小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説③ブログ版
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
遅いわよ。
Tễ qúa
八時半じゃ。「…なんで?」何時にくるの?「九時ぐらい」何時の便なの?「しらない」何人?「…たぶん、」…と、不意に、私は彼が単独渡航なのか、集団渡航なのかの情報さえ獲てもおらず、聴きただしもしなかったことに気付き、唖然とした私を確認すると、フエは私を
見て
二秒だけ、見つめた。
髪の毛、洗ったの
…大丈夫。
…てか
ささやき、…私が
見つめてもいいよ
何とかするわ。言った、フエが私に、自分の髪の毛をバスタオルに羽交い絞めにしたままに、くれた口付けを私は受け取った。
単独渡航であらなければならない必然などなかった。彼の、いまや人種的な統一をさえ欠いた《マフィア》の仲間を多数引き連れてくるのかも知れず、数人の側近を連れているかも知れず、あるいは、彼の女、静華の母親を…たぶん、もう60歳を超えているに違いないが、彼女を恭しくエスコートしながら現れるのかもしれない。単独ではないと考えるほうが、むしろ妥当な予測なのだった。しかし、私はいつの間にかハオは、ひとりで私に逢いに来るのだと想い込んでいた。
いずれにしても、私はフエの身支度を待つしかない。
午前6時半。正確に言えば、7時二十分前、ようするに、朝。まだ時間はあった。扇風機をつけて、髪を乾かし始めたフエの、椅子の上に身を曲げた背筋をなぜてやった、傍らのひざまづいた私にフエは、振り向きもせずに
...Anh
言った。…ご飯、食べてくれば?
Đi ăn cơm
何も言わない私に、ややあって、振り向いて、身を起こし、いきなりわたしの頭を腕に抱きとめると、…なにか、
Ăn đi
食べてきなさいよ。
その、やわらかく拘束された腕の中で、彼女の湿った肌と髪の毛の、水滴の触感と匂いとに倦む。私は甘えたように眼を閉じる。…君は?
…と、彼女の振りまいた体臭に倦んだ挙句に、ようやく、ふと、想い出したように言って仕舞ったときに、「あなたは、ごはんを、たべませんか?」その、聴き取られた私の言葉をフエは口の中になんどか、短く反芻して、いいえ。…と。それは、単なる気配でだけ感じ取られたもの。顔を上げようとした私に、抗ってフエはもういちど、彼女は私を抱きしめなおした。頬に、彼女の、豊かとは決して言獲ない胸のふくらみのかすかな触感が押しつぶされて、「どうして?」私はその言葉を吐き出しはしない。
頭の中、あるいは口の中に、いちどだけささやきかけただけだった。…おなか、
ね?
いっぱいなのよ、と、その答えなどは知っている。言われなくとも、
どうして雨は
すでに。
音響なく降り注ぐことが出来ないのだろう?
近くのブンの店に、マイがいた。その店は焼け出されたブロックの、未だに残骸が撤去されきらない脇の更地に、野晒しに設置された無断のテントに、無理やり再開された市場の一角だったが、そこ、ミーが、あの男タン Thanh を殺して仕舞ったそこに、もはやその日の面影を感じているのは私だけなのかもしれなかった。全身白塗りのミー。フエはあの夜、身勝手な彼女の不意のイベントに声を立てて笑いさえしたものだった。タンの血にまみれながら、何の邪気もなく。
市場は、まばらな人翳を孕みこんで、活気があるとまでは言い切れない人いきれを、それでも曝していた。けなげにも、とは言獲ない、集まった人数相応の当たり前の体温と音声が、こもって耳と眼差しにふれた。雑然としたいかにも穢らしい木材組みの上で調理されるブンを顔見知りの老婆が提供し、私は彼女の名前はしらない。フエなら、知っているはずだった。仲が悪いわけではなかったから。彼女もこのブロックに生きているのだから、家を焼かれ、その肉親の数人くらいは殺されて、あるいは重度か軽度かのやけどに、死にかかるか苦しむか悩まされるか絶望するか自嘲するか、いずれにしても、そんなものに違いない。老婆が私に手を振った。いかにも親しげに。そして、焼け残りの瓦礫かも知れない材木に煮込まれた巨大なスープ鍋がたてた水蒸気の向こうに、でたらめにならべられた椅子とテーブルが散乱していた。人々が6人ばかり、アオヤイ姿の学生を含めて、背を曲げ、旨くも何とでもないとばかりに、いかにもつまらなそうな顔にブンを口にしていた。
女の隣に座って、注文を聴きもしないうちに、私のいつもの注文を用意し始めた老婆の姿を、眼差しに遊ばせたかすかににやつく横顔に、マイは言った。…ねぇ。
Anh...
