小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説②ブログ版







charon, eris, pluto

カローン、エリス、冥王星

…破壊するもの




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ


Χάρων

ザグレウス








町の焼かれたブロックの、焦土じみたいまだに凄惨なたたずまいなど当然のこと、一切の考慮にいれずに、その、はるかに離れた更地だらけのブロックはただ、しずかでいつもの人気もないたたずまいを曝していた。

河の向こうに遠く、…とは言い切れない近く、でもないそこに、平地に憮然と観覧車が見えて、それは廻るどころか、電飾に点灯されてさえいない。日本のレジャー会社が開発した遊園施設は、未だに外人観光客を誘致するほどには至らず、同じ会社がバナーに建設した遊覧施設には遠く及ばない、閑散を曝しているはずのそのアミューズメント・パークは、ちょうどいま、昼休みなのかも知れなかった。日中に、現地の人間などほとんど来はしないのだから、誰もいないのに開園させるのは金の無駄だ、と、そういうことなのかもしれない。要するに、開発され始めていまだに完全には稼動をはじめないままの、打ち棄てられてはいない半ば廃墟化した無人の巨大施設が、バイクを止めた眼差しのそこにあった。

路面、足元に、そして見渡した更地の草花の散乱に、未だに朝方の雨に濡れた気配があった。

喫茶店に人の気配はなく、そして、客などだれもいず、赤い安っぽいプラスティックの椅子とテーブルがいつものように歩道をまで埋め尽くして、眼の前に並べられていた。並木がまだらな翳りを、それらの散乱に自由に与えて昏ませてさえもいた。

粗雑な、こんなところに人が住めるわけもないだろうと、想わず眼を疑ってしまう廃墟じみた小さい家屋の庭に、テーブルの脇に木立があって、その樹木の下の木陰の席に座り、とはいえ、誰かが出てくるわけでもない。

私は椅子に背をもたれた。ほんの数週間前、ここで結婚式がおこなわれたのだった。あの包帯だらけの男の傷は癒えたのだろうか。ミーの指示の許に集団リンチを喰らい、やがては自分の傷付いた体が下敷きにしたミーを、私たちの家のブーゲンビリアの下で壊して、殺して仕舞ったあの男は。元気なのだろうか?…あの男たちと、ミーの女だったはずのあの女は。傷だらけの男は自分でミーを破壊しながら、さかんに鼻にかかった甲高い囃し声を立てて、誰かが流していたダンスミュージックを、そして、ミーの女さえ不意に顔を上げ、スマートホンの画面から眼を外して、誰かの嬌態に声を立てて笑ってやった。

彼らは歎いたに違いない。それぞれに、ミーを自分のものにしていたあのミーの女は、傷だらけの男は、金髪の男、背の低い丸顔の男、あるいは、いずれにせよそれら、あの男たちは、自分たちからミーがもはや永遠に失われて仕舞った事実に、ときにはおののき、呆然とさえしながら、とはいえ彼らは歎いたに違いない。だからこそ、町のあのブロックは焼き尽くされたのだし、《盗賊たち》の最近の沈黙は、あるいは、失われたミーに対する覚めやらない歎きと追悼の喪をこそ意味していたのかもしれない。つまりは、彼らは歎く。

女の嬌声がした。シャワールームから出て来たらしい女が、その豊満すぎた体を粗いTシャツにつつんで、眼差しが不意に捉えた私に声をかける。近寄ってくる彼女はたしかに、あの、結婚したカフェの女だった。そして私が抱いた女。

