小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説①ブログ版
これは、時間的には《ザグレウスは憩う》および、《それら花々は恍惚をさえ曝さない》の続編、
内容的には《紫色のプレリュード》と《わたしを描く女》も含めた、ようするにそれまでの物語を総括していく物語です。
《わたしを描く女》に出てくるハオという人物が、ある奇妙な右翼的言動をする外国人青年を引き連れてくることから、物語は始まります。
簡単に言って仕舞うと、《ハオ》はこの世界を滅ぼして仕舞おうとしているのですが、一体、彼の破壊工作の結果はどうなるのでしょうか?…という、そんな物語進行の中、かなり哲学的な展開があったり脱線に脱線を重ねたりする物語です。
読んでいただければ、うれしいです。
charon, eris, pluto
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅱ
Χάρων
ザグレウス
序
ゆっくりと、
すう…
その
…っと、その
水滴が燃え上りながら
音もなく
上昇した。
なにも、…もう、なにも
空間を。
なく
まばたき、一瞬で体中は燃え上がった。
その、前触れもない途方もない燃焼に痛みを感じる前にはすでに、一瞬だけ、とっくに感じられてはいたもの。容赦のない違和感。…在り獲ない、と。
こんな真空の、暗い、なにもない、空間それ自体の気配さえもない、ましてや色彩などありはしない空間の中に、
その人々は常に
こんな炎など
ささやきあったのだった
燃えあがって仕舞うものか。おののきや、戸惑いなど
空の下、たとえば青として認識された色彩の洪水のなかにも
明確なかたちをなす前にすでに
舞い降りた鳥たちの弔いの日に
全身は赤裸々な痛みに文字通り燃え上がり、じかに焼け付く、痛みの鮮烈そのものに飲み込まれてもはや、見い出していた。
暗い空間。
鳥たちは
星々の光。
鳥たちのみずからの小刻みな眼差しの下に
おごそかに、
鳥葬にふされた。それら
もはや大気に遮断されないそれらの明白な光。神々は
撒き散らされた羽根の群れにただ
ふれ続ける。…光。
午後の
それらすべて、あまねくすべて。
光がふれた
救済を、…
と。ただすべての存在の、存在したもの、存在し獲るもの、存在しなかったもの、存在し獲なかったもの、それらすべて、ありとあらゆる在り獲るすべてを容赦もなく、そして痛み。
知ってる?
もはや、それに対してだけ
知ってた?
研ぎ澄まされたかのように、純粋に
…ってか、笑っちゃうくらい
苦痛そのものしか感じられはしない私は
と、…いうか
不意に正気づいて、
あなたはもう
瞬く、
わたしは古代マチュピチュの雨が好きです
その、
救われました
私のまぶたのふるえに、フエは
もう
微笑んだ。…どう?
完璧に
と。
失われました
それ。私の母親が日本で買って、フエのために送ってよこしたいかにも少女じみた、ひらつくベージュのアウターを胸に着けて、…似合うかしら?
Đẹp không ?
戯れに、私にささやきかけてみるフエは幸せだった。フエは、美紗子とは一度もじかに会ったことはない。母親はひとりで海を渡るには年老いすぎ、かつ、その夫は脳梗塞のために半身不随になって借家の中の介護ベッドの上で横たわっていた。そして、一人息子は自分たちを棄て置くままに放置し、私には日本になど帰る気もさらさらにない。だから、実際にはフエを疎んでいるに違いない美紗子にスマートホンの画面以外で逢って、実際にふれた眼差しと仕草さと差別的な心情の兆しに傷付いて仕舞う可能性などもない。
日本から友人が来る、と私が言ったとき、フエは一瞬だけ想いあぐね、悲しげな色彩をその眼差しの端に匂わせて、そして、終には微笑み、言った。
Là ...
どの女なの?
ai ?
あなたが過去に抱いた女のうちの、いったい、どの
Bạn nào ?
女なのよ、と、その前触れもない疑いと嫉妬が、それに戸惑わせる前に私をすでに笑わせていた。フエは嫉妬と疑いに好き放題淫して、自分勝手にひとりで戯れて、そして私は上に乗りかかった彼女の身体に戯れる。
その男はハオだった。
日本にいた頃、慶輔とそうだったのと同じように、逢うともなく逢い、語るともなく語り合っていた。途切れめというほどの途切れめもなく。くされ縁と言って仕舞えば話が早い。とはいえ、そうとも言い棄てられない、ある、曖昧な共感のようなものが私に取り付いてはなれなかったのも事実だった。ときに理不尽に、想いつきで振舞う彼を持て余しはしても、彼に、わずかな癒しもふれあう悦びも感じたことなどないままに。…いつ来るの?
…と。
Khi nào ?
