小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑧ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
踵を返して、女はバイクにまたがった。自分はヘルメットもかぶらずに、《見えない凝視》にだけ赤いヘルメットを差し出して、…さっさとかぶれよ。
ただひとつ
糞野郎。
そのときにわたしが望んだのはあなたの心の平安だった
男は
死に行くあなたの最期の日々のどこかで
それに従う。《凝視》を後ろに乗せた女のバイクが、更地の粗い隆起にタイヤを取られてよろめきながら走り始めたのを、《盗賊たち》は追った。発車が一番遅れた《単なる微笑》が振り向いて、声を立てて笑いながら私に手を振った。また逢おうぜ、と。たぶん、そんな言葉をかけたに違いない彼の音声は、バイクの音が綺麗に掻き消し、私の耳にふれられることはない。
ばか?
…だから、なに?
まじ、…
と、
ばかなの?
そう、
わたしが血塗れで死んでしまったら、あなたは一秒くらいなら
もの静かに
微笑んでくれますか?
問いかけているだけのフエの横向きの眼差しが私にふれる。
だいじょうぶ
なんでもないわよ。
だいじょうぶ、…だ
確かに、
から、…
…と、
…ね?
想う。私は。彼らは立ち去り、いずれにしても、彼らが彼らなりなりの報復を、私たちに施すための口実をわざわざ与えてやったには違いない。…気にしないで。
Không có gì
と、フエの
どうでもいいのよ。
眼差しが言う。…あんな、…
瞬く。
子猫ちゃんたち。
フエの眼差しが。
私は彼らが立ち去って仕舞った後に、フエの肩を抱き、何と言うこともなくショートパンツのポケットに手を突っ込んでバイクのほうへと歩いていくのだが、ただ、私はだらしのないにやつき顔を曝しながら、ときにフエの頬にかるく自分の頬を当て、もしも、私たちを見る人がいたなら、単に仲睦まじい夫婦がじゃれあっているだけに見えたに違いなく、そして、事実、私たちは仲睦まじくじゃれあっていたのだった。
家に帰ると、その裏庭の出入り口、白塗りの鉄格子の引き戸の前に、長身の男が立っていた。180センチは無い。とは言え、長身であるには違いない。いかにも衣食住調った先進国風の、金の匂いがする精悍な体つきをしていて、明らかに朝鮮半島の切れ長の眼をした真っ白い肌の男は、当たり障りのないリゾート・スタイルをこの裏道に、明らかに異物として曝し出したまま、気弱げに日差しの直射の下にたたずんでいた。両手のひらは新しい包帯でぐるぐる巻きにされ、そこだけ見れば、むしろ、負傷しながらだれかに追われているようにさえ見えた。家屋を背にして突っ立ている彼が、バイクで接近する私たちを見つめていることには、気付かないではいられない。鉄の引き戸のすれすれに立っていたのだから。
道に迷ったか、お国のお仲間たちとはぐれて仕舞って、行き惑って時間を潰す韓国人にしか見えなかった。英語さえなにも話せずに、だれにも助けさえ求められないのか。もっとも、こんな裏道に、日曜日の正午近くに出歩いている現地の人間は子供かいたいけない老人か現地の貧しい労働者に過ぎないので、そんな人たちに英語能力などあるはずもないのだから、彼が何語が話せたところで、ベトナム語が話せなければ立ちつくして時間を浪費するしかない。
ずっと立っていれば、空から救いの手でも差し伸べられる気でいるのだろうか、と、想った私が彼の傍らにバイクを止めると、男は私を覗き込むような眼差しをくれる。フエに、ひじをつついた。…助けて遣れよ。
...He is
英語、得意だろ?
your job
「…ハナさん、…ですか?」男はよどみのない日本語で、言った。…え?と、そう
はなしゃんでしゅか
言い返す隙もなく、「ハナさんですよね?…」…あー、「日本人?」ぼく、…「…奥さんは現地人でしょ。それは、」…ね?…「見れば分かりますけど。」…僕、「…あの、」ま「…あのですね。」ま。と、「…すみません。僕、ハオさんの」…ハオ。ハオさん。ハオ。「知り合いなんです。」ハオさん。…ハオ。…「ハオさんから、」…ね?「先に」んー…「行ってろって言われて。」…一人で。「…向こうの正面玄関、」ひどくない?「正面、…」…ですか。「…みたいな?あそこから、」ハオさん、一人で、「すみません。一回、」行けって言うから、…でも「なかに入っちゃたんだけど」別にね。…、ま「…開けっ放しだから。」困らないけど。…ね?「でも、」別にね。…、あ「だれもいらっしゃられないみたいで、」…ね?「…で」
だらぇもいらぁさらないみたぃで
「ハオの?」私は言った。
バイクから引き抜いて、シャッターの鍵まで全部束ねられた鍵束を後ろでにフエに手渡すと、彼女は男に取り立てて関心を示すわけでもなく鉄門を引き開ける。
その、砂と小石を弾く騒音が小さく足元でなり、「ハオは、どこ?」
男の眼差しは、フエの後姿を追った。
我に返った男は、不意に私を振り向き見て「ハオ?」言った。「…さん?」あー…と、彼は「知らない。」…ん、「…すよ、…ね。…」つぶやく。
すぃりません…にぇ
自分勝手に、独り語散るように。
「俺、あの人、どこ行っちゃったのか、知らないんですよ。」
そして、男は声を立てて笑った。…いいバイクですね。そう言った男は、フエのお気に入りのホンダの白いスクーターに手を触れて、私に笑いかけ、「バイク、乗るんですか?」言った私に、「乗れるんじゃないんですか?」答えた。
あーできるおもいます
「たぶん。乗れば。」
のるぇばできる
私を待っていながら、私が帰ってくるなどと考えていもいなかったに違いない。私たちの帰宅は、文字通り、彼にとって前準備も出来てはいない不意の邂逅だったに。
あられもない戸惑いと混乱を一段落させた男は、ようやくその端整な顔に微笑を作って、私に会釈し、落ち着きを取り戻せば彼は、むしろ寡黙な男にすぎない。その髪の毛から爪先まで、いかにも寡黙な男じみたたたずまいを曝していた。事実、自分からはもはや話しかけようともしない。その上品な寡黙さが、むしろ不埒さえに、私の眼には映った。
若い、二十代前半の男に違いなく。部分的にいじっているのかもしれない彼の顔は、ただただ端麗、端整、滑らかで、切れ長の眼のアジア人という以外の個性的な凹凸を曝すことなく一度、眼を閉じればまぶたの裏に想い描くことさえできない完成度を誇った。綺麗だが、色気を感じないのも事実だった。そして、その体臭にだけ、媚薬じみた生臭い生物的な体臭を立てていた。
私は彼の国籍が分からなかった。鍵を開け、シャッターを押し開けたときいきなり、前触れもなく振り向いたフエが、…誰?