彼女は、いま、ひとりしかないない。女は、色めきだった声を立てて笑っていた。

想わず我を忘れて私に駆け寄る途中で想い直し、バナナの木の横で立ち止まった女は手招いた。…ねぇ。

あなたはたしかに

こっちよ。

わたしを見つめていた

女の眼差しは、媚態を曝すことさえ忘れて、むしろ私を非難するような眼差しに一瞬で埋まり、…駄目。と。

そこにいてはいけない。

やわらかな日差しに

そこはあなたがいるべき場所では無いわ、…と。

非議の声さえあげもしないで

廃墟じみた家屋のすぐ脇の、日陰のテーブルに、女は椅子を並べなおした。…ここ。

あなたはたしかに、わたしを

それに何の意味があるのかはわからず、

見つめていた

女の名前は未だに知らない。女の方だって、私の名前も、ひょっとしたら国籍さえ知らないままだったのかもしれない。結婚式に列席したフエかミーが、知らない間に女に耳打ちしたかも知れなければ、そんなことなど匂わせさえしなかったかも知れない。あるいはその友人たちにだけはその気もなく耳打ちしたものの、その耳打ちは女にまでは廻っていかなかったかも知れず、女はみずからミーに聴きだしていたかもしれない。いずれにしても、女は体を揺らしながら、そして、椅子を叩いて私に命じていた。…ここよ。

…と。微笑む。

私は、私が微笑んでいることは知っていた。そうするしかなかった。あるいは、それは、女の眼差しには、自分を知って仕舞った男が、自分をふたたび、その体をか、心をか、なんにしても何かを焦がれ求めて辿り着いて仕舞ったことだけを意味した、力ない微笑みであったに違いない。女に

あなたは

従う私を、女は声を立てて見つめ、すでに

確認しに来たのでした

女の眼差しに確信が浮んでいたのには

すでにわたしが

気付いていた。…わたしの男。と、その

奪われてしまっていたことを

留保ない確信に、とはいえ、確かに、

あなたは

私は

確認しに来たのでした

彼女を知っている。彼女は、私を、つまりは

すでにわたしの心さえ

あの雨が降った日。

あなたに奪われていたことを

女の背後に丸見えのベッドルーム、その

あなたは

粗末な寝台の上で彼女の首を

求めていたのでした

絞めて仕舞ったときに、と。

いま、あなたにだけ

思い出す。

捧げられるわたしの同情を

私は。想い出すと言うほどでもない記憶の想起が、私の

悔恨を

眼差しにふれて、

絶望を

笑う。そのとき、

あるいは

いまの、

略奪を

眼差しの捉えた女と同じように

あなたが略奪しようとする女は

彼女に声を立てて笑い、

ここにいます

笑った。女のその、眼差しの先、天井の下に立った笑い声を私は聴いていたのだろうか。手のひらに触感がある。その、首を締め付ける触感。緩めそうになり、緩めそうになったその手を私は、ふとした逡巡の一瞬のうちにも、締め付けようとした力を維持させて、死んで仕舞うに違いない。このまま、締付け続けたら、と、想った声が、不意に想い出された記憶のように、頭の中にどこかに反芻され続けた。私はそれらの声の散乱を耳にして、女は身をのけぞらせて、そして曝されていたもの。雨の日の日差しの中に。反り返った女の、明らかに彼女が女であることを明示したその身体の隆起と陥没、つまりは曲線。皮膚が汗ばみ、気温と、体温。亜熱帯の雨。肌は、かすかに肌寒ささえ感じているはずなのに。

女が笑っているのか、苦悶していたのか、それをはもはや私の意識は捉えなかった。

君はいつも

雨上がりの日陰の中、不意に

まるで死んだように眠り、眠っているだけであるかのように

再会が叶った私に、女は

そのとき、すでに死んでいた

眼の前、いつか、いたずらじみた表情を曝して突っ立っていた。

物音らしい物音さえ、耳には感じられない。そう、想った瞬間に、私の

手のひらを確認した

聴覚を満たしたのは、さまざまな

…触感

かすかな、あふれかえった

君を

音響の

殺して仕舞った

群れ。

その触感

風が吹くたびに樹木の、枝の、葉の、それぞれが揺れ、こすれあいしたささやき声以前の微弱音が戯れあって、遠くにバイクの音がする。どこかで、誰かが流しているのかも知れない、割れた音楽の名残りさえもが、その原型をさえ留めずに、そして女は、息遣う。私の目の前で。

女は、みずからは決して意識などしないままに、しずかに勝ち誇った眼差しをくれていた。いずれにしても、

愛してるのね?

彼女にとって、私は

欲しいのね?

