小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑦ブログ版







charon, eris, pluto

カローン、エリス、冥王星

…破壊するもの




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ


Χάρων

ザグレウス









こいつ、馬鹿?…私たちの眼差しが、それが礼儀作法で在るかのように、お互いを軽蔑しあって、その、突発的な暴力にまでは至りそうもない希薄な、間延びした、いたたまれないそれぞれの流儀の侮辱をのみ、それぞれまばらに空間に漂わせた。だれもが、だれもを見下していた。私も、彼らの一人ひとりを。彼らは、眼にふれるもののすべてを。

握手に握った手を、私は離さなかった。私は声を立てて笑って仕舞いそうだった。痛々しいほどに、目に映るものすべてが馬鹿げていた。《家禽》の手に、にじんだ汗の触感があった。あるいは、私の手のひらだって、個体差を持った似たような触感を、彼に与えていたかも知れなかった。

女が、背後で声を立てて笑ったとき、私は振り向いて、光。

…救済の光。

知っていますか?

あふれかえるしかない救済の、神々の

すでに救って仕舞いましたよ

無際限な光が

わたしは

すべてに

あなたを

ふれる。バイクから降りた女は

かつて救世主ゾロアスターは笑いながら生まれたというではないか

私に近づくと、ベトナム語で

光が勝利することのもはや喜劇じみた当然を

何か

すでに知っていたから

話しかける。

私には、その早口の言葉は聴き取れずに、《家禽》の口は至近距離に笑みにゆがむ。

軽蔑。…血。

私の足元に、でたらめに四肢らしきものを、地べたに生えさせた翳りが色彩のままに、

こんにちは

流す。その、

この

あまりにも

残酷な世界

鮮明な血の色彩。

遥かに、なににもふれないままに上方に舞い上がっていく三本の真っ赤な、微細なグラデーションを曝す血の

おはよう

流れ。…マイ。

この

マイは

笑うべき滑稽なる世界

泣く。

悲しみの感情さえないままに。笑った。《家禽》の立てた、ただただ軽蔑的な笑い声が耳に響き、…だれだよ?

おやすみなさい

このガイジンの馬鹿。

この

流れる血を流しているのは、見たこともない

糞塗れの

少年の、

凄惨なる世界

地面に顔だけ突き出したその、色彩のない翳り。歎き。

なにも、歎きえるもの自体、すでに、なくしてしまったままに、

…ねぇ。

海王星はダイヤモンドの海がその表面のすべてを覆っているらしい

行こうよ。

…だから

そう

あんなにも青いのだ

言ったのは、

Đi

《見なかったことにしている凝視》だった。彼は日に灼けた褐色の肌の下の実用性のない筋肉を、タンクトップに曝す。いわば、使えない観賞用の男らしいいかつさ。趣味のように、毎日ボディビルに明けくれているに違いない。プロテインを口に含みながら。

女の笑い顔が、眼の前の至近距離にあって、光。…すべてを、…それら、

わたしが死んだら木星に埋葬してください

すべてを。

たぶん

包み込む光。

土地代はただだと想います

救済の。瞬く。私は、そして、匂い立つのはその女がぶちまけた香水。同じ、と、想う。私は、彼女は同じ香水を、と、姉と同じ香水を衣服の上からぶちまけて、と、想う。匂った。安い香水と体臭と髪の毛の匂いがない交ぜになった異臭。

その向こうにビルが見えて、さらなる向こうには海がある。それは、いま細く薄い白いきらめきの横長い明滅でしかない。泣いた。

マイが、私の足元で、涙を、流して、…あるいは、単に感情のない血の鮮血を噴き出して、その色彩は昇天していく。上方に。

そこにいます

なににもふれることなど出来ないままに、光。

あなたは

救済の神々が、光そのものとしてすべてに、

そこに、すでに

ふれた。女はすでに、

天使とともに、いたのです

私が何を言っているのか一切理解できていないことなど気付いていた。親しげで、媚びた眼差しを曝しながら、女はそれでも話しかけるのをやめることが出来ずに、そして、不意に、自分のしていることのばかばかしさに自分で気付いて仕舞う一瞬が女にあって、沈黙。

彼女は黙っていた。私を見つめた。ほんの一秒、その、短い一瞬の空隙に、《単なる微笑》がこの日一番の、下卑た笑い声を滑り込ませた。…こいつ、…と。

話せないのね。女はいま、初めて気付いたように

Anh không thế nói

言った。そして、

Tiếng Việt

女の眼差しが、まるで重度の失語症や、あるいはヘレン・ケラーじみた三重苦だの何重苦だのに苦しんでいる人間に対する、そんな哀れみと容赦ない軽蔑を

…どうして

不意に

神様はあなたを見棄てて

曝す。

仕舞われたのでしょう?

私は

こんな神聖なる美しい日々のさなかに

声を立てて笑った。私の背後にたたずんでいたフエに、あわててその《障害》を教えてやろうとしたのか、慰めてやろうとしたのか、振り向いて話しかけようとした女は、匂う。身動きするたびに。

なんて

香水塗れの女の体臭がいっぱいに。振り向いた彼女を

滑稽でそして残酷なのでしょう?

