小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑥ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
仏間を探すと、木戸が全部開かれていた。その、空間を照らし出すあまりにも鮮明な庭の、真ん中近くに二本のブーゲンビリアの樹木が、その枝を自由に曲がらせた巨体を曝し、花々は咲き乱れた。
近くにまで寄れば、そのむらさき色がかった花々が匂う事は知っている。まさに花の、と言って仕舞うよりほかない、花々に固有のあまやいだ匂い。あるいは、しずかに色気もなくなまめきだった、というべきなのだろうか。
花々の匂いの香気に、気品を感じ出すとするならば、人間の体臭はどんなものでも、ひどく下卑ていて、貧弱で、卑猥で、いびつなものには違いなかった。
庭の地べたに無残に、花々はその花のかたちのままに散って堕ち、散乱し、そのさまはあまりにも無造作にすぎて、むしろ無残とも言獲ない。当然のことだ、と、鼻で笑いさえせずに、花々はただ沈黙していた。花々の
お水を遣ると
沈黙には、
お花たちは笑うのです、と
恍惚さえもない。
むかし
離れで
お母さんが言いました
声がした。
フエの、その私の名を呼んだあられもない、悲鳴以外のなにものでもない声に、けれども私はあわてなかった。鼠でもいたに違いない、と、その、フエの追い出した従姉妹夫婦が使っていた離れはいまや、だれにも使われてはいなかった。その部屋には、確か旧型ではあれ壁付けのエアコンが設置されていた気がしたが、今も残存しているのかどうかは知らない。
家屋にそのまま建て増しされ、とはいえ中からの連絡はできないそこに、私は庭のコンクリート地を伝っていくと、開け放たれたドアの向こうの突き当たり、その、壁際にフエが、素肌をさらしたままに立ちつくして、折り曲げた腕を胸に押し付け、唇は派手にわななき続けるしかない。
フエの眼差しは、私が彼女の名前を呼ぶまで私を見留めない。入り口に突っ立ったまま、三度目に彼女の名前を呼んだ私に、
Chuột ...
…鼠よ。フエは言った。私は、彼女のあられもない姿を見た瞬間には微笑んでいたし、彼女の、その、すでに予測されていた告白に私は声を立てて笑うしかなかった。日差しの中に、褐色の肌を淡い翳りが這い、うねり、どうしようもなく中性的な、とはいえ、明らかにその性別を兆さないではいられない身体は、私の眼差しの中に息づいて、…ねぇ。
Anh ...
鼠なのよ。
Chuột quá
もう、半年近く誰も遣っていなかった。むしろ、その割には痛んでいないほうだった。確かに、床には埃りがうすく溜まっているようだった。とはいえ、このひろい敷地の、広大な更地の真ん中の家屋の人の住まない一角が、野生の鼠たちの棲み処にならないはずもなかった。声を立てて笑う私に非難をもくれず、明らかに瞳孔の開いた眼差しをくれて、フエはそこに動かない。背後の壁、フエが手を伸ばしても届かないくらいの壁の高みに、つがいの白いトカゲが張った。壊れた楕円を急速な数歩ごとに描き、同時に立ち止まり、おそらくは、お互いを警戒しながら。フエは、両手を拡げた。…ね。
と、眼差しが、…ね、ね。つぶやく。ねね、…ね、…ね?
Anh …
助けて。
Chuột quá
近づいた私が彼女を腕に抱いてやると、ようやくフエは身をまげて、私に縋った。…お客さんのためよ。
と、フエは言った。彼女をその部屋から連れ出した、その、ほんの数秒のあとに、落ち着きを取り戻しながら甘えて、すがり付いて離れない彼女は。「来ます。」フエは、
きまっ
「誰が?」
私の声を、
「友達のあなた」
ともだちよなた
むしろ消え去って言った空間に
「来ます空港から。」
きまっううこうから
探し出そうとしているような、そんな眼差しを
「ハオ?」
泳がせて。…どこに泊まってもらう気なのよ、此処しかないわよ、と、やがて気が利かない私をなじるような口振りするフエに、「ホテル、…ホテル。」言う。
たぶん
ホテルに泊まるよ。もはや、フエの心遣いを
きっと
ばかばかしむだけのその単語の発音は、でたらめに
けだし
そのみっつの音だけを
わたしが想うには
…当たり前だろう?
