えば、《わたしは記憶している》…と。けど、想い出さない限りはそれは記憶していないことに等しい。つまり、想起された瞬間に、それが記憶されていたことが照明されるし、記憶の存在は存在し獲る。とはいえ、想起されたものは、今私の意識が想像した現在の意識なので、かならずしもその記憶そのものとは一致できない。記憶と想起とは相当しない。…」
「なに、…それ。」
「記憶は存在と非在を、記憶されてあったことと今想ったことを、そのままかさね合わせて実存するしかない。」不意に、ハオは声を立てて笑った。
私に、単純な軽蔑を感じざるを獲なかったかのように、そして、ハオはまばたく。…ねぇ、と、…ハナちゃん、さ。
「そんな意味不明かつ小難しいこと考える人なの?」笑う私を、ハオは見つめた。「趣味なの。」言った私は、声を立てて笑っていて、…ねぇ。その、ハオの、「ハナちゃんって、…」声を聴く。
「…馬鹿?」…ひょっとして。
…と。ハオは、いつでも邪気もなく笑う。「つまり、さ。」ハオは言った。「軍隊作ったんだよ。私設軍隊。ってか、いろんな国家の、既存の軍隊のやつら、アホども。殺して殺されるしか能のないやつ。やつら、改宗させたというか、そんな感じ。洗脳とも言う。…分かるでしょ?俺、普通じゃないじゃん。それ、利用して。…ま、趣味。ハオちゃんの趣味は、その、猫いじってもてあそぶこと。俺の趣味は、…」…滅ぼす?
そう言った、私を、「世界を、…」ハオは「…滅ぼす?」見つめた。
言いかけた自分の言葉を一度切って、そして、うなずき、…そう。
「…かも、…ね。」ま、…「すくなくとも既存の世界環境を、ね?単なる地球上の。」てかさ、…ね。…実際、…ま。「…見たいじゃない?」
「なにを?」
「まず、その一。破壊される風景。考え獲る、なし獲る、もっとも大きな破壊をくだすこと。…破壊って何だ?想わない?例えば、ヒトラーが、あるいは、さ。旧日本軍が、加えた破壊なんて所詮たいしたことないよ。いくらゲシュタポで悪さをしようがね。原爆の一気の破壊に比べればね。無差別で、例えば悪役の日本人も、善玉の米軍捕虜も、朝鮮半島や中国に人間たちも十羽一からげにしてね。…やばいでしょ。そのすさまじい暴力性って。ユダヤ人虐殺?…くだらない。アウシュビッツがホロコーストだって?ジェノサイトだって?違うよ。本当の大量無差別殺戮は、人類は二度しか体験してない。広島と長崎だよ。誰も彼も、なにもかも、敵も味方も、人間も動物も環境も存在するものすべて一緒くたにぶっ壊す。壁の中に囲い込むことさえもなく。一気に、ぶっ壊し、ぶっ壊して、ぶっ壊す。」
「壊したいの?」
「例えば、俺は今までに、」…知ってるだろ?「殺したよ。人なんか、いくらでも。理由のある、小さな、有益な暴力ね。すくなくとも、俺のふところは潤うわけじゃん?殺せば。でもさ。考えてみろよ。どんなに猟気的な殺人だって、サイコパスの殺人だって、結局はなんらかの有益性の原理に基づいてる。単なる欲望か、そうしたほうが有益か、そうしないと生き残れないから誰もが誰かを殺すのさ。戦争だってそういう意味じゃ有益性と必然性に基づいてる限りにおいて、暴力的じゃない。殺さないと殺されるからさ。そう言う意味じゃ、戦場の正義と倫理にもとづいて、正当な行為を遣ってただけだ。…アメリカもね。」
「原爆?」
「原爆でも何でも。空爆でもなんでも、…さ。彼らだって、原子爆弾、落す必然があったんだろ?いろんな言い方や解釈や認識があるけど。日本人の暴走をストップさせるための正義の鉄槌、迅速なる戦争終結のため、ソヴィエトの侵攻に釘を刺すため、戦後の国際的優位性のため、実験のため、その他、なんでもかんでも。理由があればある意味暴力じゃないよ。まがまがしくはない。いかに、行為自体がまがまがしくとも。だから、…ね?」…なに?と、言葉を不意にきったハオにつぶやく私に見出し獲るのはハオの、いたいけなく邪気のない「…で、」微笑みでしかない。「なんだよ?」
んー…「ね?」分かるでしょ?「ね?」なんにしても、…「ね?」正当な行為だったと、ある意味において認めてやろうよ。「アメリカもナチスも旧日本軍も」
「あたま、おかしいの?」
「まさか」
「…狂ってるよ。」
「…ね?」ハオは、息を継いだ。
一度そらした眼差しを、もう一度私に重ねて、…知ってるでしょ?
