小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑤ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
私の前にブン・ボーという、牛肉の、米粉を練ったそうめん状の麵料理、それは古都フエの料理だったが、それが運ばれてきたときに、何を想ったわけでもなく、その、揺らぎたった湯気に瞬いて、私は、…ほら。
Anh
食べなさいよ。
Anh có biết không ?
その、マイの眼差しがつぶやく
Anh
催促を察していた。
Anh có biết
知ってる?
màu bầu trời
マイはいまや、声をさえ
khi trời đổ mưa không ?
あなた、…
Trắng và
立てて笑ってしまいそうなほどに
bẩn và
…食べ方。
buồn
微笑む。笑い顔、と、そう呼ばれ獲る顔のその寸前に至るまでの淡いグラデーションの中の、とはいえ決定的に差異するある表情の、その、笑い顔に崩れ堕ちて仕舞う寸前。声を立てて笑う私に構わずに、マイは自分のどんぶりの中から牛肉をひときれ箸につかんで、無造作に私のどんぶりに投げ込んだ。…ほら。
Anh ...
食べなさいよ。
Anh có biết không ?
マイが、鼻にだけちいさく笑い声を立てたのを聴いた。マイほど陽性の顔立ちをしている女を、私は殆ど知らない。殆ど、という言葉を抜いて仕舞えば、いくらなんでも嘘か誇張になって仕舞う。いつでも身の回りには何人かは、マイのような、たとえ泣いているときですらひたすら明るく、なにもかにもばかばかしくなる顔立ちをした女は、いままでにも確かにいたに違いない。マイは、彼女を見るものすべてを気安くさせて、そして、すぐさま失望させた。マイほど、取り付く島もない女はいなかったから。
彼女に気安く声をかけた男たちも、女たちも、一様に次の瞬間には、その存在自体を見下げられたような、冷酷な軽蔑に見つめ返されるはめに、マイに、あわされるのだった。最初に、初めて彼女を紹介されたときの私のように。あのとき、フエに、何の気なしに近親者の女たちが紹介されていく流れの中で、「…マイ」
Mai
つぶやかれた、殆ど日本語の《舞》に変わらない響きに、微笑んだ私が、こんにちは
Xin chào
微笑んで
Tôi là Jun
はじめまして
Nice to meet you
言ったときに、この上もなくほがらかに見えたマイがくれたのは容赦もない侮蔑だった。…糞。
あなた
どこの豚の糞なの?
死んだら?
例えば、至近距離の耳たぶに、かるく歯をあてられたうえでそう吐き捨てられたような。マイは私を見つめていた。無言のままに。赤裸々な軽蔑をだけ曝して。フエが、声を立てて笑った。むしろ、フエのその笑い声に私は戸惑っていたのだが、フエは、私の無様な戸惑いの意味には終に気付かないままに、…変なの。
She is crazy
言った。
little bit
ちょっと。…ちょっとだけね。
chút
やがて、
một chút
裏庭、リンパ腺をいたいたしく腫らした、病んだ犬に豚の骨を放り投げてやりながら。私に問いかけられたわけでもなく。
誰が?
と。私は。そして私を見つめたフエの眼差しが、そしてつぶやく。
…舞。
Mai
瞬いた彼女のまぶたがふるえた一瞬に、
…舞?
Mai ?
フエの眼差しは薄く
マイ
笑っていた。私はただ、
Mai
その気配を
…そう。
美しいと想う。大して、その容姿の目立った魅力が、どこにあるわけでもなく、フエは、魅力的だと想わせずにはおかない気配があった。
眼の前、ブンの湯気の薄い揺らぎの前で、珍しく曝されたマイの微笑みに、私は彼女の真意を感じた。たぶん、彼女自身に明確に意識されないままに、周囲の、どこかで見かけたことのあるに違いないまばらな知り合いたちに対して、彼女は無言の軽蔑を曝しているに違いなかった。決して、と。…わたしはあなたたちには微笑まない。
なぜなら
とは言え、異国人にだったら
あなたたちは
微笑みのひとつくらい
ただの 以下の存在にすぎないから
くれてやる、と、その、マイの、決して。親しみはしない。…あなたたちには。…と、赦してやりもしない。決して。でも、…ね。…ましよ。
お願い死んで
あなたたちに親しむくらいなら、異国から来た豚以下の存在の、慰み者にでも
ほんと…
なったほうがましよ。
お願い
…わかる?
消えうせて
そんな、明確な意図のない、気配のような憎悪。…そう。と。
そうなの、と、頭の中で独り語散た私を、マイはそれでも容赦なく見つめ、顎をしゃくった。…食べなさいよ。
Nhanh đi
さっさと。
なじるような、あるいは
食べれないの?ひとりじゃ。
穢いものを、軽蔑とともに
あーんして、食べさせて
見下げ果てた、マイの
欲しいの?
ただただ
ばか。…あんた、…
陽性の眼差しが
…ね?ただの
ふれる。私に
ばか。
素手で。…じかに。微笑みに、かすかにだけ震動するまぶたの震えを見た。私は、横向きに、彼女を見つめながら掬い上げた麵を、箸につかまれた牛肉の切れごと口にすすり上げた。
これ見よがしな音を立てて。欧米人ほどではないにしても、その、すすり上げる音響は、ここでもはしたなくは無いはずだった。無造作に、ときにだれもが口に端に立てるものだとは言え。いかにも耳障りに、派手に立てられる音に、眼の前に座った二十代の女がかすかに戸惑った眼差しをくれて、ややあって、すぐさま彼女は眼をそらした。
非難はなにもない。非難より先に、彼女は驚いて、どうすればいいのか分からなかったに違いない。何をしているのだろう?