ホテルに泊まります
もてあそぶ。
「自分で、ホテルに泊まるよ。」
いくらなんでも、ハオが日本でダナン市のどこかのホテルをすでに予約しているに違いなかった。私に言い聴かせつづけて聴く耳のないフエの唇を、長い口付けに私は塞いだ。
バイクを飛ばして空港に向う背後に、しがみついたフエの体温と、揺れ動く触感があった。震動が、もたれかかり、身を預けようとする彼女の身体をこまかく震わせる。空港までは、家の先の主幹道路の数百メートル先を曲がって、橋を渡れば一本だった。龍をかたどった、橋の上で斜めに流れた潮風に押される。自由に乱れる風圧が、Tシャツをわななかせ、フエが選んだ日本製の、美紗子からもらったひらつくアウターをいよいよひらつかせていたに違いない。耳に、風がすき放題に鳴った。
近くはない山陰が蒼く霞んで、その頂に低空の雲をぶち当たらせて、頭から雪崩れさせて雲は、為すすべもなくそのしっぽを、霧状に拡散させる。日差しはそれほど強くないものの、日本の春先の朝のあの飼い馴らされた脆弱さ、あるいは不意に感じられたあやうさに、ふれるのを戸惑って仕舞ったような繊細はない。ハオが大荷物でタクシーが必要なら、フエが同乗してホテルへ案内すればよかった。ハオが大荷物でなくとも、ハオが望めば私がタクシーに同情してフエはバイクに乗ればよく、あるいはハオと私がバイクに乗って、フエが荷物を抱えてタクシーに乗ればよかった。
小さな町だった。空港には、直進で十分もかからない。国際空港は、もともとが小さな町の集落が形成されていたに違いない場所に、そのたたずまいをかろうじて残しながら、その周辺は急整備の整然さをだけ曝して、そして、ただただがらんとしている。未だに、かならずしも空港の規模に、都市の規模が一致しているとは言えない。そもそもこの街自体が、そうだった。
外国人観光客は、中国人と韓国人を主体として、それなりの数を集めてはいるものの、そこに棲む現地の人々はむしろ、いまだに田舎の人々だった。ただ、急激に高騰した土地と、急にあふれ返った観光業と海外資本の会社仕事でそれなりにお金持ちになる事が出来た、それだけの地方の人間の集まりにすぎない。言葉さえ通じれば、差別問題に発展しかねない挙動さえ含んで。つまりは、アフロ・アメリカンに向って、陽気な挨拶として、お前、真っ黒だなと素直に感想を述べて仕舞う類、かつての日本の昭和生まれのいたいけない老人たちが、時にブラウン管に映ったモハメッド・アリやマーティン・ルーサーキングJr.に対して口にしていた類の、そんな意図されざる赤裸々で野蛮な差別、だ。もっとも、そんな彼らは英語が話せないし、英語が話せる人間はいくらなんでもそんなナイーヴすぎる非常識は遣り出さないので、いずれにしても町は平和だった。
時間は9時十分前。広大な敷地の、広大なバイク置き場から少し離れた国内線まで歩いて、時間は丁度いいくらいだった。どうせ国内線が時間通りに来るとは想えない。
フエにとっては、イベントだった。愛する旦那様の、故国の旧友が訪れるのだし、いずれにしても、フエは知っているはずだった。すでに、ハオの事は、私が知っているのとまさに、同じように。私が経験したのと、同じその通りに。暴力と、破壊に戯れながら、警察の眼をかいくぐって生きるハオ。檜山という名の、ハオの裏切りのために投獄されて仕舞った歌舞伎町のやくざが、《ばったもんのチャイニーズ》とあえて軽蔑的に呼んだ、日本生まれの日本育ちの、中国人。
戦後生まれどころか、高度経済成長期以降の70年代生まれなので、戦争のトラウマなど在り獲ない。そして、差別に傷付くには、彼の暴力性自体が危うすぎた。ひょっとしたら、と、そう想っことがあった。彼の、危うくふれれば、あるいは、ふれなくても、何の前触れもなしに彼の気分次第でむき出しになって仕舞う暴力と破壊的行為は、あるいは、自分自身が傷付かないために身に着けたものだったかもしれない。陰湿な、あるいは根強い差別に対抗するもっとも困難な手段は、差別するすべての人々と和解しあうこと、および、差別するすべての人々を大量殺戮し、完全に、根絶やしにして仕舞うことだ。もっとも簡単で賢明なのは、彼の周囲の人間に、彼らをのさぼらせたまま彼らに差別する隙を与えない、絶対的な恐怖の存在であることだ。
