小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説④ブログ版







charon, eris, pluto

カローン、エリス、冥王星

…破壊するもの




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ


Χάρων

ザグレウス









匂う。無残なまでに、群がった人々の体臭がして、私は耳を傾ける。何を言っているのか分かりはしない僧侶の念仏に。そして、いつか聴き取られたナモアビダファの声に、南無阿弥陀仏、その、

nam mô a di đà phật

よく知られたラインを、想い出した。信心深いフエに、いつも教えてやろうと思うのだった。日本では、それは南無阿弥陀仏なのだ、と。そのくせ、すぐに忘れて仕舞う。いつでも。

祭壇の背景の、垂れ幕の切れ端の向こう、階段を、フエに寄り添われたチャンが、一歩一歩、段を足先に確認しながら降りてきた。確かに、ヴーはかつて、数多の孫たちの中で、その孫をもっとも愛していたものだった。あるいは、フエよりもむしろ。かならずしも、ヴァンにもクイにも心から親しまれていたわけではなかったチャンを、ヴーはそれでも、ヴァンの眼に余るほどにも愛でて遣っていた。チャンは、ぐるぐる巻きの白い布を巻いた下の、抉り取られた陥没の存在をほのめかすというよりはむしろむしろむしろ素直に曝したまま、落ち込んでいるはずのまぶたのいびつな気配は人々の何人にかは、私も含めて、皮膚感覚に訴えかける痛ましさを感じさせたに違いない。

祭壇の片隅に、フエに縋って揺らめきながら近づいていくチャンを、私は見つめた。訝った。その、頭の中はどうなっているのだろう、と、彼女。チャンの。彼女はすでに、何もわからなくなっているのか、かすかには理解しているのか、それとも、意図的になにも反応を示そうとしないだけで、すべては鮮明に理解されていたのか。知性と呼ばれるものは、はたして壊れかけているのか、壊れきっているのか、壊れてなどいないのか。結局のところ、一切の言葉を発さない沈黙の下では、それさえもが定められはしないのだった。

チャンの顔に表情はない。なにも、なにかを毛先ほどにも認識している気配さえもない。フエにしがみつかない右手が、何かを

見ていた

つかもうとして、あるいは

わたしは、最後に

せめても

最後に見たもの

ふれようとして、なにもない虚空を

わたしが

まさぐるのが、私にはなぜか

最後に

見苦しく

それは

感じられた。

あなた

周囲に、涙ぐんでいた女たちの何人かは、一瞬、フエが

わたしのせいで死んでいく、血に塗れた

在り獲ない

あなた。そのとき

禁忌に触れて仕舞ったことを

すでにあなたは

見咎めたとしか言いようのない、とはいえ非難とも言獲ない

ふれていた

ただ危うがった、案じる眼差しを

耳元に羽撃かれた苦痛の

無造作に

翼に

曝した。すぐさま、それらの表情さえもフエは、半ば言い含めてしまったように、…そう。

わたしはおののきのなかに不意に知った。もはやみずからの

そうよね。と、

光を

…あなたはやさしい子だもの、と、そんな、フエを

抉り取るしかないことを

気づかったやさしい眼差しに、フエはひとりでつつまれていた。僧侶のロイ Lợi が、かつて、フエに言った。この子は他の惑星から来たんだよ。だから、たぶん、君たちが見えないものをさえ見る事が出来るのだ、蓮の台座の上で、と、そう言って微笑み、声を立てて笑った、あの僧侶、黄色い僧侶服、いつか、彼は私にも言ったものだった。だから、君は彼女を守ってやらなければならない。

わたしは

ベトナム語しか話せない彼の言葉の

あなただけのもの

ひとつひとつを通訳するのは、フエしかいない。フエは、

あなたが

本人の通訳し難い彼の言葉を、

わたしだけのものなら、あなたのその

恥じらい、

わたしの眼差しは

思いあぐねながら、せめても

なにを見い出しているの?