Là ai ?
言った。
どなたにぇっか
友達だよ。…と。あるいは日本の人、と、…も。昔の知り合いとも、ハオの友人だとも、ハオに紹介させれたわけでもなければ何も確信を持って言うことができず、私の唇はとりあえずは答える。…知らない。
Không biết
沈黙を埋めるためだけに。垂れ堕ちる血を見つめる。
I don’t khow
私は、一瞬だけ。
その、眼差しの先のフエの向こう、二番目の居間の天井の暗がりに、仰向けにへばりついてこちらに、長い首をのけぞらせ、ひん曲げて顔だけを向けたその両眼から、そして口から、ひたすら垂れ流れ続けるもの。
あざやかな血。
その色彩のあまりにもな鮮度に私は一度瞬いて、…あの女。《盗賊たち》の喫茶店の、あの女。
もはや、色彩をなくした彼女にはすでに、私に抱かれかれた数回の、その面影さえもなく老いさらばえて、見たこともないその老婆の翳りの形態らしきものは
いつか
私を見つめる。
わたしは見た
身動きさえせずに、…え?
あなたの瞳にわたしたちの幸福を
と。だって、時間など存在しないのだから、と、私のその戸惑いに言葉もなく答え続けるような静止。
流れ落ちる。
血が、口から、そして、眼、それら、単に消失した穴ぼこに過ぎないそれらが流す血には、小さな気泡さえときにたって、見苦しい、と。
想った私はヘルメットを脱ぐ。
女の下で、フエはようやくヘルメットを脱いで、テーブルの上に置いた。振り向いたフエが、私を見つめ、そして、微笑む。…ほら。
どうしたら世界は平和になれるのか
血。
十歳の僕は考えてみました
入ってきなさいよ。
流れ落ちるそのあざやかな、
ふたりとも。
人間がいなくなれば、世界はもう汚れないと思います。あるいは
色彩。
世界がなくなれば
灼けちゃうわ。
もうこれ以上世界は壊れなくてもよくなると思います
翳る。女は、そして
壊れ行く世界を救済するために
正午の、この
この世界を壊さなければならないなら
色彩もなく、
とはいえ
そこに
人々が愚か者だ、…と
明るすぎる
実現も出来ない
ただ、
夢を
日差しに。
見ているだけだ、と、そう言うのなら
たたずむ。…女。その女の
私は何千回でも繰り返そう
名前は知らない。「こんにちは」
その通りだ!
と、想い出したように、フエは男に
…と
声をかけた。…あの、…と、振り向いて言った私に男は「…え?」微笑む。
「…なに?」
…ん
やさしく。
にゃん
「なんですか?」長身を、
にゃぜすか
折り曲げるようにして。…お名前は?問いかけた私は、「ジウ…ほんとはこれ、女の子の名前なんですけどね。」こぼれるようにけなげに笑って、男、…その、ジウという名の男は言った。
駄目だって!…と、私が彼の後姿に、半ば叫ぶように言って仕舞ったのは、彼が、
お前頭の中虫飼ってんのかよカス
靴も脱がずにそのまま床に上がろうとしたときだった。フエに招待されるままにジウは微笑み、むしろ私を先導していた。いつか、彼に対してその国籍さえ未だに明確には知らないままに、どこかの同国人のように感じていた私は、靴を脱がない彼の挙動にただ、おののきに近いほどの驚きを曝したのだった。あきらかに、鮮明な狂気を、彼の挙動に感じて。
すぐさま、私は彼の国籍など知りもせず、名乗った名前から言えば、妙な綽名でもないかぎり、彼が日本人ではないことなど当たり前だったことに気付く。日本で外国人が靴を脱がなかろうが、そんな事は慣習の違いに過ぎず、ベトナムでは靴を脱ぐとは言え日本ほど厳格ではなく、そして、彼にとってそのベトナムさえ外国なのだった。私は、私の頓狂な声を恥じた。
男は戸惑い、ややあって、微笑んだ。…あ。
すみません。「…ほんとに。」…申しわけないです。言って、あわてて日本流に靴を脱ぐジウから、私は眼をそらした。
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