彼女の男だった。彼女が

奪いなさい

誰の妻だったろうがなんだろうが、彼女にとって、そんな事は

想うがままに

知ったことではない。

自由に

夫は、

好きなように

働きに出ているに違いない。あるいは、盗みを働きにでも?…そんな風には見えなかった。すくなくとも、なにかの工場くらいでは働いていそうではあった。女の髪の毛が匂い、湿気を含みながら気温を上昇させる大気の中に、いつかさまざまな感情のしずかなざわめきに倦んでいた、その女の肌だけが、私の鼻腔には匂いたつ。だれにも自分の匂いが感じられる事などはできず、そして女が私の体臭を、いっぱいに愉しんでいることはその眼差しがすでに曝していた。

…好きです

私は、女が

好きにしてくださいませんか?

なにを求めていたのか、やっと気付いたのだった。上目遣いの、種のばれたいたずらを仕掛けた眼差しに、声を立てて笑って私が、彼女の頬に口付け手やったとき、女は

いつか見出して見たいと想った。私はなおも、たとえば、遠い

表情を崩して、私を

冥王星には降っていたかもしれないメタンの雪を

許した。私は、彼女がその喉の中で立てた笑い声を聴いた。

ハオがダナン国際空港に着くのは午前の九時だったから、時間はまだあった。ハオは出迎えをはかならずしも要請していないのかもしれなかったが、若干ではあっても、馴れない異国に心細く、あるいはすくなくとも不自由ではあるには違いないハオのために、空港に迎えに行ってやる必要が私にはあった。かならずしも友情とまでは言いきれない。

そして、彼が、人種的には中国人だろうがなんだろうが、フエにとっては夫の故国日本から来た日本のお客様だった。ハオのダナン来訪は、日本に行ったこともなく、私の両親にさえ、スマートホンの画面以外ではあったことのない彼女にとっては、特別なイベントになるはずだった。いずれにしても、私はフエのイベントに、殉じて参加してやらなければならない必然があった。

なにもかにも言葉が足りないハオのメッセージに、ここでのスケジュールや渡越目的どころか、彼が現地の滞在先をきちんと押さえているのか、そもそもそれさえも、私はなにも知らなかったのだった。とはいえ、いかにもなハオ流儀で、ホテルさえ押さえずにほぼ想い付きでベトナムにまで来て仕舞ったというのなら、フエと私しか住んでいない家屋に、ハオが泊まるべき、あるいは棲み着くべき空間など、いくらでもあった。無数に散乱し、埃をかぶる空きっぱなしの部屋の群れ。ハオの到着は日曜日だった。

いつものように6時には起きて、近所の庭先の露店のカフェで、ひとりでコーヒーを飲んで帰って来た私を、ふたつめの居間の真ん中で出迎えたのは素肌を曝したフエだった。華奢すぎる背を曝して突っ立ったまま、気付いて、振り向いたフエは髪の毛を相変わらずバスタオルに打ちつけ続けていたが、…何時?

Khi nao ?

言った。

なにが?

Nói gì ?

何時?

Lúc nào …

…に、…何時に、「ねぇ、…」行くの?「…あなたは、」…空港へ、と。私の頭の中に、言葉が次第に補われていくのをフエは待つでもなく待って、

いつですか?

反応の遅い私をしずかになじるような眼差しを、沈黙の、

プルートのメタンの雲がこまやかな雪の結晶を知ったのは?

かすかに尖らせた唇のままに曝して、

いつですか?

…八時半。

月の海が自分が単なる更地に過ぎないことを自覚したのは

言った私に、遅いわよ。

Tễ qúa

八時半じゃ。「…なんで?」何時にくるの?「九時ぐらい」何時の便なの?「しらない」何人?「…たぶん、」…と、不意に、私は彼が単独渡航なのか、集団渡航なのかの情報さえ獲てもおらず、聞きただしもしなかったことに気付き、唖然とした私を確認すると、フエは私を

見て

二秒だけ、見つめた。

髪の毛、洗ったの

…大丈夫。

…てか

ささやき、…私が

見つめてもいいよ

何とかするわ。言った、フエが私に、自分の髪の毛をバスタオルに羽交い絞めにしたままに、くれた口付けを私は受け取った。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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