小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑯ブログ版
ザグレウスは憩う
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ
Ζαγρεύς
ザグレウス
戦場にその顎を吹っ飛ばした彼の友人タンThanhの血まみれの顔にさえ、光はじかに触れていた。三日前に。彼が手榴弾に吹き飛ばしてやった韓国兵の引き千切れた四肢にも。知ったことではない。…光。
神々は、
朝、起きたとき
その憩いのやわらかな光のうちに、
わたしは
すべてを
すでに
救済しようとしていた。
救われていたことに
まばたく。
気付いた
フエは。一瞬錯覚した。目醒めたままに見出した夢の記憶の、その戦禍の惨状をもたらしたのがチャンだったかのように。そして、その一瞬の錯覚をすぐに嘲笑って仕舞いながらチャンは、そして、クイはその傍らに想うのだった。フエを、なんてけなげな女なのだろう?
親族の女たちのだれもが、ヴァンをも含めてまるで穢らしい禁忌にふれた生き物の残骸をみるように、チャンをその眼差しに収めるしかない中に、フエだけはかすかな微笑さえ浮かべているではないか。やさしく、
あなたが
眼差しにふれるもの
不意に
すべてを
天使の
いつくしんではなさない
その
微笑み。
こぼした
クイは
微笑みの中に
そっと
わたしは
その背をなぜてやり、その手のひらのふれる触感に
憩う
フエは気付かなかった。…なぜ?
光の中で
と、フエは想った。なぜ、こうまでしてあなたは生きているの?と、チャンに、フエは、…なぜ?
想う。
神々の救済の光に、あなたは夥しくその身を蹂躙されながらも。
フエは、聴く。チャンの猿轡をかけられた口が、下手糞な笛が鳴らした低音のような、ながいながい音響を、息遣うたびに立てているのを。
その音響を。
耳に残るというわけでもなく、耳の奥にそれらは反芻されて、フエは見つめた。気付いた。自分がその音響に耳を澄ましていた事実を。あるいは見つめ続ける気もなく、その必然性さえ感じないままに、眼差しの向こうに曝されているもの。
隔離病棟の、集中治療室の中の、開け放たれない青いカーテンに透けた色づいた光に照らし出されたチャンの体躯の上の蒼い翳り。チャンは寝返りさえ打てない。拘束された四肢は、突発的な痙攣と痙攣とのあいだに、それでももがくのをやめない。這えない芋虫のようだと、フエは想い、つぶやく。頑張って、と、
Cố gắng
そう言ったフエの言葉に背後、ヴァンは想わず涙ぐんだ。
フエが、私を見つめ続けていた。…愛しているわ。
と、
em
その
yêu
口には出されない言葉を
anh
もっとも
yêu
鮮明に
em
言い表そうとしたかのように、
đẹp
フエの
em
眼差しは、性欲とは
yêu
あきらかに違うかすかな色づきを曝してなまめき、潤ませられて、そして私を捉えていた。
その、上目遣いの眼差しを、いつか私は持て余していて、楽団たちは奏でる。相変わらずの、その、いつ果てるとも知れない追悼の音楽。人々はみんな、喚き声のような声を立てて話し合い、戯れ言にうずもれ、だれもその、フエの眼差しには気付こうとしない。眼をそらし、見なかったことにして仕舞うわけでもなくて。
彼女の眼差しにとっくに気付いていた私はむしろ気付かなかったことにし、投げ棄てた眼差しが捉えたアンは、諦めたやさしい眼差しを、ときに私にくれていた。かすかな軽蔑さえ感じさせた彼の眼差し。その
…ねぇ
意味は私には
馬鹿なの?
わからない。
アンは近親者に、フエの家屋の土地の売買について話し込まれてるらしかった。聴き取れるはしばしの、単語の意味が私にその内容を推測させた。不意に、私はフエを見つめ返し、その眼差し。
私をだけ、見つめて放さない、その、そして確かに、私も彼女を愛していた。彼女が何であれ、私は、あるいは、…愛しているわ。
em
つぶやき続けた。
yêu
フエの眼差しは。
anh
終に、
em
思いあぐねた先に、一瞬だけ
yêu
失心して仕舞いそうな意識の白濁が、私の頭の中にじかにふれたときに、フエの頬に口付けてやろうとした私の眼差しは捉えた。
奥の階段から降りてくる人翳。
一面に吊り下げられた装飾布の切れ目の向こうに垣間見られた気配。それ。唇の不意の、中断された接近はもはや、その意味を失って私はフエの頬の傍らにたたずむ。至近距離にフエの体温があった。匂われたもの。髪の毛の。
匂い。
それ、…匂う。
祭壇の奥から、不意にマイがなにもかも、目に映るものすべてがつまらなくて仕方がないのだと、非議をさえ訴えずに突き放して仕舞った眼差しを曝して、そのたたずまいのすべてに不埒さを浮かべたままに顕れたとき、人々は彼女を完全に無視していた。
マイは、曽祖父の葬儀にもかかわらず、ただの地味な私服を着ていて、余所行きの服に着替えさせたタオを背後に従えていた。
タオの眼差しに、あきらかなおびえがあった。衆目の前で、禁忌にふれる愚をあえて冒さなければならないことを恥じている、その。何が禁忌なのかはわからない。家族の中に放し飼いの母娘が葬儀の催しになど参加しないことなどだれもが認知していた。彼女たちは、いずれにしてもそんなものだった。美しいといえば美しい、調っているには違いないマイの顔は、そして、一切の媚びの表情を拒否して仕舞えば、むしろどこかで穢らしく不細工にしか見い出せない。人間の顔の造型の抱え込む本質的な、気付かれないままに明らかないびつさをだけ、それは無造作に曝していた。いつも、そうだった。
マイは、フエとの結婚の挨拶に訪れた私のとの初対面のときにさえ、にこりともせずに、…あら?
anh
いるの?