その声に、私は隣に座っていた女がマイだったことに気付いたのだった。マイは私の隣でブンを食べていた。二十代半ばになっていたマイは、身を捩って私を見つめていた。捩られた身体が明らかに、男の眼差しへの媚を訴えかけて、その、長い首はかすかに傾けられたままになにか、あてどのない物想いだけを私に
わかる?
案じさせようとしていた。明確な
あなたに
意図などなにもないままに。
お願い
フエの親族の中では、一番
探り当ててみて
顔立ちを調わせた女だったには違いない。
自分の力で
娘のタオの、
もはや
何を見ても、
だれにも頼らない
笑ってさえいても昏く想いつめた
あなただけの
顔立ちと違って、マイの
力で
それにはおよそ翳と言うものがなかった。とは言え、親しみやすいわけでもない。咲き誇るような陽性の、そして取り付く島もない突き放した顔には、眼に触れるものを軽蔑しているに違いないその内面の冷ややかさだけが、曝されているように見えた。
微笑んでやる私に、マイは、一瞬でそのにやついていた表情をなくして、ややあって、彼女が声を立てて笑った、その笑い声が耳にふれた。
マイは、集団の中で孤立していた。そう想った瞬間に、私はそれが自分の想い込みに違いないと想った。事実、だれもがつまらなそうに下を向いて、なにも話さずに食べているので、彼女だけが孤立しているは言い獲ない。つまりは、彼女は孤立しているが、孤立してはいない。どこかで自嘲じみた笑いを、その顔に兆した私を、マイはかならずしも訝るわけでもない。
半ば食べ終わって仕舞ったブンを、マイは、箸の先でやわらかく、かき混ぜていた。
運ばれてきたブンが匂いをたてて、悪くしている腰をいかにも重そうに少しだけ曲げた老婆の衣類の、饐えたような、煙の染み付いた匂いが空間に、その一瞬にだけ流れた。私を見つめたまま、その眼差しを外そうともせずに、そのくせいたたまれないように、黒眼をゆれ動かし続けるマイを、私は訝った。十分美しいにもかかわらず、そして、何かの奇矯な振る舞いや、理解不能な挙動、あるいは、許せない暴力を曝すわけでもない、むしろ、客観的にはつつましいばかりのマイは、その周囲の誰にも、その親族そして実母をも含めて、ただ、疎ましがられてばかりいた。フエくらいのものだった。なにか、想いつけば彼女に話しかけてやるのは。
死者の弔いを
あの、ヴーの葬儀のときにも。
死者たちに任せる事はできない。なぜなら
数日前の
そのとき
ヴーの葬儀。早朝の4時半に、
死者たちはすでに死んで仕舞っていたから
珍しく、先に起きていたフエに起こされた。その日が、ヴーの一週間続いた葬儀の日々の、最後の日、…彼が埋葬される日だという事は知っていた。一週間、毎日着続けていた、彼女の茶色い仏教服がフエの身動きのたびに匂いたち、その、彼女が移した体臭をも含めた、粗い麻の匂いに私は顔をうずめる。フエはベッドに腰掛けて、私を見下ろしていたのだった。横たわったままの私を胸に抱きしめて、好きなまま薄い胸にうずめさせ、起きなさい、…と。
見張り塔で向こうを見張るその人は言ったのだった。ほら
教え諭すやさしげな
…と。目覚めなさい
フエの声に、
J. S. バッハさんが暇つぶしの演奏を始めますよ
従おうとした私が
巨大で轟音を鳴らす原子力稼動の最新のオルガン・システムで
身を起こしかけるたびに、それに抗うフエの腕は、私の頭を胸に押し付けて、私の髪の毛の匂いを嗅ぐ。
そのとき
早朝、曝された私の素肌に、
僕は何度目かに知った
かすかな
きみを愛していたことを
涼気がふれていた。
いつか
…ね
5時半過ぎに
きみに
そっと
クイの家につくと、
口付けしよう。ただ
息を殺して
埋葬の儀式は
