小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑨ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
すぐさま、私は彼の国籍など知りもせず、名乗った名前から言えば、妙な綽名でもないかぎり、彼が日本人ではないことなど当たり前だったことに気付く。日本で外国人が靴を脱がなかろうが、そんな事は慣習の違いに過ぎず、ベトナムでは靴を脱ぐとは言え日本ほど厳格ではなく、そして、彼にとってそのベトナムさえ外国なのだった。私は、私の頓狂な声を恥じた。
男は戸惑い、ややあって、微笑んだ。…あ。
すみません。「…ほんとに。」…申しわけないです。言って、あわてて日本流に靴を脱ぐジウから、私は眼をそらした。
ひっつめていた髪の毛を一度解き放して、首を振って空中に遊ばせ、空間に、髪の毛を好き放題に一瞬だけ乱れさせたフエは不意に、…ね?
Là ai ?
だれ?
じゃれぇっか?
と、ふたたび髪を束ねながら私を見た。血が流れた。
天井にへばりついたチャンの、口から流れ出す血が危うくフエの鼻先を掠めながら、そして私は瞬き、フエは微笑む。…ね?
教えてよ。
ねぇ
こぼれるような
ねぇねぇねぇ
いい加減。
んー…ねぇ
微笑み。若干の
…ね?
媚びをふくんだ。「…で、」
ね?
振り向きざまに言った私に、「何なんですか?」ジウは戸惑うしかない。
「何が、ですか?」
「結局、何をしに来たんですか?」ジウは私を見つめて、眼差しの中に私の言葉をまさぐって、「ぼくら…」そして、
「…ぼくら、ですか?」
彼は
ぶぉくらずぇすか
声を立てて笑った。「…知りませんよ。聴いていただけませんか?ハオさんに。」
突っ立ったままのジウを、フエがソファに座らせようと身振り手振りで対応したが、ジウはそれをむしろものめずらしげに見つめて、「…奥さん…ですか?」つぶやいた。
何も答えない私に気遣うふうもなく、…うん。
「可愛らしいですね」微笑むジウは、確かに、儚げなほどに綺麗な顔立ちをしていた。
まるで、フエに言われたわけでもなく、ただそこにソファが座るべきものとしてあったから座っただけだと、そんな、どこか不埒なたたずまいを見せてジウはソファに、むしろ礼儀正しく背筋を伸ばして座るのだが、「…日本人?」と。
そう問いかける私に哀れんだ、想いの深い眼差しをくれる。
つかの間の沈黙に淫する。
彼が、自分の沈黙にただ、無意味に淫してもてあそんでいるだけだという気配が私には鮮明にあって、それはむしろ私を侮辱しているように感じられた。とはいえ、高慢な雰囲気はない。ただただ、端整で大柄な男にすぎない。「…韓国人。」ややあって、ジウは答えた。…日本名はね、…「三島。」そのとき鼻に笑った気配が立って、「三島博文。…ね。」…分かります?
そう言って、唇の先で笑ったジウは、明らかに企みをかけていた。そして、不意に立てた彼の笑い声はすべてを打ち消すように響いて、「でも、気にしないで。韓国人相手にしか遣わないの。…これ。」ジウは、あくまでも背筋を伸ばしたままに、ただ快活に笑った。「なんで?」
「なんでって、なんですか?」
「政治的に、…ん、」…なに?「その、…」なんだろ?「…やばいんじゃない?」
「やばいですね。」…普通に。
そのジウの声を、私の傍らに立っていたフエは、聴きなれない異国語の応酬に首を一度かしげてみせながら、…んね。
「何言ってるの?」
Nói gì ?
「なに?」
私はフエの、耳打ちには答えない。答えるすべもない。なぜなら、私はジウがいったい、何を言っているのかよくわからなかったからだ。「国賊者ですよ」
こくぞょくものぜすよ
その、ぞとじょのあるかなきかの発音に、外国人故のミスなのか、あるいは国辱者と言ったのか、私はその判断に戸惑う。私のかすかな、奥ゆかしすぎてふれもしない程度の戸惑いをジウは見逃さない。むしろ、彼自身の言動が戸惑わせたのだと想いこんだに違いない彼の、…大丈夫。
じゃいぞぅうぶ
やさしい気遣いの声を聞く。「気にしないで」…だって、
んにぇ
…ね?