外国人に聞きやすく、

わたしをあくまで

オブラードにつつんで

排除したままに

約していた。その、ためらいが私には鮮明だった。どんな気分だったろう?みずからの口で、自分を他の惑星から来た、いわば聖なる女なのだという他人の言葉を言い切って仕舞わなければならない気分は。

私は微笑み、僧侶にとりあえずの同意を、フエへのその気遣いの中にくれてやったが、読経が耳を打つ。これみよがしに、どうせなら街中に、すくなくともこのブロック中にくらいは響かせてしまえと、そんなふうに企まれたとしか想えない、マイクをとおした三人の僧侶のそれが響き、響きは質の悪いマイクのせいで混濁した。ときにハウリングを起こし、フエはチャンの手を引く。

できません

私の傍らに、チャンごと寄り添ったフエは

あなたを弔うことなど、わたしは。なぜなら

伏見がちだった眼差しを上げて、私を

もはや

見つめていた。フエの眼差しに、明らかに

あなたはそこにはいないから

宗教的な、ある鮮明な恍惚があった。以前、言った。仏陀になると、額にみっつめの眼が開くのよ、と、おののきと、陶酔と、羨望と、もはや人間ではいられなくなることへのあざやかすぎる恐怖とをない交ぜにして、煮詰め、沸騰させたような、憑かれた眼差し。発熱した、その眼差しに私は眼をそらした。同じ眼差しが、更に潤るんで、私を見つめていた。

かつてだれも

…好きよ。

言語を共有しない他者に言語をもって会話などし獲た事はない

愛しているわ、と、その

当たり前のことだ

鮮明な感情をさえかさねた、文字通り、熱を内側に帯びた眼差し。

私はもはや、彼女から眼をそらす気にもならなかった。好きにすればいい、と、むしろ彼女を許し、見つめればいい。私を、…と、君が見つめたいなら、見つめたいだけ。想う。私は、好きなだけ、その眼差しで、と、私は、見つめればいい。そう、想った。

祭壇の傍らで、クイがフエを見つめていた。その眼差しに、あきらかにフエへの非難がこめられていた。なぜ、そんな理不尽なことをするのか、と。彼は明らかに恥じていた。なにを?

見ないで

あるいは、自分自身を?

わたしを。あなたの前で

父親の葬儀の場でさえ、自分の恥辱を

恥らうしかないわたしの純情を

見せ付けられなければならない、あるいは、人々に曝されなければならない屈辱を?

恥ずかしがらないで

死者たちにもはや言葉など存在しはしなかった。その

チャンの半開きの唇が、かすかに

こっちを向いて

唇は

震えているのを私は

ぼくは

あるいはすでに何のためにも存在してなどいない。むしろ

見た。ひとりで

きみの翼。空に羽撃く

沈黙のためにさえ

仏間のやわらかな日差しの中に

きみの魂が自由であることのたったひとつの証明

閉じこもっていた彼女にとっては、一階の、葬儀の、ものものしい音響と人の気配にじかにふれる事は、確かにその神経を蹂躙されるに等しいことだったに違いない。フエの行為は、否定しようもなくただ自分勝手で他人を顧みない暴挙には違いなかった。

タオは、祭壇の傍らで、ずっと泣いていた。極彩色の男が弔辞を歌い始めてからこの方、ずっと。いまや、その幼さを夥しくのこす身体をへし折ってふるわし、ただ泣きじゃくるに等しい少女の、いたいけないたたずまいが眼に痛みをともなってふれ、まばたく。

翼はふれた

私は。

いつか

なにもかにもが救いようがなく、手の施しようさえもはや

その、羽撃かれた苦痛の鳥たちの残した翼は

無かった、…と、そんな気がして私は無意味で、明確なかたちをなさい、曖昧な、最初から何に対するものかさえわからなかった悔恨らしきものに執拗な温度で苛まれる。

読経が終わったとき、人々を墓地にまで運んでいくバスは、クイの家の前にすでに、5台並んで駐まっていた。先頭車両の、大型バスの運転手はアンだった。人々の収容はアンの指示によってなされることになっており、ドライバーたちはアンの傍らに控えた。いわゆる霊柩車が、その派手な極彩色の色彩を撒き散らして家の前にたたずみ、白装束の近親者たちはヴーの棺を後部に運び込んだ。その重量に想わず罵り声をあげた男の額に日差しが直射した、二十人近くの人間たちが手を添えあって、運び込んだ棺からフエが眼をそらした。不意に、初めて悲しみに襲われたような眼差しを一瞬だけ曝して。

