小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑪ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
女はなおも話やめようとはせずに、勘だけはいい私のかすかな微笑と、かすかな相槌のようなものに、だから女は自分がちゃんと私と会話をしているものだと思い込んだに違いない。あるいは、その錯覚を意図的に受け入れたのだった。自分で、ときにその自分の行為の無意味さを意識のどこかで嘲笑ってみせしながら。女は不意に声を立てて笑い、求めていた。
私を。明らかに、女は。その、体をも含めて私を求めているのだが、彼女は別に体が欲しいわけではなかった。心のすべて、…あるいは、要するに魂の所有権を求めているのだが、とはいえ魂などに興味は無い。騒ぎ立つ言葉や、仕草や、ふれあいや、それらの戯れあう時間そのもののうちに生起するさまざまなふたりの息吹きを求めているのであって、私の魂などどうでもいい。そして、私でなければならない。私がどんな人間であっても、もはや最終的には構わない。私の容姿がすべてではなく、私の容姿の衰えは彼女を歎かせる。女は、結局は彼女が私を求めていることを知りながら、そして、自分が何を求めているのか、ついに知り獲ないままだった。
いずれにせよ、私と同じように。私は女の髪の毛をなぜた。…ね?
堕ちる
欲しいんでしょ。
不意に、失心に堕ちる
眼差しが、つぶやく。あなたは
そんな瞬間があった
わたしを欲しくてたまらないはずよ。だって、…
あなたを
と、
見つめる
欲しいんだから。
そのときには
瞬きもせずに。女は声を立てて笑った。名前は?
Em tên gì ?
言いかけた私の言葉を私はすぐさま飲み込んで、何も言わない。女の名前を知りたくなかったわけではない。私の手のひらは女の頬にふれて、そして私は彼女を引き寄せると、彼女に口付ける。私は彼女がそれを求めていることを知っていた。彼女は私がそれを求めているのだと知っていた。それが、お互いに事実だったかどうかは問題ではない。いずれにせよ、唇と唇とは触れ合っていた。舌を、絡めあいながら。
ほんの少し向こう、開け放たれたままのドアは日差しを斜めに投げて、みすぼらしい、とか。荒れた、とか、貧しげな、とか。そんなよく似た、とはいえそれぞれにニュアンスを異ならせた言葉の群れのを眼差しの中に散乱させ、想いついたように、女の鼻に笑いかけた途中やめの息が乱れた。女は何か言った。私に教え諭すように。その唇を、殆ど離しさえしない至近距離に、女の息がふれ、私はその触感をだけ感じた。もはや、吐かれた言葉をではなくて。女の眼差しは私を見つめ、とはいえ女の眼差しの中に、近づきすぎた私などたぶんぼやけた残像にすぎない。私の眼差しの中の彼女と同じように。
女は知っているに違いない。ただでさえいつもの決まった客がいつもの決まった時間にしかないこんな場末の喫茶店に、だれもが昼寝するこんな正午に客など来るはずがないことを。女は私のTシャツを脱がすと、私の腹部に唇をつけ、その匂いを嗅いだ。女の髪の毛が匂い立って、かすかに交じった女の汗の、そしてその色彩。
見る
あんな色彩がするということを私は始めて知った。まだ人々が
匂いを嗅ぐように
生きていた時期に。その、最期の時期の始まり。
見る
想い出す。私の見出すその
指先にふれるように
風景。
見る
そのとき、
舌のさきにまさぐるように
空は一気に赤く、紫色がかって感じられ、そこでは
私は嗅覚で見つめた
爆風の温度が感じられたに違いない。
指先は、指先が
タオは想いあぐねたように、その風景を、ふたつめの
ふれた彼女の肌の
居間のブラン菅テレビに見つめていた。
色彩にむせた
私は知っていた。もうすぐ、
私は
人々の構築した世界は
むしろ発情した巨大な感覚器官の醗酵体だった
崩壊するということを。中国、北朝鮮、インド、それらの核保有国に仕掛けた《革命軍》たちのクーデターが、人々の息の根を止めようとする。
命を散らしたに違いない無数の《革命軍》の顔見知りたちを一瞬懐かしく想いながら、かならずしも彼らへの共感などあるわけではない。
広島と長崎にふたたび落とされた核兵器の閃光を、《軍隊》のカメラから捉えた映像はインターネットにアップされて、
感覚器は常なる叫喚のなかに炸裂している
さまざまな
それが制御された常識的な感覚として捉えられている日常にこそ
人々の
深刻な狂気がある
目に触れる。
人々はもはや黙って見ているしかない。報復がインドの《軍隊》に向け始まろうとしたとき、北朝鮮の核兵器が自国の上空で自爆した。中国の《軍隊》の発射したミサイルが、パリとローマを焼いた。…本当に、と。
本当に、こんなことが起って仕舞うのか、と。いまさらのように自分が仕掛けたことの荒唐無稽さを笑った。あまりにもた易い。滅ぼし、破壊して仕舞うことは。
為すすべもなく、結局は世界が終って仕舞うことを人々はうけいれなければならないときに、アメリカは私たちを、…《革命軍》たちを報復しようとした。
その軍隊を、一体どこに差し向ければいいのか戸惑いながら。私たちに、国籍などなかったから。
私は嘲笑った。私の破壊を止められるものなどどこにもいなく、そして、人々は不意に咬みつかれた牙に無力だった。
自衛隊の戦闘機を使った特攻を、《軍隊》は仕掛けた。ニューヨークに。あるいはワシントンに。追撃されたところで構わない。打ち落されたところで、それが彼らの目的だったのだから。核兵器など、それがどこであっても爆発さえすればそれでよい。美しく死ね、と私は彼らに言った。最期の、インターネット上の会合のときに。
彼らは、留保もない共感をくれた。
ベトナムからは、その、広島の、あるいは長崎、ローマ、パリ、ピョンヤンの世界の終わりの光を肉眼に見る事はで着なかった。タオが一日中見つめていた報道の映像に、あるいはインターネットにながされた画像に、人々の文明の最期のきらめきを見る気がした。人類は、こうして世界中を映像につないで仕舞えるくらいの技術を獲得したのだった。
人類の進化。たとえば、地球の現在の生態を太陽のバーストや、小惑星の衝突や、どこかの恒星の超新星爆発によらない自力で、ほんの一瞬の閃光で破壊しつくして仕舞うほどに。…光。
神々の光。
今度の大量絶滅からの恢復はどれだけかかるのだろう。光。神々の、救済の。
カンブリア紀のそれ、白亜紀のそれと同じくらいに?
