小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑬ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
足の先に、影と日光との境界線があざやかに、そして庭の地面、あるいは庭に並べらたさまざまなもの、そまつな赤いプラスティックの椅子、テーブル、野ざらしのバケツに、なぜか積み重ねらた建築資材。それらに堕ちた樹木の葉の翳は、その鮮明な形態を葉きざむことなくただ霞むしかない。まぶしい。
私は瞬いて、不意に振り向いた女は身を起こしたまま呆然と、眼に涙をためていた。…いけない。
花嫁はいつでも
それは違うわ。
口付けされなければならない
と、女の眼差しがあきらかに
たとえ頭上でナパーム弾が炸裂したときでも
私を否定する。何を否定しているのか、私にはわからない。女の眼が涙をこぼした瞬間に、私はそこを立ち去った。嘘をつくな、と。
泣かないで
そう想って。あなたは、…と。
いとしい人。でないとあなたの
悲しくもなんともないんだろう?
お化粧がはげますよ
そう想って。
いま、本当の涙を切なく、報われようもない想いに歎き、救いようもなくただ悲しみながら、悲しくもなんともないんだろう?
そう想い、私には不意に微笑んで、涙した女を振り返り見る。バイクにまたがり、エンジンをかけながら。涙はどうしようもなく、滑稽なほどに切実だった。女は涙だけ流しながら、私を見つめる。垣間見える樹木の陰に、肌を曝しつづけて。記憶が在る。
鮮明に。そのとき、そんな風に見えるのか、と。
私はそう想っただけだった。日空の一面、その遠い麓のほうが紫色がかった紅に染まったときに。LINEのメッセージは見ない。彼らは忙しい。私に頻繁にメッセージをよこし、そして時には画像つきで、私に彼らの《革命自覚行動》の顛末を、送ってよこし、その、それぞれの成功および不成功、詳細、死者数概算、首尾および不首尾、造反者粛清の顛末、かならずしも、と、想う。私はそれらにかならずしも興味が在るわけではない。
タオは私に媚びて、日本語の学習アプリの問題を解いた。《やまださん( )ごはんをたべます》答えは《は》だ。
誰もいなくなったふたつめの居間のソファに、後ろから抱きしめた私に身を預けて、彼女ならとっくに知っているはずの問題を、口に出して私に媚ながら解いていき、その、開け放たれたシャッターの向こうに垣間見えるのは空の色彩。麓を紅に染めた、それら、その色彩が空の中天に見え、つつまれている人々にとっては破滅の、容赦ない最期の色彩に他ならないもの。
私は卑怯者だと、自分で不意に自分を卑下さえしてみせながら私はふと、鼻に笑って仕舞うのだが、そのこぼれた笑みはタオに、自分に向けられたものだと想われたに違いない。やさしく、いつくしんで、自分だけに向けられたかすかな心の揺らめき。…え?
…悲しいの
どうしましたか?