いきなりフエはひっぱたいた。

女は、言葉をなくした。男たちは、それぞれに呆気に取られて、《家禽》が私に一瞬、縋るような眼差しをくれた。…なんだよ?

知ってる?

この気違い、なんだよ?

わたしは常に無罪です

《見なかったことした凝視》が、え?と、その唇のかたちを曝したままに、鼻をすすった。

女が正気を取り戻すのに時間はかからなかった。わずかな、秒数を数える気にもなれない一瞬、その、どうしようもなく間延びした時間の停滞に、やがて女は言った。ささやきのうちに、…ごめんなさい。

Xin lỗi ...

まるで、それが言われもない下等民の無残な陵辱に逢ったときの、淑女の当然の流儀だとでもいいたげに。私は眼差しの中に、ただ、戸惑いを曝すしかなかった。フエが、ずっと、品もなくにやつき続けていたことに。女を

わたしはいま、辱められた徒刑囚以外の何者でも在りません

手のひら打ちにした挙句にも、彼女の卑賤なだけのにやつきは消えず、陰湿で、いたたまれないほど、そしていまにも、

わたしはただ悲しみの重さにへし折れてしまいそうです

彼女は下卑た笑い声に、その顔のすべてを崩して仕舞いそうだった。女性に対する、もっとも卑俗で、卑猥で、容赦なく、

空の光さえもがいまやわたしを傷付けていたのです

差別的で、どうしようもない罵倒句が、もしもこの世の言葉としてありえたなら、フエは間違いなくその言葉を

お救いください。もしもあなたが

述べたに違いなかった。

《家禽》が、握り取ったままの私の手を

糞塗れの豚野郎ではないのなら

振りほどいた。…さわるな。

やめてよ

俺に、

もう…

…と。

恥ずかしいじゃん

ふれるな。そう、言ったに違いない短い発音が、唇の先にささやかれ、聞く。私は、彼の立てた声を耳の至近距離に。

私の横顔に口付けでもしてやろうと企まれたかと、そんな錯覚さえ感じさせて、《家禽》は背伸びして私に顔を寄せていた。小柄な《家禽》たぶん、160センチもない。

不意に、《家禽》が鼻で笑った。《見えてはいないと凝視》が、女の

留まれ!

手を引いた。無理やり、そして

お願い

女が

そこにいて!

拒絶したとき、…触らないで。

あなたは美しい

そう、言ったのだろうか。女が叫んでいた。誰に向けたというわけでもなく、誰にも目線をかさねないままに。

フエが私に目配せした。…ねぇ。

微笑み、

どう想う?

フエの、眼差しがつぶやく。

おやじのくそでもなめてろかす

フエは、声を立てて笑っていた。そのとき、決然として見えたほどに。フエの、笑い顔はもはや、すがすがしいばかりに邪気もなく、例えばよちよち歩きの子供が振り向いて、あー、と、不意に声にしたときに人々が一様に曝すような、そんな、どこか人体標本じみた笑い顔にすぎなかった。フエは笑っていた。彼女は愉しみ、喜んでいるのだった。そして、それだけだった。

女の一瞬、空中を彷徨った眼差しが、私を

失礼しました

通り過ぎた一瞬の余白の後に、不意に

いかがいたしましたか?

私を見つめ返し、…あら。

なにか、不都合でも?

そこにいたの?

どうぞ

ハンサムさん。

なにとぞ

初めて私に気付いたに違いない眼差しを曝す。…ねぇ。

ご自由におくつろぎください

なに、笑ってるの?

どうぞ、お気のすむままに

私が

血と汚物と屈辱に塗れた下僕どもにご折檻いただきますよう

にやついているのは

お願いいたします

知っている。ずっと。私が、どこかで嗜虐的な快感に、皮膚をかすかに鳥肌だたせていることには。自分の、その容赦もなく理解できない感覚に、だれよりも自分自身がかすかで執拗で遁れ難い恐怖、…戦慄?…を、感じているにはちがいないのに。

女は、私をしばらく、ほんの二三秒だけ見やって、不意に正気づいた彼女は私の足元に唾を吐いた。

ばか?

彼女は、

ばかなの?

罵倒の言葉も何も言おうとはしなかった。もう一度、

まじばかなの?

《見えない凝視》が

死んで

彼女の腕をつかんだとき、むしろ

お願い勘弁してよお願い

逆に

ばかなの?

彼を先導するように

まじばかなの?

踵を返して、女はバイクにまたがった。自分はヘルメットもかぶらずに、《見えない凝視》にだけ赤いヘルメットを差し出して、…さっさとかぶれよ。

ただひとつ

糞野郎。

そのときにわたしが望んだのはあなたの心の平安だった

男は

死に行くあなたの最期の日々のどこかで

それに従う。《凝視》を後ろに乗せた女のバイクが、更地の粗い隆起にタイヤを取られてよろめきながら走り始めたのを、《盗賊たち》は追った。発車が一番遅れた《単なる微笑》が振り向いて、声を立てて笑いながら私に手を振った。また逢おうぜ、と。たぶん、そんな言葉をかけたに違いない彼の音声は、バイクの音が綺麗に掻き消し、私の耳にふれられることはない。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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