「…なにを?」
「全部。」笑い出したハオの笑い声が、おさまるのを私は待つしかなかった。…いつから、…と、言う私をハオは見つめ返した。
「いつから」
「…知ってるだろ?」
「そんな、」
「俺の、…さ。」
「おかしな事考えるように」
「俺の、考えてること、」
「なったの?」
「そんなの、」
「きっかけは?」
「もう、…」
「なんで?」
「全部、」
「おかしいだろ?なにもかも」
「ハナちゃん、全部、」
「破壊するとして、」
「知ってるんじゃない?」
「なぜ、」
「見たろ?」
「破壊するの?なんで」
「すでに、…もう、」
「破壊しなければならないの?どうして、」
「夢の中で。」
「それを」
「…知ってる。」
「しようとするの?」
「なにもかも、」
「自分で。」
「すでに、」
「おまえ自身も」
「すべて、」
「死ぬかも知れないのに?」
「…ね?」
「なぜ?」
「でしょ?」と、言い切ったハオに私はうなずく。「…知ってるよ。」私は言った。…そう。
と、ハオは想いあぐねた眼差しを一瞬だけさらし、「自分がしでかしたことだからね」言った。…かつて、と、つぶやく私からハオは、眼をそらす。「ハナちゃんは犯罪者だよ。人類最悪の、…」…ね?
「君は、罪もないあらゆる生命に不意の死の鉄槌を与え、そして、すべてを滅ぼして仕舞ったのだ。」
ハオは、声を立てて笑った。…ごまかすな、と、私が言ったとき、ハオが始めて私の存在に気付いたかのような顔を曝したのを見た。ハオの表情は、ふたたび、その、いかにも優男じみた眼差しを取り戻して、そして、聴く。「お前だろ?」と、つぶやく私の「お前が、」声を。「滅ぼすんだろ?」
「世界を?」
うなづいた私に、ハオはあからさまに軽蔑的な眼差しをくれた。「…まさか。滅ぼせないよ。…どうやって?この宇宙を?この世界そのものを?どこまでも拡がる宇宙そのものを?…知ってる?世界そのものが、自分が滅び獲るのかさえ知らないのに、どうやって世界を滅ぼせるんだ?世界は始まりさえ知らない。自分自身では。すくなくとも俺たちが理解し獲る始まりなど、世界は知らない。存在が始まったときにはすでに存在は始まっていたから。終わりだってそうだ。すくなくとも、俺たちが理解し獲る限りでの終わりなど、世界は迎えることが出来ない。世界そのものから超越しない限りはね。そしてそれは世界には出来ない。」
「人類自体は滅ぼすんだろ?」
「まさに。」言って、ハオは、一瞬だけ歎かわしげな眼差しを曝し、そして、彼はまばたく。その表情の一瞬を洗い流すように、あるいは、すでに忘れ果てて、ハオはやがて微笑んだ。「…滅ぼすね。」
「どうして?」
「人類最強の兵器を使って。俺は人類を最期のときに導く。つまりは、…さ。人類の最高到達点だよ。核兵器って。実際そうだろ?ただ、その最高到達点にはまだだれもふれていない。それを爆発させない限りはね。だから、それを遣る。その最高到達点の切っ先に人類をふれさせて、一気に、最高到達点の高みの風景を見せ付けてやる。」
「さらなる最強がありえたら?」
「あり獲るよね。」私がすでに、堪えられずに笑い声を噴き出しながら「…十分に。」自分を見つめる眼差しを、ハオは「例えば、」むしろ「核融合とか?…」許してしずかに、やさしい「十分まだ、その」眼差しを「先が、十分、」送った。「…あるよ。」…人類にはね。「当然。…」…その、彼の声を私は聴いた。
耳を澄ましさえせずに。
「十分以上の可能性がある。…人類には。…けど」
…けど?
「決めた。」
何を?