あなたに見つめられると
そんな、眼差しに振り返ったタオは、そして匂う。その、幼い少女の体臭、あからさまに、自分は庇護されるべきか弱い存在であることを主張してやまない、恐ろしいほどに拘束的で、強制的で、高圧的でさえある儚い匂い。…ねぇ。
あなたは鳥
あなたは私を愛し、可愛がり、
わたしを自由にしてくれるの
いつくしまなければならない。知っている。彼女はその私に預けきった背中に、いっぱいに母のそれに近い柔らかな触感に倦み、私の肉体が彼女に与える懐かしい触感に埋もれる。いつか、それに抱きしめられ、そしていつかだきしめられなくなった触感。母なる触感。やわらかな乳房の、人間たちが結局は記憶しなければならず、執拗な憧憬を獲なければならないところの、その、肉体の息吹き。
そうなるほかない。乳房が授乳し、乳児の口がそれに口を触れるようになっている以上は。
私はタオの額をなぜてやり、その、かすかに汗ばんだ触感を感じるのだが、私は知っている。これら、記憶。私はすでに知っていた。スマートホンが鳴動をやめない。LINEのメッセージ。彼らは忙しい。そして、私は彼らの忙しさに付き合ってやるほど暇ではない。タオを抱いてやった、暇をもてあそぶしかない時間を乱費しながら、そして、私が家に帰ったとき、フエはいなかった。
家の前にバイクを止めて、そして、ブーゲンビリアが匂う。花々が咲き乱れ、そのむらさきがかった紅に近い色彩。コンクリートの上にさえ散って乱れて、「ひさしぶり。」
奥から、声をかけたのはハオだった。
ハオはふたつめの居間に、ソファの上に身を横たえて、まるでそこが自分の住居だったかのように、そんな、くつろいだハオに私は声を立てて笑った。部屋の中にはハオしかいない。
「…来てたの?」
言った私に、ハオはむしろ、笑い返しはしない。サンダルを脱いで、入ってくる私の、ヘルメットをぶら下げた右手の方に視線を投げ捨てて、「…あの、もう一人のほうは?」
「出かけたよ。」…そう、と、口の中だけで言った私を、ようやく見上げた眼差しには明らかに、今の環境それ自体に飽きた気配があった。「奥さんと。…でしょ?あれ。」
「…フエ。」
「そう、知ってる。…フエ、…ね。ベトナム人。親父さん殺した人。」ハオは、声を立てて笑った。
「よくわかったね」…なにが?と、ハオは、問いかけた私に一瞬の間を置いて、え?と、その一瞬になにかに戸惑った気配を眼差しにだけ曝していたが、「なにが?」言ったハオは、ただ、こぼれるような笑顔、と、そう読んでやるしかない綺麗な笑い顔をその表情に無邪気に曝す。「…ここが。」
「ここ?」
「家。」ハオは、声を立てて笑った。おかしくて堪えられないように、そして、私は彼の笑い声が納まるのを待つ。
時間はかからない。
ほんの数秒、数えるまでもないその数秒を、私は笑う彼の身体を眺めることに費やして、…ねぇ。
やがて、ハオは、言った。「なんで、…ね?」いまだに笑いやみもしないままに、「なんでハナちゃん、そんなににやついてるの?」聴く。私は、邪気もなく彼自身の笑い声に震えて、乱れて仕舞うしかない彼の声のみだらな気配に。
眼にふれ獲るものすべてを軽く見下し、軽蔑をだけ端整に整えて与えたような、その。ハオは、いまだに美しい。
もとから端整な顔立ちの男だった。日本生まれ日本育ちの中国人。戦争のときに、日本軍に協力し、媚を売って海を渡ったある中国人の孫だった。彼の祖父は、その意味では売国奴だったといっていい。彼は積極的に、旧大日本帝国の大陸侵攻に協力したのだから。中国人など何億人死のうが知ったことではなく、ときに彼は海の向こうの同胞の苦難を想って悔し涙を流した。彼は日本で就労していた貧しい中国人の女に眼をつけた。当時の中国人が愛してやまなかった、小造りで、華奢というよりはぽっちゃりした、いかにも少女じみて可愛らしげなその、日本人たちからの容赦のない差別に逢っていた少女にとっては、彼は売国奴どころか、白馬に乗った脚長伯父さんにサンタクロースの装束を着せて蓮の花の上に座らせたような存在に見えたに違いない。
ハオの母親も日本在住の中国人だったから、静華の母親だったあの年増女と付き合っていたハオは、家系の中ではじめて日本人と縁故を結んだ男だということになる。…いずれにしても、と。
「…ひさしぶり。」言って、すぐさまハオは、…違うか。
「違うな。…てか」…ね?「そんな、」…ね?「久しぶりでもない。」…じゃない?「かならずしも、…」…さ。…と。笑った。
ハオは不意に笑って、「でも、ま、久しぶり、と、」…ね?「少々月並みでもそう言っとこようよ」…あの子は?