近づけもしない人間に対して、人々はもはや差別など加えない。ただ、文字通り畏れ、身を避けるしかない。とはいえ、ハオにそこまでの陰影が在るとも想えない。もっとシンプルに、彼はただ、暴力的な自自身を愉しんでるのかも知れない。そして、彼自身に向けられる、人々のおびえた家禽のような眼差しを。
フエは、到着待ち合わせ口で、ハオを待つ。あれがハオだと、私が指示してやるまでもなく、一目見れば彼女は認識するに違いない。私と、全く同じように。なぜだろう、と想った。なぜ、彼女を愛したのだろう。よりによって、と、想う。結婚し、もはや、と、当然のこととして、その体を知って仕舞いながら、どうして、と、私は、フエを?…そう、想った。
飛行機が着いたらしかった。奥から人々の散り散りの集団が、それぞれの自分勝手さを曝して、それぞれの必然の元に眼差しを散らしながら顕れて、荷物を取り、そして、ハオはいない。
出迎えの人々の中には明らかにインド系の夫婦がいて、その息子らしき男と再会していた。棲んでいるのだろうか。こんな町に、インド人が。いちいち海を渡って、こんなところに、と、想った瞬間に私は自嘲する。私だってそうだった。すくなくとも、この町には日本人よりはインド人のほうが多い。そして、日本料理屋よりは少ないものの、探せばインド人の運営しているインド料理屋だって何軒かはあった。
次の便、そして、その次。ハオは出てこない。出迎えの人々の集団の中に立って、待っていた私たちはいつか、その少し離れた後方のベンチに座りこんで、待つともなくハオを待った。フエは私の肩に頭を預けて、眼を閉じた。
うたたね寝など、する気もないくせに。午前、九時半。LINEの無料通話に、ハオは出ない。WiFiをつないでいないに違いない。SIMカードの番号を知らないので、そこで待つしかすべはない。午前9時45分、さすがに飽きて、フエはあくびし、スマートホンの画面に顔をうずめて、空港の無料WiFiのつながりにくさをなじった。彼女はベトナムのポータルサイトに夢中だった。
ハオが一方的に悪いとは言えない。事実、ハオは出迎えてくれと要請したわけではなかった。私が勝手に出迎えると書いてよこしたのであり、そして、ハオはそれを承認する、あるいは感謝するメッセージを送ってよこしたわけではない。ただ、午前9時という到着時間を、とりあえずは私に返信しただけだった。だれも、9時に空港で逢おうと約束したわけではない。十時を、あと数分でまわりそうになったとき、私はフエの頬に口付ける。ひとつの、何と言うこともない戯れとして。…帰ろう。
Về
言った私に、
Về nhà
フエはただ、充足した眼差しをくれた。
ふたたび、バイクを走らせて、朝を食べていなフエのために橋を直進し、家のあるブロックを通り過ぎて、海沿いの主幹道路に向った。おいしいバン・カンの店があるの、と、フエは言った。
その、うどんのような米の麵の味の素だらけの安価な料理。道路を直進すれば、橋から離れれば離れるほど、周囲は閑散とする。買収されただけで、未だになにも建築されてはいない更地が建築済みのビルの横に突然出現し、観光都市にいきなり廃墟のたたずまいを与えた。
湾岸道路に出る寸前、建築中の日本料理屋か何かのミューズメント施設じみた低層ビルが切れた不意の、更地の真ん中に数台のバイクが止まっていた。
懐かしい、と、容赦もない感興に襲われて、想わず私は歩道に沿ってバイクを止めて仕舞うのだが、自分でも、その懐かしさが不当なものに他ならないことには気付いていた。私は戸惑わなければならなかった。自分が抱え込んだ、どうしようもない甘やいだ懐かしさに。…どうしたの?
