小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑩ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
いつだって、と、私は想う。私は、…と。マネをしただけだ、と、そう私は、唇を奪う、あるいは、と、体を奪う、無理やり、私自身の欲望に狩られて、と、そう想った。私は、彼女たち、私に群がった女たちが、それを、と、私に求めたその瞬間に、と、私は、与えただけだ、むしろ、と、彼女たちを奪う振りをして、あくまでも、と、私は、彼女たちの心の憩いと充足のために。フエは私の抱擁と、口付けの感覚に全身で溺れ、背後に、心惹かれる美しい男の眠りついた身体があるという事実の倒錯性に、おののき、むしろ憩う。見て。…と、眼を閉じ、何かを見出す可能性などわずかにさえありはしない男の前で、見て。
ほら
もっと。よく。眼を見開いて。
あなたが手にすべきもの
髪を撫でた。…あなたの、と。
あなたに与えられるべきだったそれ
愛している女が他の男に抱きしめられているのよ。
それはわたし
私の愛撫にフエは、
あなたはやがて
…今。
手にする
抗わない。長いキスの後で、外に出て行く私に、…どこ?
あなたに与えられる
どこへ行くの?
あなたのためだけのご褒美を
振り向き見たフエは、とは言えなにも恍惚を曝すわけでもない。ただ、
あなたがこの世に存在したのはただわたしのためただ
単に、
それだけのため
やさしい微笑みだけを浮かべてそのふたつめの今の、日陰の翳りのたたずんで、空間の真ん中に立って、
「喫茶店」
言った私に、フエは顔をしかめた。
…だめよ。
分かっていた。彼女が、
体に悪いわ。
何をいいたのか。…ね?
…わたしの大切な旦那様。私は彼女に手を振った。
フエの《浮気》に触発されて、というわけではなかった。事実、私だって似たようなものだった。あるいは、もっと。すくなくとも、フエはいまだジウに抱かれたわけではなかった。そして、私に嫉妬以前の喪失感と、憎しみとは言獲ないの嫌悪感が、じかに、ふれていた。想い出す。私が無数の男たちの許から、幾人もの女たちを歌舞伎町で奪って仕舞ったのは事実だった。客の中には、あたりまえだが、夫のいる女もいたし、私に媚を売ったキャバクラや、クラブの女たちは大量に、彼女たちに自分たちなりの理由と正当性をつけて庇護者として振る舞い、ようするに早い話がその所有権に焦がれていた客の男たちを抱えていたのだら。
町で男たちとすれ違うときの、彼らが私を見遣った眼差しを想い出した。彼らは私に嫉妬し、為すすべもなく赦し、そして、留保なく憎しみ、軽蔑し、隠されたどこかで憧れていた。社会のもっとも軽蔑的な底辺で、とはいえ彼らが求めているものをひとつだけ手にしてはいる赦し難い存在として。いずれにしても、フエに、そしてジウにさえ、鮮明な傷付いた嫌悪感を感じてはいたものの、それでもすでにすくなくともフエのことを赦していたのは、自分が傷付いてはいないことを、自分に証明しようとしていただけだったのだろうか。
あの喫茶店に行ったのは、むしろ、《盗賊たち》の顛末を確認したいから、それ以外に理由などなかった。私たちは、ほんの数時間前に、明らかに彼らを敵に回していたのだった。…たぶん。彼らがよっぽど忘れっぽいか、よっぽど陽気か、よっぽど違う価値観の中に、例えばトカゲのそれと金魚のそれくらいの差異の中にあるかでもしない限りは、彼らは私たちに何らかの報復をするはずだった。
それを畏れているわけでもなく、そして、あの喫茶店の女、《盗賊たち》に連なる女に、それゆえの、妙な懐かしさがあった。彼女に逢いたかった。かならずしも彼女に、ましてやその身体に焦がれたわけでもなくて。
何を話すというわけでもない。外国人馴れしてはいないはずの彼女と、発音の悪い片言のベトナム語で、あるいは英語で会話し獲る可能性など基本的なく、そして、私にはかならずしもその気もない。結局はふたたび、彼女を抱くのか、あるいは、あたりさわりもなく十数分間コーヒーを飲んで立ち去るのか、それ以外に為され獲ることはなかった。
背後にフエの、私を見つめ続けたままの視線を感じながら、家の外に出てバイクの踵を返したときに、細い前面道路の突き当たり、未だに復興のままならない焼け落ちたブロックの車道に一台のバイクが止まっていた。
それには見覚えがあった。鮮明に。
姉に瓜二つの女は、その一瞬まるで、喫茶店からあの女がここまで私を出迎えに来たかのような錯覚を与えた。…ね?
いらっしゃい
来るんでしょ?
好きなの?
女は焼け跡の横の更地の前にバイクを止めて、
欲しいの?
またがったまま
そんなに、…
見つめていた。その
わたしだけが
サングラス越しに
熱帯の日光は想った以上に乾燥して、かならずしもべたつかない
私を。表情は分からない。
皮膚は渇く
笑いかけていたのかもしれない。そんな
自分がかいた汗に濡れながらも
気配さえあり、そして、彼女の斜め上から差した正午の光に、街路樹の濃い影がその表情もなにも翳らせて仕舞って、私の眼差しはただ、彼女がそこにいることをしか認識しない。…なに?
見なさい
どうしたの?
あなたが見い出すべきものを
と、
あなたには
その、
眼というものが在るのだから
離れたところにたたずむ女に不意に、手を振って仕舞った私を、部屋の奥の翳からフエは訝って、…だれ?