ハオはつぶやく。唐突に顰められた声に、かすかな、「あの、…」歎くような色彩が「…なんだっけ?」あったが、それを「あの女、…かわいそうな子。」ハオは、私に「あの子の娘」気付かれたそぶりは「両眼ない女の娘。」あくまで見せない。…元気だよ。
と、私は言った。…心配ない。
「元気だから。…ね?」あの子なりに、…「ね?」知ってる。
ハオが、息をひそめさえして、私の声を聴いていることを、私は知っていた。その眼差しに、かすかな潤いをいつでも含ませたそのままに、私を見つめるとなく視線を外して、そらし、床のどこかに投げ棄て、その眼差しは緑色の御影石の大振りなタイルの、その表面に映った物の白濁して映えるかすんだ影を見出していたに違いない。
「何歳になった?」
「十一歳。」…そう。…と、言って、想いあぐねてハオは息をついた。…あ。
ハオが、言った。「想い出した。」…え?
と、つぶやく私の唇が、「ん?」ハオに、「なに?」見つめられ、「どうしたの?」その、ハオの戸惑いを曝す言葉の群れを聞いた。「なに?」
「なんだよ。」
私は微笑んでいた。そして、ふるえる。「だから、…」堪えている「なんだって」噴き出して仕舞いそうな「言えよ。」その笑いに。
「…なにを?」
「見た夢の話。」私の声を聴くハオのまなざしには、明らかな戸惑いが、ほとんど少女じみて浮んでいたが、あ。…と。
「ああ…」ハオの口が、ゆっくりと、同意とも、納得ともつかない声を立てる、そのものしずかな佇まいは、私にはなぜか心地いい。「想い出したんだろ?」
…そう。
「夢。」
そう、何だよ、…「ね?」
ハオは、一度、短く声を立てて笑った。
「…しょうど。」…え?
「しょうど。」
なに?
「だから、…」
ん?
「焦土。」…ね?「焼け野原、…みたいな?廃墟、…的な?」てか、…さ。「焦土。」分かるでしょ。「ビルの上に立って、」…さ。で、…「待ってた。」さ。…ね?「彼氏を。」…って「恋人を、…ね?」んー…「分かるでしょ?俺は」ほら、…さ。「二十歳くらいなんだけど。でも、」ね?「さ、」…じゃん。「…好きなわけよ。男の子なんだけどね。…俺。」ね?…「でも、」んー…。「ま、」…うん。「こんな破滅しちゃった世界の中で、いまさら同性愛って言うのもね、生産性ないねって」ほら、…「笑うしかないんだけどさ。」まじ。「…生ませないと」ね?…「滅んじゃうでしょ。」…じゃん。「もっとも、」てかさ…でも、…「生き残れもしないけどね。」じゃない?どいせ、…「生態系、」どうせ、ね?「完全に」結局は、さ。「変貌しちゃえばさ、」結局はだよ。「旧態依然とした人類に生き残るすべなんかないですよ。」…だったら。「もちろん。」だったらさ。…「てか、」だったら、…「そんな事はどうでもいいんだけど。」ね?「来ないわけ。」…それ。「彼氏が。」来ないの。…「待っても」ね?「待ってもさ。」ね。「で、」ね?「気付くわけよ。」もう…「もう」…さ。もう、「駄目なんだなって。下の暴動みたいなの、廃墟のビルのさ。上の上までは聴こえてこないしさ。だから、ま、そんなもんかなって。」もう、…「いや。」だって、…「もっと、」もう、「痛切なんだと。」…もう。「わかる?」まじで。「つーせつ、なの。」まじまじ。「どうしようもなくさ。俺が」もう、…「言うと、」もう、さ。「むしろ」ね?「おちゃらけてるけどね。ほら。だって、」…ね?「そういう、…ナイーブなキャラだから。俺。ナイーブなやつって、おちゃらけてる見えるわけ。みかけ、」…ね?「じゃん?」だから、…「てか、切実に、…哀切に、…悲しいわけ。空見上げて、真っ白な差。真っ白くないけど。黒ずんでるんだけど。で、見あげるしかないよね。空でも。…で」
