小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑫ブログ版







charon, eris, pluto

カローン、エリス、冥王星

…破壊するもの




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ


Χάρων

ザグレウス









ヴーの葬儀の朝、葬列の車の群れが立て去っていくのを見送って仕舞ったあと、私が振り向くと背後、少し離れた日陰に、フエは微笑んでいた。家屋の入り口の開け放たれたシャッターのそばに、ただ、立って。葬列ではなくて、むしろ私を見送っていたかのように。

マイが、奥の壁際に座り込んだまま、傍らに立ったタオがただ、自分の母のために、歎きの眼差しをくれてやっていた。タオの歎いているものがヴーの不在に対してなのか、あるいは眼を伏せて、胡坐を組んだ自分の足元に視線を投げ棄てているに過ぎないマイに対してなのか、私にはわからない。本人にさえ定かではないものを、認識することなどできはしない。

祭壇の先、並べられたテーブルの群れの真ん中、前面道路の近くの差し込んだ日差しにその下半身を差されながら、チャンは立ちつくしていた。向こう、立て去って言った葬列の車両のほうを未だに向かされ続けたままに。…もう、と。

終りました

もう、

ぜんぶ、…

いいよ。

なにもかも、全部

もう、

綺麗さっぱり

終ったから。

無残なほどに

そう誰かが言ってやらなければ、あるいは無理やりその姿勢を崩してやらなければ、彼女はずっとそのままでいるに違いない。やがては西から差す光の中に埋没してもなお。彼女が、不意に何かを想い出して、あるいは何かを感じ取って、あの、獣じみた太い叫び声でもあげ始めない限りは。

暑苦しく見苦しい魂の叫び

チャンは、何も見えはしないくせに、正面を向けた顔にその、少しはなれた距離のなかに疾走し、いまや失われた眼の前を通りずぎるバイクの、車両の、無数の騒音を見つめていたのだろうか。チャンを、彼女の部屋に連れて行って遣らなければならなかった。

フエが私に寄り添って、私の肩に頬を預けた。マイはうつむいたまま、顔を上げない。タオは歎く。タオの時間は、マイが顔を上げて、何かをしでかし始めるか、あるいはそのまま寝入って仕舞うのを確認でもしないかぎり、ふたたび動き出すことは無い。それとも、彼女を振り向かせていきなりひっぱたいてやるのか。私はチャンに近づいて、それを、フエの眼差しが追っていることには気付いている。その微笑を崩そうともしないで。

背後、すれすれに近づいた瞬間、私はチャンが小さく、歯軋りの音を立て続けていたことに気付いた。

私はチャンを腕に抱いた。チャンは抗わなかった。脱力されたわけでもない、細かな筋肉に硬直を、ときに痙攣さえさせていたチャンの腕が、そのまま下方に垂れ下がる。体臭がする。

強烈な媚薬に芳香のきつい花の匂いを混ぜて、腐った肉をなすりつけたような、そんな匂いがした。もう、女でさえないくせに。それどころか、まとも人間でさえないくせに。チャンは、と、想う。私は、彼女は未だに死んではいない、と、

無様で穢らしい魂の咆哮

想った。

しずかにしてください

私は、彼女は、…滅びて?

彼女がなにか言おうとしてます

と。…破滅して?…あるいは、と、

口のない綺麗な女の子が

想う。…救済されて?…狂気に。すでに彼女が恍惚として救済されたことなど在り獲ない、と、私に確信させていた。その体臭と、彼女の肉体が腕に伝える小刻みで、不規則な痙攣が。

彼女は、あまりにも鮮明に此岸に生きていた。彼女は未だにどこにもいってはいない。ここにいて、ひとりで、目覚め続けている。

おはよう

チャンの

この残酷な世界

歯軋りの音が耳元に止まない。遺書らしきものなど

こんにちは

何もなかった、と、フエが

この無慈悲な世界

言った。書置きも、前兆も。チャンが

こんばんは

自分の眼を抉り出したときには。その、

この絶望そのものとして世界

狂気、…専門家がその気になったらなんらかの精神疾患に

輝きなさい

カテゴライズできるのかもしれないが、専門医に

望むがままに

診察されたわけでもなければ結局は、

どうぞ

狂気と

わたしには

呼んで仕舞うしかないもの、それに

ご遠慮なく

陥り始めたことの兆候も、なにも、すべてが、と、

あなたのお好きなだけ

フエは言った。唐突で、突然に、…ね?

お好きなように

みんな、びっくりしたのよ。

あなたは美しい

微笑みながら、初めてチャンを紹介したとき、私に耳打ちした。…なぜ?

すくなくとも

どうして、この人はこんなことをして仕舞ったんですか?

わたしにとっては

いいえ。

あなたがいま、その牙に

わかりません。

咬み切り引き裂いて仕舞おうとするわたしは

そうですか。

つぶやいた

腕に、無防備なチャンの体重が容赦なくかかる。フエが

あなたは美しい

私をチャンの部屋に先導した。…ね!