やがて問いかけるフエに
Bạn đến Việt Nảm
私は、その頬に唇を口付け以前のやさしさでふれ、
Ngày mai
「…明日。」
梅の日
言った。
消音されていたLINEにメッセージが入っていたのには、授業が終ってから気付いたのだった。二日前の日本語学校の朝のクラス。職員スペースの中で、スートホンをいじっている私にベトナム人の女教師は媚態を曝して、「奥さんですか?」
おくっぅさんでっか
「…いいえ。」私の微笑を、「残念ですが、」ユェム Duểmという名のその女は「…違います。」覗き込み、「妻では在りません。」…友人、と、そう言ったあとで、不意に友達と言い換えた私に、その眼差しが「友達です。」一度だけ動き、
「…友人。」ユェムが言った。
ゆずぃん
「分かります。知っています。」…そう。と、必要以上に身を寄せたユェムの、あるいは
わかるぃまっ
プライドを傷付けられた抗議を
していまっ
ひそかに曝した眼差しと、その気配を至近距離にうざったく感じながら、つぶやいた私の声を「…そうですか。」ユェムは作られた微笑みとともに聴く。
ハオは、明日ベトナムに行く、と、それだけ短く書き送ってきていた。かつてのチャイニーズ・マフィア崩れのハオ。中国の急激な繁栄の軌跡のなかに取り残された、日本におけるチャイニーズ・マフィアの組織自体の変容の中で、もはやどこのどんなマフィアなのかも定かではなく、要するに単なる《外国人マフィア》の破壊分子に過ぎなくなったハオは、日本か、台湾か、タイランドかフィリピンか、いずれにしてもどこかですき放題に遊んでいるはずだった。手当たり次第に人々にかれらそれぞれに固有な、深刻な不幸と降って沸いた悲劇をプレゼントしてまわりながら。愛すべき人間では決してないことなど、誰に言われるまでもなく分かってはいた。
いまだに一応の拠点を歌舞伎町に構えた圭輔と違って、私は本来、もはやハオなどとつるんでやる必然など何もなかった。
旧名サイ・ゴン、ホー・チ・ミン市のタンソニャット国際空港を経由して、ダナン空港にまで来るのだという事は、いつ来るんだ、ダナンには来るのかと、私がなんどか思いつくままに送った数本のメッセージの返答に、ようやく返してよこした返答で知れた。あなたに逢いに行きます、と、送られたメッセージに、空港まで迎えに行くよ。
《何日ぐらいいるの?》
《何時着?》
《東京から?》
《どこ行くの?》
《迎え、いるよね?》
《旅行なの?》
《スケジュールって?》
《おれの出迎え。必要?分からないだろ。道。》
《仕事?》
《何人なの?》
《車必要?荷物ある?》
《ベトナムに知り合いなんていたっけ?》
《ひとりだけ?》
《荷物たくさん?迎え、バイクでいいの?タクシーいるの?》
《両替、ドル駄目だよ。》
《というか、入国大丈夫ですか?》
《なんか、困ったことがあったら、連絡しろよ、…》と、さらに打ち込もうとした瞬間に、《午前の9時》一言だけ、ハオは送ってよこした。そのフォントから、不意に私はハオの、意図的な中国語なまりのいかにもチャイニーズじみた日本語を、感じ取った気がして一瞬、笑った。
6月の始め。日本だったら紫陽花の咲いた梅雨に違いない。窓越しの荒れた学校の裏庭に、曇った日の淡い日差しがそれでもけなげに直射した。
学校を出て、その午前十一時、すでに降り注ぐ光は正午のそれ以外のなにものでもない。
日本の貿易会社で経理をしていたフエはどうせ家にはいないし、その弟の顔など当分見てはいない。家には、住み着いた数匹の猫以外には鼠以外生き物の気配などない。そして鼠は猫たちに趣味かスポーツとして屠殺されるためだけに繁殖していた。庭と更地にきりきりと、ときに歎くような歯軋りの音を立てながら。バイクの上で一瞬迷った挙句に、私はあの喫茶店に行った。
日本語学校から反対側に、川沿いにバイクを走らせれば、ハン川が視界の端にきらめく。泥色の河は、此処では無い奥地の山脈側のどこかしらかの日照りのために、いつじるしく水位を減らして、むしろかすかに澄んだ色彩を与えられさえし、日差しの反射に白濁する。海のそれとは違うさざ浪程度の、水面のこまかなざわめきが無造作に、かつ繊細に散らされて、それら反射光はただただ白い。
その日も、その日の昨日も、その日のおとといも、午前中は雨だった。南部のスコールを想わせた土砂降りが一時間から三十分程度降り、出勤時間、雨にぶち当たったフエの不興を買った。その、降雨の時間さえ過ぎれは、白い雲をいただいた空はその、散らされた細かい切れ目にひたすら青い色彩を曝すしかない。
何故だろう、と想った。なぜ、私があの喫茶店、《盗賊たち》のたまり場になっているに違いない喫茶店に用などあるのだろう、と、私は自分で自分の選択ともいえない不意の決断を訝り、ミーが殺されて仕舞ってからほとんど二週間ばかり、《盗賊たち》はもはや、私たちの周囲には姿を顕してはいなかった。彼らが逮捕されたという話も聴かず、彼らの新しい犯行の話も聞かず、町の、彼らが自分勝手な報復のために放火したブロックは、いまだにその傷を癒すことなく葬儀さえままならないままに、進まない家屋の改修に追われていた。
もっとも、葬儀くらい、どこか他の親族の家屋に場所を移して行ったのかもしれない。二週間。死体の腐敗は待たず、腐敗が始まるまでには、いずれにせよ遺体は埋葬されなければならない。
町で葬儀を見掛け見るたびに、私は町の焼死者のそれを疑ったが、それがそうであるのかそうでないのか、私に確かめるすべはなかった。結局は、私がこの町とは切り離されてある異国人に過ぎないことだけを知った。それに伴う孤独感があるわけでもない。かならずしも、彼らに同化しなければ生きていけないわけではない。拒絶する気もなく、支配か啓蒙を目論むほどに彼らに興味もない。ならば、私は、いわば、彼らに単に寄生しているだけに過ぎない。虫に寄生する花、樹木に寄生したきのこ、魚に寄生し、あるいは猫に寄生する昆虫、それらに、私は殆ど変わりなどない生態を曝しているに違いない。
町の焼かれたブロックの、焦土じみたいまだに凄惨なたたずまいなど当然のこと、一切の考慮にいれずに、その、はるかに離れた更地だらけのブロックはただ、しずかでいつもの人気もないたたずまいを曝していた。
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