なんでっか
そう言った、フエの背後の声に、知っている癖に、と
Anh làm gì ?
想った私は何も答えない。自分でも処理しきれない感情に浪立たれていることなど、フエだったら、すでに、よく知っているに違いなかった。あの、《盗賊たち》の集団だった。5、6人。眼差しが正確に数えればちょうど5人。ミーの女は、止められたバイクに腰掛けて、私を確認すると手を振った。邪気もなく。
私がバイクを降りるためにはフエはバイクを降りるしかなく、だから、フエは何も言わずにバイクを降りるしかない。私が足を広げるのを見守りながら、たがて彼女を殺した男たち。あるいは、私たちのミーを、もっとも残酷な仕打ちに苛んで、殺して仕舞った男たち、…と、女。
どんな気で、自分の男が壊されていくのを見たのか、と、私は彼女のその、声を立てて笑った笑い声を聞き、見つめ返せば女はすでに笑いやんでいた。女は思いあぐねた眼差しを、かぶりっぱなしのヘルメットの下に曝した。女は、ミーがいなくなってもあの頃と同じように、露出のきつい、下着に矯正させた体のラインをいたずらに、そのピンク色の薄い着衣に曝していた。
男たちは交互に私に気付いていって、それぞれに固有の、それぞれの眼差しをくれる。親しげな微笑み。まるで、制裁を恐れているかのような、家禽じみた眼差し、伺い、見えなかったことにして仕舞いながら、私を見つめ続ける眼差し。単なる微笑。あるいは、…あれ?
あなた、…
あいつ、
お会いしましたっけ?失礼ですが
誰だっけ?
どちらで?
…そんな。
ミーの指示で制裁を食らっていた、あの傷だらけの男はそこにはいなかった。彼らに歩み寄る私を、フエはとめようとはしなかった。考えてみれば、彼らは犯罪者集団だった。事実、町のひとつの小さなブロックとはいえ、ガソリンをぶちまいて火をつけて、焼き払い破壊して仕舞ったのも彼らだった。彼らは人殺しで、単純に言って、単なる無差別殺人の実行犯たちに他ならなかった。そして、彼らがその行為の論理的な正当性をいささかたりとも疑っていない、というよりも、そこに疑問の余地など入る隙もない、いかなる問題性もない行為に過ぎないとして、彼ら自身にはすでに処理されているに違いない事は明白だった。
一番近くにいた、家禽のような眼差しをくれていた男の手を私は、握手に、無理やり取った。…元気?
Khỏe không ?
言った私に、《家禽》は上目遣いのいじけた眼差しをそのままに、ベトナム語で私を軽蔑した言葉を短く吐いたに違いない、その背後にいた《単なる微笑》が声を立てて笑った。短く。そして、彼は《盗賊たち》のなかで一番背が低い。…何言ってるの?
Nói gì ?
その、《家禽》が私に聴こえないように声を潜めて、仲間たちにだけ言った声は、至近距離にいる私にもちろん、すべて聴き取られて仕舞わざるを獲ない。…元気?
Koe kon ?
つぶやいた、私の間違った
Kóe khôm ?
発音を女は嘲笑って、《親しげな微笑み》、その
Kỏe không ?
一番長身で痩せた彼は終に、堪えられずに笑い出し、
Khó e không ?
《見なかったことにしている凝視》が…馬鹿だろ?
こいつ。…馬鹿だろ?…と、たぶん、振り向いて《親しげな微笑み》に言った。私の、さっきからにやついてばかりいた顔を、《家禽》は上目遣いに、いかにも嫌そうに見つめて、…お願いです。
I’m sorry, sir
もう、放っといてくれません?そんな、
Please get out ...
眼差しのままに、額をしかめて、…何言ってんの?
Nói gì ?
こいつ、馬鹿?…私たちの眼差しが、それが礼儀作法で在るかのように、お互いを軽蔑しあって、その、突発的な暴力にまでは至りそうもない希薄な、間延びした、いたたまれないそれぞれの流儀の侮辱をのみ、それぞれまばらに空間に漂わせた。だれもが、だれもを見下していた。私も、彼らの一人ひとりを。彼らは、眼にふれるもののすべてを。
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