光。…それら。
あるいはもっと長く?
それらは炸裂する核弾頭の分子構造の内部にすら、ふれていた。…神々。
いずれにしても、
救われました
私は、
あなたは
なしえる最大の破壊を実現しようとした。そして、
わたしは
この眼に
いま
見出そうとしたのだが、そして、その滅び行く瞬間の
あなたを救います
光景を肉眼に見い出すことは出来ない。
滅びを見出すためいは、その滅びのさなか自体から回避していなければならない。生き残っていなければならない。滅びのさなかには、滅びを見い出し獲る余地すらもがない。
私は、その、私が望み、仕掛けた最期の風景を見る事はなかった。肉眼においては。そして、私は知っていたのだった。
私がいま、体験している時間の中の事実の群れ、それらのすべて、タオのすこし傾けた首筋、垣間見える庭のブーゲンビリア、白濁した不穏な空の翳り、翳った光、淡い、樹木の翳、それら、すべてこそが、滅びを刻印された映像に他ならないことを。あるいは、ふたたび堕ち込んだ地球のハデス紀、冥府の王の時代とかつて人々が呼んだ時代の再来の始まりのとき。とはいえ、その時期を生き延びはしない私の眼差しにとっては、あくまでも見い出しえるのは滅びの最期の姿の明確な映像にすぎない。やがて獲得された異なる眼差しは、私の見い出す風景ではない。たとえ、すでにその風景をさえ知ってはいたとしても。
蘇る
記憶の中に。
魂は永遠に
光が
なんどでも
ふれる。
不滅を生きる
相変わらずに光にふれつづけながら、私はふれられる。じかに、その、光の氾濫。神々の。
わたしは願った
救済の神々の光に触れ、さようなら、と。
あなたが不滅であることを
ふと、想う。タオを抱き寄せ、その、…え?
死の床に
と。
横たわるあなたの
なんですか?
意識のない半開きの乾ききった唇に
戸惑った眼差しに、
なんでっか
さようなら。想う。初めて、私はその幼いタオを抱きしめて、口付けて遣りながら、
どしまっか
どうしましたか?
初めて彼女を抱く。眼差しの向こうにいまだに、あからさまに幼児じみた肌が見出され、滅ぼしたもの。
これこそが
私が
あなたの
滅ぼしたもの。
求めていたものよ
あるいは、私には何のかかわりもない数千万年後の生態系のために、その生成のきっかけを投げかけて遣ったもの。…なかった。…と。
さようなら
そう想った。私は。
ぼくが愛した
この、私たちの世界にさようならを言う瞬間も、
いとしい人に
ありはしなかった。自分で、完全に
最期の口付けを
破壊して仕舞いながら。…いずれにしても。
一度だけ
…さようなら、と。私はようやく、おくれてつぶやき、タオは戸惑う。不意の私の言葉に必死につじつまを合わせようとして、そして、その発熱を帯びた眼差しに、私はすでに知っている。彼女が時に、貞淑な抗いを曝そうとももはや彼女はすでに私を愛していた。
ふたたび。転生のときの中に。
体を離そうとした私を、女は離さなかった。ベッドの上、跳ね除けられた女のそれと、その夫のそれらしい寝巻きが女の頭の上方にまるまって、そして彼女は声を立てずに笑う。
その眼差しだけで。
素肌を曝した女の肌の温度が私の皮膚にじかにふれ、途中で中断されたに過ぎない行為…ね?
知ってる
まだでしょ?
わたし
ドアの向こう、
知ってるよ
喫茶店の、堕ちた日差しにきらめきだてられた庭が眼にふれた。…まだ、…と。
終っちゃった?
終ってないでしょう?
初めてなの?
女のまなざしはつぶやいて、私が身を離し、立ち上がるのに今度はもう、
馴れてない?
抗いはしない。…わかる。
知ってる
と。わかるわよ。
わたし
微笑み、彼女は
知ってる
…ね?
好きすぎるの?
私を、そっと、ただ
わたしを
疲れてるのね?
ただ愛しすぎて仕舞っただけ
いつくしむようなまなざしに、見つめた。
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