「…俺は」
だから、…
「決めた。」
何をだよ。
「もう、」
ねぇ…
「待たない。…てか」
何を?お前、
「さ。…ね?」
何を、
「てか、…」
何、言ってんの?…と、その言葉が終らないままに噴き出して、声を立てて笑った私を、ハオは見つめていた。私は笑い崩れながらハオを気づかうのだった。ハオは傷付いたに違いない。なぜなら彼は彼固有の深刻な自己告白を、自分なりにいま曝しているのだから。誠実に聴き取られるべきだった。私にはそれは不可能だった。滑稽だった。いずれにしても、深刻で、そして辛辣でさえあるべき彼の告白は、もっと切実で、もっと痛ましくあるべきだった。それを、私は一人で茶化し、まるでどうしようもない茶番劇に仕立て上げていた。私はハオを哀れんだ。私の息を乱す笑い声は、なかなかおさまりそうもなかった。ハオはただ、やさしく、文字通りいつくしみに満ちあふれた眼差しを彼がその眼差しに捉えた私にだけ捧げていた。彼は、笑い転げる私を見守りながら、…もう、と。
ハオは言った。もう、…「…遅いよ。」
つぶやき、
「もう、」
見つめる。いつか
「引き金は引いちゃったから。もう、」
うなだれてもはや、
「後戻りはできない。もう、」
疲れ果てたようにさえ彼の
「終ったに等しい。もう、」
眼差しに見えていた私の
「すべて、」…ねぇ。
顔つき。…ねぇ。
そう言った私の顔を、「…ね。」ハオは、「お前、…さ。」見あげる。「どうやって調教したの?」
「調教?」
「なんだっけ?…その。…お前の、それ。その、…《軍隊》?」
ようやく顔を上げて、ハオを直視した私は、あきらかに戸惑ったハオのまなざしに戸惑う。「…《軍隊》?」
「そう。《軍隊》。…」てか、…「言ってたじゃん。お前、…」さ。「自分で、…」…ね?「《軍隊》?…だの」…さ。「なんだの、さ。」…ね?「じゃない?」…でしょ?「違う?」「ああー…」と。
ああー…と不意に言って、ようやく想い出したような顔つきを曝したハオに、いささかの邪気もない。うちとけた表情を作って見せたそのそぶりさえも。当たり前の事実を、当たり前に曝しているだけに過ぎない表情の鮮明さをハオの全身は素直に曝して、「《軍隊》…か。」
「違うの?」
「ごめん…」言って、ハオは、「《ぐんらい》って言ったのかとかと想って、…」微笑み、「なにそれ?…って。その、」私を見遣るその「群來とか、さ。例えば、」眼差しの美しさに私は「郡雷とかさ、…」一瞬だけ、「なんじゃそりゃって。一瞬、…」見惚れた。
空間に開いた洞穴に、唐突に落ち込んで仕舞ったかのように。そんな、奇妙にしらけた感覚が私を襲っていたのだった。…どうやって?
と、問い直した私にハオは答えた。「…単純。」
…ね?
そしてハオはどうしても、ただ、美しいと、単純に
…知ってるでしょ?
言い切っては仕舞えないある種の
…俺のこと、…ハナちゃん。
いかがわしさのある眼差しを、その
…よく、…さ
個性的な見下すような微笑みにゆがめて眼の前に
…ね?
曝すのだが、私は自分の
…知ってるでしょ。もう、
心を裏切って、むしろ、
…ね?もう、
美しい、と、そう
…すでに。
想う。
ハオを。「…ね?」と。
ハオは言った。その声を聴き取ったときには、ハオはすでに、私の頬に口付けていた。その。
とき。そ。に。そ
のと。
き。と。その。…と。
そのとき。その、と。…そして、と、そのとき、フエは私がバイクで立ち去って行くのを見つめた。カフェへ。あの女を抱くために。振り返れば、フエはそこにジウがいる事は知っている。ジウはソファに横たわったまま、いつか、眠りに落ち始め、未だに明確には始まらない寝息へと、その安らかな呼吸は陥り始めているのが、そしてフエは知っている。
やがて、立ち寄った先から何と言うこともなく自分で此処を嗅ぎつけて、開け放たれたシャッターの逆光の中から入ってきたハオは、久しぶり、…の、その一言さえもなくフエを見い出せば、ハオはフエに微笑みかけた。
こぼれそうな、美しい、いかがわしい笑顔。人間の臭みに染まった、人間的な汚点のない笑顔。…臭気のない悪臭、…とでもいうべき?いずれにしても、フエはその微笑みに答えて、彼に微笑んで遣るしかない。…ねぇ?
と、ハオは言う。「…ねぇ。もう、」と、「寝た?」フエには、彼が何を言ったのかは分からない。それは、彼女に理解できる限度を超えた異国語だったから、そして、その、ハオが案じたに違いないジウは、いまだに、睡眠に堕ちる寸前、あるいは、覚醒にふみとどまっているその、危うい境界線をしずかに彷徨っている、そんなことなどフエはとっくに気付いていた。
フエは首を振った。…いいえ。
と。
まだよ。…その、仕草が眼に触れる前に、ハオは、ジウが単に寝た振りをしていることには気付いていた。ハオは、声を立てて笑った。自分の喉の奥にだけ。
不意にハオが言った。…元気だった?
フエに。ささやくように、そして、そう言っておいて、そんな言葉などすでに忘れて仕舞ったかのような、不意に自分に見惚れたハオにフエは戸惑う。
0コメント