永遠を誓うそのためだけに
猫が殺したのは逃げ遅れた片足の鼠
始まっていて、この国の神話に基づくのらしい、古代の兵士じみたいかついメイクをこれでもかと施し、付け髭をわななかせ、極彩色の衣装を着た男が舞踏、とまで言獲ない、かったるい所作を祭壇の前で見せ付けていた。やる気のない戦闘の合図か、介護施設の馬鹿なボランティア演劇か、田舎の神楽舞いかのようには見えても、とても、誰かがこれから埋葬されるのに捧げたものだとは想えない。銅鑼が鳴らされ、太鼓が鳴り、楽団が絡み合った細分化されたふしを、まるで拍子のように重ねて、耳の中に、そしえそれらは単なる騒音でしかない。韓国ポップばかりベトナム人たちの耳にとってさえ。数個の民族弦楽器と、使い古されたフェンダーのギターが鳴り響く。音響は、狭い空間の中にこもる。
人々は立ってそれらを見るともなく見ていたが、極彩色のその男は弔辞のようなものを歌い始めたに違いない。途切れのないベトナム語が奇妙なふしにのた打ち回りながら、そして、親族の何人かは、不意に、唐突に泣き崩れて仕舞うのだった。
おかしな風景に見えた。異国人の私にとっては。どこにも、彼らのさめざめとした、堪えきれずにこぼれて仕舞った涙を誘うような、気配はなにも感じられなかった。神話の中で、これから大蛇を退治にでも行くと、そんな口上を垂れているかのような極彩色の、けばけばしいふとっちょの化粧した男の、ふとくなまめいていやらしい声が、親族たちを泣かしめ、いつか、背後に私の腕をつかんだフエも、堪えられない涙をこぼして仕舞っていることくらいは知っている。私は呆然とする。フエは、泣いている。なにが起きているのかわからない。フエは、せつなく、悲しく、苦しく、もはや自分自身さえもが痛ましく、どうしようもなくて、…もう、と。
ギターがハウリングを起こした。空間にひずんだ爪あとが長く、きざまれて、あるいは。
…泣くしかないのよ。そんな、たたずまい。フエの。そして、極彩色の男の向こう、祭壇の花々の陰に翳って、タオは一人で立ちつくして、タオが泣いている。声さえ立てずに。もちろん、彼女はその周囲を老若の女たちにうずもれさせて入るのだが、私の眼差しはむしろ彼女の
こっちへ来なよ。…いま
悲惨な
あなたがここにいて欲しい
孤立をしか
…って、そう
感じ出さない。
たぶんだれかが言ってたよ
葬儀には、歩道どころか車道にまで、二百人近い近親者が群がって、想いおもいにヴーを弔うか、まとまりのない想い出に淫するか、ただ、朝のひとときをいつものように無駄口に消費するかしていた。
神様か何かの極彩色の男は仕事を終えて、祭壇の端でそのまま衣装を着替え始めるのだが、三人の僧侶が念仏を唱え始めたときに、フエは待っていて、と、つま先だって私にフエが耳打ちする。耳に唇がふれ、…なに?
あなたは光
と。その、
いま
声に出してかけられないままの言葉を、いっぱいに
あなたはわたしに
曝した私の眼差しをフエは
ふれた
見つめ、名残りを残しながらやがて、彼女は階段を上がって行った。背後のどこかで、風に流された、誰かが吸った煙草の煙が匂った。
匂う。無残なまでに、群がった人々の体臭がして、私は耳を傾ける。何を言っているのか分かりはしない僧侶の念仏に。そして、いつか聴き取られたナモアビダファの声に、南無阿弥陀仏、その、
nam mô a di đà phật
よく知られたラインを、想い出した。信心深いフエに、いつも教えてやろうと思うのだった。日本では、それは南無阿弥陀仏なのだ、と。そのくせ、すぐに忘れて仕舞う。いつでも。
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