やさしすぎて、思いあぐねたような色彩にジウのまなざしは倦んで、「ただの、個人的な問題だから。」…と、いうか。…
「寝てもいいですか?」
不意にそう言って、邪気もない微笑を浮かべるジウに、「大体、なんでもそれが神経質な問題であるかのように言いきれば神経質な問題になる。冗談として言いきれば冗談にすぎない。…違います?」私は、…てか。微笑み返してやるしかない。…寝転がっていいですか?
ねころっがてもぃいぃーぜすか
「ここで?」
「どこで?」
「ホテルは?」
「取ってませんよ。」…え?と、言った私の声を逆に慰めてジウは、だって…「ね?」…そういう人だから。「知ってるでしょ?あなたも。」…ハオさんって、…「ね?」
ややあって、声を立てて笑う私に、ジウはこれ見よがしに力なく首を振り、伏目にそらし、床のどこかに投げ棄てた眼差しを私たちの前に無防備に曝す。「予約してなかった?…ホテル。」
…そう。
「じゃ、…」
…ん?
「でも、」
…んー…
「じゃあ、此処に?…あいつ、」
え?
「ハオ、最初から、…」
ん、…あ、
「ここに?」
誰?
「ハオって最初からここに寝泊りする気だったんですか?そもそもあいつ、なんでこの場所、知ってるんですか?」…教えたでしょ?ジウは、眼の前の戸惑う男に笑いながら答えた。
「送られてきました。あなたが、…ハナさんが丁寧に、ベトナム語打ちで、」あれ、…ね。「それと、」ベトナム語ですね。なんか、…「カタカナ表記で、…ね?」変なアルファベット。…「送ってくれたんでしょ?ハオさんに。ここの住所。あれ、あなたの住所でしょ。」思い出す。確かに、ハオがよこした渡越を告げるメッセージに返したいくつもの返信のどこかで、ここの住所を書いて送ったのだった。…それ。
「ね?」
それ、転送させてきて…そう
てんとうすぁすぇてぃきて
私に語りかえる声には、滑らかな抑揚と、声にはかすかでそのくせ執拗なつやさえもあって、不意に、ジウは容姿以前に女にもてるに違いないと、私は想った。…あの、
「とても親切で、至れり尽くせりで、お人柄がしのばれるこまやかなメッセージ。」…ちょっと、「ね?」…パニクり気味だったけど。
いいぃーひとね
笑う。その声はなまめきだって、あざやかに私の耳にふれて、フエは私の背後に控えたまま、ジウを見つめた。何を言っているのかわからない、異国から唐突に顕れた色気のある男を前にして。警戒するなと言うほうが無理で、そして、興味を引かれるなと言う方もまた、無理だった。…だれ?
と、その、「だれ?」
Ai ?
フエの無言の問いかけが背後にやまない。さわぎたった、複数の気配として。「…で。」
言って、そして、ジウはその後を続けることが出来なかった。まるで、これから何を言おうとしていたのか唐突に忘却して仕舞って、それに戸惑う以前に呆然としたかのように、…ね?
思いあぐねたジウが、私に同意を求めた。
「…そうなんですか?」
「なにが?」…ハオさんって、と、言いかけたジウが不意に笑い出した。「ハオさって、最初からここに泊まる気だったのかな?」…笑う。…どう、…
「どう想います?」
ハオは言った。
「だったら、笑う。…もう、」
自分の
「…笑うしかない。」…じゃん。ね?「だって」
笑い立てた声に、みずからの
「ね?…だって、」
つややかな声を
「そうでしょ?」
すき放題にわななかせながら。「とりあえず寝ていいですか?」ジウは言った。それは落ち着いた、すこしの毛羽立ちもない端整な声だったが、「ちょっとだけ、」…って、「ここで。」爆睡したら、…「だって、」…ごめんなさい。まじで、「僕ら、」でも、…「…ほら、」ね?「ナイトフライトの上すぐダナンに来たから。…」…眠いんです。「わかるでしょ?」
わがるぜすょ
言ったジウをフエが見つめた。好奇に捉えられたというべきなのか、見慣れない異国人に惹かれたのか、いずれにせよ、いつか明らかに色づいた眼差しを探して、「…ちょっとだけ。」…ね?