人々の眼差しは、霊柩車の前に、その日、式が始まったすぐからその騒音を忌んだに違いない、どこかに、行き場所さえ告げずに逃げ出して仕舞っていたマイが、なにも言わずにたたずんでいたのを見留めた。フエは、相変わらず、発熱して潤んだ眼差しを曝し続けたまま、ふと人々に見い出されたマイの、呆然とした姿になんの認知も与えなかった。

まるで、不意にすべてを一気に失って、途方に暮れてしまったかのように、マイはただ呆然としていた。棺を担ぎこむのに、明らかに邪魔だったマイを、年配の男が誰か、口汚く非難した。短く、そして、身もふたもなく。失せろ、糞、と、たぶんどいてくれと言っただけには違いないベトナム語は、私の耳には、鮮明に、そんな風な意味として響いた。正気づかないままに、どけようとしないマイの手を、白装束の女たちの誰かが容赦なく引いて、あやうく倒れそうになるマイをアンは見つめた。私も。タオも。その場にいた殆どのまなざしが、よろめいて力ないマイを、眼差しの中に見留め、そして、何の声をかけるわけでもなければ、それに対する何の表情を浮かべるわけでもない。泣いているものは同じ、泣いた表情をそのまま曝して、微笑むものは変わらない微笑みにうずもれ、雑談にふけるものは相変わらずの雑談にくれる。

ヴーの棺の運搬には関わっていなかった私とフエは、その短い葬列のそばに、それを避けて立っていたが、早朝の温かみのない直射日光の中に、花々はいよいよ白くその色彩をむしろすき放題に浮かび上がらせて、興奮しているのかも知れないチャンの息は、傍らにあららぐ。耳障りなほどでさえない、かすかな息の、不規則なわななきとして。

フエはそれを無視しつづけた。聴こえているはずなのに。フエは、私を見つめていたのと同じ気配の眼差しを、眼の前を通り過ぎた葬列の背後に送った。先頭のクイは、ただ、悔恨をだけ、うな垂れたその全身に曝す。そしてマイは日差しの中、霊柩車の傍らにたたずんでいた。

棺と供に、白装束の近親者たちがむりやりその後部に棺と供に乗り込んだ。人々と棺の陰に、クイの姿はもはや見えなかった。ヴァンが、お前もこの車で来い、と、ガラス窓越しにフエに手招いたが、首を振るフエはそれを丁寧に辞する。何も言葉など発していないヴァンの、頭の中で発しているに違いない声がはっきりと耳に聴こえた気がした。人々がバスに乗り込み始め、アンが大声で指示し、彼がマイの手をつかんだとき、呆然としたままだったマイは、不意に夢から醒めたように、そしてその一瞬、マイは叫んだ。

Không!

と、No!その拒絶が

やめてよ!

耳を打つ。誰の目にも、その

恥さらしの糞野郎

あられもない身振りは、不当な拒絶として

糞塗れの豚野郎

映ったはずだった。はねつけられたままに、アンは

死ねよカス

自分の左腕を空中に止めていたが、やがて一度だけ首を振って、彼はマイを無視した。アンは忙しかった。頭のおかしな女にかかずらっている暇などなかった。

マイの眼差しに、その場にいる自分自身をもはや持て余している気配があった。救いを求めたわけでもなく、その眼差しは空中を、なににもふれないままに彷徨って、…ねぇ、と。

わたしは見つめた

不意に、マイの眼差しがチャンを捉えた。

あなたがわたしを殺したときの

そこにいたの?

一瞬だけ曝された

そんな、

悲しげな懊悩あるいは

やさしいささやき声さえ、

…おののき?

聴こえた気がした。歩み寄るマイを、フエは拒絶しなかった。マイは縋るようにチャンにしがみつき、泣き始めたマイを涙さえ流さない発熱の眼差しのままに、チャンごと抱きしめてやり、そしてフエは私を見つめる。

…わたしはいま

かすかに見あげる眼差しの中で。

泣いている

チャンが、

かならずしも悲しくはないのに

あららいだ息を立て続ける。私と、フエと、チャンと、そしてマイは、その埋葬の参列には加わらなかった。かならずしも彼らを見送るというわけでもなく、発車した霊柩車と、バスと、乗り込んだ人々の眼差しのいくつかがさまざまにくれる、私たちへの、彼らさまざまな想い想いの表情の無造作な羅列を、私は立ったまま見やった。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000