あなたはわたしを生かすために存在しなかった

駄目よ。そこ、

わたしがあなたの承認もなく自分勝手に生まれた

気をつけなさい、と、

ノイズにすぎなかったから。あなたはそして

さまざまな無意味な注意と指示を

知っていた

私に

ただ

くれながら。彼女は

あなたはむしろわたしを生み出すためだけに存在したのだった

その自分の指示に、あるいは

知っていた

私とチャンを案じる自分自身に戯れて、

あなたを生み出したのはわたしだった

そしてフエが息づかう。私の目の前に、

おはよう

踊るように戯れ、なんども

この残酷な世界

振り返り、あてどなく

あなたがこの身を咬み切ったとき

身を彷徨わせ、

わたしは

想いあぐね、

ついに

階段に息を乱し、…あ。

あなたを咀嚼するのだった

危ないわ。つぶやき、微笑み、眉をしかめて、影が覆う。その、家屋の日陰に曝された淡い翳りに彼女自身の褐色の肌、そして、その顔の複雑な隆起と陥没を。不意に、その隆起と陥没は、人間の以外にはおそろしくグロテスクで、意味不明で、いびつな形態に他ならないことに、眼差しの触感として気付いた。何度目かに。匂う。

至近距離のチャンの匂い。眼の前で、媚びる意識もなく鮮明に、いわば妻の、妻らしい美しい女のあるべき媚びを、…すくなくとも、彼女が意識する以前にそう認識しているに違いないものを、あざやかに空間に散らすフエと比べても、明らかにチャンの体臭は女じみて扇情的で、その肉体はあからさまに女に肉体だった。…ごらん、と。

わたしは翼

発情して御覧なさいよ。

あなたの翼

そう、耳元でつぶやかれたような。その、…ね?

空の彼方まで

哺乳類の宿命に従いなさいよ。

舞い上がらせる

耳もとに、

あなたの翼

女に発情するしかない家畜でしょ?

苦痛と恥辱の

声を立てて

あなただけの翼

笑われた気がした。

三階の仏間の隅に据え置かれたチャンのベッドのシーツの乱れをフエは直し、手のひらで叩いてならして、…ん。

ね。

あ、…あー

んん…。

じゃ、…いいわ。

ん。…あ

ほら。…と、私は彼女の眼差しに命じられるままにチャンをベッドに横たえた。腕が彼女の背から抜取られた瞬間に、チャンはいきなり口を開けた。叫び声を聴いた気がした。なにも聴こえなかった。

チャンはただ、口を開いただけだった。

その、喉まで見えるほど開かれた口が、私の眼差しに色彩を曝す。赤い、と、無造作にそう言ってやる以外には無い結局は複雑な色彩。

白い歯は、無数に穢く黄ばんでいた。それが、無残に思わせた。

私は想いだす。

喫茶店の庭に、樹木が茂る。狭くはない庭の規模に比べて、明らかに住居の狭さは以上だった。部屋はない。シャワールームが仕切られていて、そしてその傍らの奥になんでもかんでもぶち込まれた小さなキッチンスペース。人一人ブンのスペースしかなく、家電製品からダンボールの箱まで。ささいな火災の名残りであるかのようにすすけた吊り下げられたタオルが干からびて、色あせている。遣われていないはずのそれがなぜそこに吊り下げられていなければならないのか、その理由は分からない。水周りとして一緒くたにされたということなのだろう。淀んだ排水の匂いがそこに停滞していて、薄暗く、いかにも薄穢い。ひつだけの居住空間は20平米程度しかなくて、その殆どをベッドが占有する。あるいは、と想う。庭は、この家屋の敷地ではなくて、隣や前面のだれかの放置された敷地だ、と言うことなのかもしれない。誰も使ってはいなく、そして、店を出すには丁度いいからそこに店を出したのだ、と。

樹木に囲まれたその家屋は、私の眼には捨て置かれた物置にしか見えず、そして樹木の陰に覆われ、翳り、人目には隠されその翳りに埋没して仕舞っていた。自分に背を向けて服を着始める私に、女がその伸ばした手でふれた。…ねぇ。

まだよ。

と、振り返った私がいまだに、ベッドに横たわったままの女の眼差しに見い出す言葉。

…ね?

なじるわけでも、責めるわけでもなく女は、ただやさしい微笑のうちに私を非難する。…だめ。

あなたのしようとしていることは間違っている。股を広げて、仰向けの、身体を日陰に曝して体の形態、その白い肌の隆起に影の淡い色彩がなぞるように這う。私はそれを見つめる。女は瞬いて、愛されたことに充足しきったた表情を曝し、とともに、私に…まだ、と、…まだよ。

…でしょ?

じゃない?

訴えかけた。…行かないで、と、その言葉にまではいたらない、淡い要求。結婚式以来、女の夫を見かけたことは無い。サイゴンかどこかに出稼ぎにでもいっているのか、あるいは、そもそも日中に家によりつくほど暇までは無いのか。女も、自分の夫が帰ってくるようなそぶりはいつも見せない。夫がいたところで、女が、私に投げかける眼差しは変わりはしないはずだった。夫の傍らに寄り添ってたたずみ、そして私を見つめる。言う。…すき。

その眼差しだけが、鮮明に。

女が唇を舐めた。その意味は分からなかった。甘えるように私に両手を差し伸べた。私は女を見つめていた。立ったまま、そして、自分を抱きしめようとしない男を彼女は見つめ続け、…好きよ。

差し伸べられた手は空間に放置されたまま何もつかまない。女の眼差しが翳った。その眼差しが、私が彼女を拒否したことを気付かせた。彼女は私に拒否され、辱められていた。私は立ち去ろうとした。背を向けて、二三歩、そしてその家屋の先、庭に注ぐ日光が足元に触れた。

足の先に、影と日光との境界線があざやかに、そして庭の地面、あるいは庭に並べらたさまざまなもの、そまつな赤いプラスティックの椅子、テーブル、野ざらしのバケツに、なぜか積み重ねらた建築資材。それらに堕ちた樹木の葉の翳は、その鮮明な形態を葉きざむことなくただ霞むしかない。まぶしい。

私は瞬いて、不意に振り向いた女は身を起こしたまま呆然と、眼に涙をためていた。…いけない。

花嫁はいつでも

それは違うわ。

口付けされなければならない

と、女の眼差しがあきらかに

たとえ頭上でナパーム弾が炸裂したときでも

私を否定する。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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