と。この眼の前の男は、と、そんな、その、彼女にとって、自分の性別を容赦なく意識させるほどには色づいて美しく感じられていたはずの異国の男は、傍らのつまはじき者の女を飢えたように見つめつづけたまま、ずさんに、穢らしい騒音を立てながら、飢えたように喰う。そして、彼が、そこに行ったこともないだれもがいい国だと、正体も根拠もなく言いふらしていた日本から来た男だということくらいは知っている。
何が起こったのかわからないとき、彼女は結局は沈黙するしかない。だから、彼女はただ沈黙した。
マイは、微笑みを崩さず、自分の、半分以上残したブンにはもはや箸をつけようともしない。一気に平らげて、どんぶりを手に、音を立ててスープまで飲み干してやると、マイは、初めて声を立てて笑った。不意に、マイは手をあげた。マイの眼差しは、その挙動に戸惑った私を見逃さず、…大丈夫よ。
ぶったりしないから。
笑う。もう一度、短く声を立てて笑って、マイは私の頭を撫でた。子どもに、いい子いい子をくれてやるように。
テーブルの下、土の地面に、猫が這った。暗く、濃いこげ茶色の三毛。私の足元をくぐって、そこに一瞬だけ立ち止まった気配を落として、鳴く。
長く、ちいさく、その鼻にかかった声にははっきりとした歎きの色があった。猫が、なにも歎いてなどいない事は知ってる。すでに。よく。猫は、ゆっくりと這い出すと、更地の先、まばらに茂った草と土の隆起に疾走し、…発見。不意に、猫は、何かを発見していたに違いない。鼠だったのか、トカゲだったのか。猫の眼差しが捕らえていたその狩られるものの鮮明な息吹の明確な正体など分からない。たしかに、疾走の一瞬に、向こうの草が鳴っていた気がした。
猫は立ち止まった。狩られるべきものの、既なる不在を猫はとっくに気付いていた。自分の狩りの失敗の記憶など、すでに失われていたに違いない。その、彼だか彼女だか、その身体的根拠など犬のようには素直に曝さない、抱き上げて覗き込んでやりでもしなければ確認など一切出来ないそれは、あまりにも女性的に地べたに座り込み、いつくしむように自分の体を舐めた。腕を舐め、手先を舐めて、顔を上げて、振り返った瞬間に、私を捉えた眼差しが、容赦もない敵意と警戒を曝す。
シュレーディンガーの猫それ自体の解よりも
息を殺し、…だれ?
箱の外に漏れ出しているに違いない放射能がなぜ
お前、
観察者をも殺さなかったのかのほうがより深刻な問題だ
だれ?と、眼差しに、責められるままに私の箸は、不意に、マイのどんぶりの牛肉をつかんだ。猫に放り投げてやる私に、私を見つめたままマイは興味さえ示さない。身をかわして逃げた猫は、ほんの一メートルもない距離に落ちたそれに、ただ、何の関心も示さない眼差しをだけ投げた。短く、
なに?
鋭く、
何ですか?
一度だけ。猫が
それは、何ですか?
鳴く。私を正面に睨みつけ、…違う。
食べられるものですか?
これじゃない。
あなたも食べられますか?
違う。
わたしが食べたくなかったら、あなたはどうしますか?
私の髪の毛に、マイに撫でられた触感がいまだに名残り続けていた。
家に帰ると、シャッターは開け放しのままに、ふたつめの居間にフエはもういなかった。扇風機だけつけっぱなしにされて、その、かすかにファンがたてるかたつく音を聴いた。こまかな細部を、部厚い埃りに穢して、躯体のプラスティックの青い色彩をあからさまに日に褪せさせているそれが、一体何年前に買われたまま使い続けられているのかもはや分からない。
ここでは、なにもかにもが古びていた。調理器具も何も。真新しいのは、結婚してこっちに着てからフエが買った、日本製の洗濯機くらいだった。店員からはLGとサムソンを薦められたが、フエは夫が日本人だから日本製にした。日本製がその口の中で洗濯物をぐちゃぐちゃに洗浄し始めるまで、洗濯は当然のように、手でするものだった。テレビも未だにブラウン管で、そもそもエアコンなどもとからついてはいない。
私は、扇風機を消してやった。
午前七時。もうすぐ、フエの準備が終っていてもいい気がし、寝室に入ると、そこにフエはいない。ただ、そこに棲み着いているフエの体臭の、染みついた残り香が匂った。もちろん、と、想う。感じ取られるそれには、私自身のそれも、ないまぜになって含められているのに違いない。ただ、私の体臭など知りもしない私には、認識さえできないだけだ。
仏間を探すと、木戸が全部開かれていた。その、空間を照らし出すあまりにも鮮明な庭の、真ん中近くに二本のブーゲンビリアの樹木が、その枝を自由に曲がらせた巨体を曝し、花々は咲き乱れた。
近くにまで寄れば、そのむらさき色がかった花々が匂う事は知っている。まさに花の、と言って仕舞うよりほかない、花々に固有のあまやいだ匂い。あるいは、しずかに色気もなくなまめきだった、というべきなのだろうか。
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