雨の中の紫陽花はいつでも
なにしてるのよ。…
その美しささえもが儚すぎて
フエを振り向いた私は、
ただ単にむごたらしい
声を立てて笑って、バイクを発進させる。木陰の女は身動きもしない。接近するままに私の前にその姿を曝し、そして、ほんの数秒後、私は彼女の傍らを通り抜けてしまう。…ね?
引きちぎって仕舞え。そんな
と。…なにやってるの。
むごたらしい花々など
そんなところで。私が
容赦もなく
すれ違いざまに
その手に握りつぶせ
彼女に投げてやった眼差しの意味を、女は
その両眼に
サングラスの向こうに勘付いたのだろうか。あるいは、
いっぱいの
むしろ、
涙をためて仕舞いながら
私のことなど
…恥ずかしい家畜ども
実は見てもいなかったのだろうか。ただ、路面に並んだ茂った街路樹の色彩に、その眼差しを奪われただけであってはならない法律も、法則も、論理的な限界も一切、ありはしない。私に向けられたすべての眼差しが、私を見つめ、私を見出しているとは限らない。
笑ってるよ
女は、
ぼくは
確かに、
ここで
微笑みにいたる以前の、やわらかな、やさしげな
きみのために
口元を曝していた。そして、その頬と唇の曝したあるかないかの気配は、私にはなにも語りかけない。…好きよ。
月の裏側には月の裏側にあるべき風景しかない
と。喫茶店について、その前面道路にバイクを止めた私を見留めた瞬間に、嬌声を上げた女は眼差しに言った。その口に、
好き
…どうしたの?
あなたが
珍しいじゃない!
好き
そんな、早口の
やめて
…たてつづけに、あなたが
痛いの
ベトナム語を甲高く、
好きすぎて痛い
来るなんて。…ね?
壊れそう
媚を含んで
幸せすぎて。…で
ハンサムさん。
あんたは?
喚き散らしながら。私はヘルメットを脱いで、その、いつ見ても同じ代わり映えもしない色気づいた身体を粗いTシャツにつつんで、顔だけ少女じみたいたいけなさを作ってみせる女を見やり、彼女のために微笑んでやり、とはいえ、彼女は彼女なのだから、いつ見ても彼女が彼女である以外には、彼女にはいかるしようもない。
女に導かれるままに、私は女の住居の日陰に入り、そしてそこはかならずしも涼しいとは言獲ない。日陰であっても、日光の直射が遮られているというに過ぎないそこは、じかにふれる日光本来の温度を皮膚から奪っただけにすぎず、さまざまな温度をさまざまに籠らせていた。片隅に積み重ねられた女と、その夫の衣類の山の放った匂いさえ、温度を持っている気した。私に向けて、女が回し始めた扇風機が、それら、匂いと温度を一気に吹き飛ばし、あられもない風が私の体にふれた。
女は、壁際にひとつだけあった木製の足の短い椅子の上に、積まれてあった古い新聞の束をその傍ら、床に放り投げて、…ほら。
と。彼女は微笑む。
おかえりなさい
ここに、…ね?
あなたの
その
世界に
座りなさいよ。
あなただけの
私を振り向き見たまなざしが。女の唇が、盛んに私に話しかけた。…ねぇ。
この屈辱的な世界に
その
塗れなさい
好きなの?
あなたが
撒き散らされるベトナム語は、こんな
好きなだけ
わたしのこと、…
あなた固有の
直射日光の中に顕れた私を
くそつまらない屈辱に
わたしだけが。
お願いむしろ、いなくなって
いたわっていたには違いない。…ありがとう。
このまま、この世界から
来てくれ、ありがとう、と、その感謝をも
Cám ơn anh
口にしながら女は、…すき?
おかえりなさい
豊満すぎた体を震わせながらその
あなたが軽蔑した世界はいつでもあなたよりはマシだった
わたしが、
欲しいの?
体臭を撒き散らす。
したいの?
すき?そうつぶやく。女の眼差しが。口が何を言っているのかは、
そうなの?
正確には知らない。
それしか…
女に言われるがままに私は椅子に座るが、…ねぇ?
それしか能、ないの?
飲むの?
Uống cà phề không ?
コーヒー…
死んだほうがマシな能無し君
と、言う女は私の前にひざまづいて、その膝にもたれかかって、
何しに来たの?
飲むの?
…笑っちゃう
女に立ち上がる気配はない。女の体は私の足に押し付けられて、その、そこにあるのが女の身体の造型であることを隠そうとはしない分かり安すぎる女の肉体が息づくが、彼女にかならずしもその気があるわけでもないことには気付いている。
無意識の媚態に戯れる。
女はなおも話やめようとはせずに、勘だけはいい私のかすかな微笑と、かすかな相槌のようなものに、だから女は自分がちゃんと私と会話をしているものだと思い込んだに違いない。あるいは、その錯覚を意図的に受け入れたのだった。自分で、ときにその自分の行為の無意味さを意識のどこかで嘲笑ってみせしながら。女は不意に声を立てて笑い、求めていた。
私を。明らかに、女は。その、体をも含めて私を求めているのだが、彼女は別に体が欲しいわけではなかった。心のすべて、…あるいは、要するに魂の所有権を求めているのだが、とはいえ魂などに興味は無い。騒ぎ立つ言葉や、仕草や、ふれあいや、それらの戯れあう時間そのもののうちに生起するさまざまなふたりの息吹きを求めているのであって、私の魂などどうでもいい。そして、私でなければならない。私がどんな人間であっても、もはや最終的には構わない。私の容姿がすべてではなく、私の容姿の衰えは彼女を歎かせる。女は、結局は彼女が私を求めていることを知りながら、そして、自分が何を求めているのか、ついに知り獲ないままだった。
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