私たちが了解する前に、その長身の男はソファに横たわり、子供のように胸に腕を押し付けて眼を閉じる。足はまるでそれが国際的な礼儀だと言わんがばかりに、床に遠慮もなく投げ出させたままだった。そんな、…と、
いいですか?
そんな、…ね?
決して、ぼくらは…
ソファに足を上げるなんて、そんなはしたないこと出来ませんよ。
あなたを傷付けたりはしません
男は寝息を立て始めた。
男に薄いタオルケットをかけてやるフエの背中をなぜ、不意に、その指先がジウの頬に触れたのを見る。その触感と、形態を指の腹に確認するように、そして不意に、身を起こすとフエは言った。…ねぇ
Anh
なんていうの?
What’s does it mean
プリティって。
…Pretty
かわいい、と、私は想い出したようにつぶやきながら、その英語のほうには明らかな性別がある気がする。Pretty boyと、若干の見下しをふくめた戯れの感情を抜きに男に言って仕舞えるものなどだろうか。外来語のさまざまな性別のある言葉を好きなだけ濫用しながら、日本語自体にはまともな性別さえない気がした。あるいは、ありうべき性的な倒錯をよびよせるための、とりあえずの性別と、年齢制限しか。男でも女でも誰でも可愛く、格好良く、美しく、たくましい。それぞれに本来の性差を持ちながら、それらは倒錯として横断されてしまうためだけに仮構されたものにすぎない。倒錯は、むしろ結果ではなく目的なのだ。
フエの、私を見つめる眼差しには明らかにあてどない、嬌態があった。それが、かならずしも私にだけ向けられているとは思えなかった。明らかにフエは、その見ず知らずの男に惹かれていた。男は美しく、謎めき、やさしげで、とはいえそのやさしさがいつまでもつづくという約束が在るわけでもない事は彼の、こしらえ物には過ぎなくともたくましすぎる体躯が曝し、そして、彼の体は匂う。色気づいた、くさいといって仕舞いたいほどの、野生動物じみた匂い。…確かに、と。
私は想う。彼は、美しい。
かならずしも彼の容姿が私の好みであろうがなかろうが、美の基準に対して加点あるいは減点法で採点してやる以前に、直接、美しいと言ってやるべき気配を湛えた存在ではあった。
私にしがみついた、自分勝手に色めき立ったフエが、自分でも細部まで認識しきれないさまざまな感情の細かいひだにうずもれていることには気付いている。私への想い。純粋にいわば精神的な愛、肉体的なもの、渇望、将来設計というなの実利的な打算、ジウへの、同じそれら。そして若干の不安。ありふれた日常の、ある若干風変わりな一日にすぎない今日の憩いの安らぎと、まぶたを閉ざしたジウの眼に触れられないでいることの安心と気安さ、物足りなさと眼の前で眠る生き物への意味不明な軽蔑、自分が軽んじられたことへの敵意。なぜ、と、この男は私になにも話しかけなかったのだろう?そんな、懊悩に近い、あてどもない、とはいえ単にかすかな印象、そんな、それら、そういった、そうした、そういうものたち。
フエの頬に両手を触れて、そして戯れに抗うフエ、私に鼻先でだけの嬌声をくれながらフエは一瞬、顔をしかめた。そのフエの唇に、私は口付けた。無理やり。
唇を奪う、…と。忘れかけていたそんな感覚が、…そして想い出す。私は唇を、あるいは、体も、心も、自分から奪ったことなど一度もない。私に寄り付いて、私に媚を売った女たちはいつも、私を自分勝手に奪っていったに違いない。ときに、私に傷つけられたとしても。私のせいで恥辱にまみれ、あるいは、北浦愛のように、命さえ落すことになったとしても。
いつだって、と、私は想う。私は、…と。マネをしただけだ、と、そう私は、唇を奪う、あるいは、と、体を奪う、無理やり、私自身の欲望に狩られて、と、そう想った。私は、彼女たち、私に群がった女たちが、それを、と、私に求めたその瞬間に、と、私は、与えただけだ、むしろ、と、彼女たちを奪う振りをして、あくまでも、と、私は、彼女たちの心の憩いと充足のために。
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