「飛び降りるんだろ。」
「…それ。」ハオはそう言って、いきなり、おかしくて仕方ないように笑い始めて、「飛ぶの。…想う。…」…飛びながら、「…ね?」
「空が、…」
「…そう。」
「今」
「空が、…そう。」
「堕ちてくるって…」
「そう、」
「想ったの?」言った私を、ハオはしずかに、物言わない眼差しに見つめるのだが、彼が、なにかの想いを秘めているわけでもないことなど知っている。
彼は、何も想ってなどいない。ただ、私を見つめていた。「綺麗だね。」不意に、ハオが言った。
「誰?」
「奥さん…」言って、そして、言い淀み、「じゃ、ないか。」…と、独り語散てみせながら、「…ま、見れない程度じゃない。」笑う。「…愛してる?」
ハオは言った。…なんで?と、聴きなおす私には答えをくれずに、「愛してるの?」
「愛って、…」言った私の言葉を、「愛って、…でも。」聴く。ただ、眼差しを私からそらし続けたままに。
私はハオの横向きの顔を見つめた。ソファに身を投げ出したまま、むしろ縋るようにソファに顔をうずめさえして、「…ね?」その仕草さのひとつひとつに、かすかな少女じみた気配がにおい、「どう想う?」
「なにを?」
「《世界同時革命活動》。」…なんだよ、それ、と、笑いながら言う私にハオは、唐突に身を起こして言った。「ベトナムに来たのはほかでもない。そのためなんだけど。…いや。ここが活動拠点ってわけじゃない。拠点なんてないけどね。ネットでつなぐじゃん。全部。…ま、あくまで、世界同時に、世界のさまざまなところで、世界のみなさんに革命をお届け、…ってことだから。とは言え、ジウと俺のいるところが拠点だとは言える。俺とジウが首謀者だからね。いや。首謀者は存在しない。我々はそれぞれに自律していて、それぞれに人類に新たなステージを、…いや、地球そのものをね、新たなステージに追い込んで行こうとね、してるんだから。…ってね。いずれにしても。《軍隊》の準備は整った。人類を、…既存人類を、さ。決定的に壊滅させて種を断絶させて、さ。新しい再生のステージに追い込んでいく、…ね?手段としては核兵器を片っ端から吹っ飛ばす。あとは、そのための同時多発クーデターを各国で発生させなきゃならないから。だから、その時間的な帳尻だけは俺が合わせないと。《軍隊》たちに、…《革命軍》たちにね。だから、今、彼らは待機してる。…決まってるんだけどね。もう、日付なんか。彼らだってもう知ってる。自分がいつまで待機すればいいか。ジウから、教えてあるから。…その日、俺が各《軍隊》にメッセージを流す。…」
「どんな?」
「決まってる。…Free at last !」
「…いつ?」
「6月20日。…いいだろ?」
「なぜ?」ハオは、声を立てて笑った。…ばか。
「ばか?…ハナちゃんって、バカになった?」
「なんで、6月20日にそのクーデターで人類が滅ばなきゃ鳴らないんだよ。」
「く姫の誕生日だからだよ。」やさしい眼差しのハオを、私は見つめ、ハオは、壁に背をもたれて、そして、…ばかばかしい。
言った。…ね?と、つぶやくように、「じゃない?」…知ってるでしょ?「ハナちゃんも、…」さ。…「ね?」
「何を?」…どれだけ、と。
「どれだけ…」そう、ハオがささやく。もはや、目に映るすべてが「ね?どれだけ俺が、…」彼を絶望させるのだと、ただ「愛してるか。」歎き果てて。
「く姫を。」
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