Nào ?
そんな眼差しを投げた。ふとした疑問形の息遣いををなぞることもなく。ただ見棄てたように。その四月の日、もちろん存命だったヴーへの挨拶を済ました私をフエは引き連れて、奥のキッチンに入って行ったとき、親族の二三人の、食事の準備に追われていた女たちは嬌声をくれた。…あら。
anh
ハンサムさんね。
đẹp trai
月並みで、当たり障りのない、新郎に対するありふれた嬌声。そして、外国人に対する気遣いと媚び。および、眼差しの中での、彼が同人種でないことへの明らかな差別あるいはそれ以前、警戒以前の、繊細で隠しようのない断絶。それに、孤独を感じさせる隙さえ与えない、そんな、やさしい意図されざる遮断。
クイの家にあふれかえった女たちはみんな太っていた。肥満と言う、漢字にすればいい意味にしかならない言葉のもともとのニュアンスを感じさせた。彼女たちは食うには困っていない。つまり、私たちはそれなりに幸せなのよ、と、その、腹のふるえる脂肪が耳元にささやく。…痩せてるわね。
anh
食べてるの?と、
ốm
痩せ身の私を
nhỉ
見い出した彼女たちはきびすを返してフエを責めた。男が細身であるのは、その男を所有する女の責任なのだ。フエはすねた顔をしていい訳じみた戯言をつぶやき、その時にも、一瞬、振り向いたわけでもない無意味に彷徨った眼差しの端に、階段から下りてきたその人翳はふれた。
振り向いた先、逆光の中の階段の端に、マイはいた。日陰に一瞬たたずんだその女は私をすでに見留めていた。華奢なフエに見慣れた眼差しには、あきらかに匂うような女じみた気配を、その、捨て鉢に質素なTシャツとショートパンツに覆った体からだけ無造作に撒き散らして、眼差しは非難するでもなく私を見つめ、…誰?
と、
ai
その一瞬に曝して仕舞った赤裸々な戸惑いの刹那だけが、私がそのとき彼女に表情を見た唯一の瞬間だった。女にとっては、不意に寝込みを襲われたようなものだったのかもしれない。
いかにも日本流儀を装って、頭を下げてみせた私を、女はひとめで外国人だと了解したに違いない。すでに、垣間見獲た表情は跡形もなかった。彼女は、何かを察知する前に、すでに、戸惑うことなど投げ棄てて仕舞ったのだった。私の体の翳で、フエは彼女に背を向けたまま自分に群がった女たちに媚びた戯れ言を撒き散らしていたが、…誰?
言った私に、何を言っているのかわからない眼差しをくれた。フエは、上目遣いに、ごめんね。
Anh à
わからないの。
nói gì. Em
ほんとうに、ほんとうに、…ね?
không
なにをいってるの?
hiểu...
マイは、
Anh
私をも巻き込んだ集団には
hiểu
目も
không ?
くれないままに、水道の蛇口をひねって、グラスに水道水を取り、そして、迷うことなく飲み干した。
一気に。
見つめたわけでもない眼差しの中で振り上げられ、曝された彼女の喉仏が鮮明にうごめいて、喉に飲み込まれる水の気配。不意に、私は気付くのだった。このあたりでは、それは普通ではない仕草さであるはずだった。だれもが、ミネラルウォーターか沸かした水を飲むのだから。その何と言うことのない仕草さが、異国の彼女のたちの眼差しに与える意味合いを探ろうとしたものの、そもそもマイのことなど認知しようとはしない彼女たちの眼差しにそれを探り出すすべはない。
振り返った女は、私を見つめた。ややあって、眼差しが言った。…あら?
Làm
いるの?
gì ?
私は微笑んでやるしかなく、すぐに、何を思い残すわけでもなく彼女は立ち去る。
残酷なものを見た気さえした。造型としては、彼女は人種的な美感覚上の差異以前に、調って、美しいといって遣らなければならないはずのその顔に、一切のこびへつらいがなくなって仕舞えば、それは無残な骨格表本の異物感をしか曝さない。気付かされなければならなかった。美しさとは、結局は誰かに対する媚にすぎない。その事実がなにを明かすのかは判らないままに、なにか、容赦もなく残酷な気がした。
マイ、と、思い出したようにフエが唐突につぶやいたとき、私を見あげた眼差しがまぶしそうに輝き…ね?
anh
眼差しが、
có
知ってた?
biết
つぶやく。彼女の口にした
em
好きよ。
yêu
言葉とは
anh
無関係に。マイという、
không
その聴きなれた二つの、あるいは、ベトナム人にとっては一つの音に、単純に舞、と、
まい
ありふれた日本人名を想起して、ふと、私は笑って仕舞いそうになる。そんな知り合いなど、私にはいない。
かすかな、私の心の騒ぎを感じ取りもしないままに、…好きなの。言葉に淫する。フエは、
あなたは
ひとりで、自分の
わたしを
言葉に。
見ています
眼差しの中に。
いま
娘の
あなたは
タオは母親よりははるかに世慣れていた。まともに言葉をつぶやくことさえ出来ずに、はにかんで、
わたしは
いかなる挙動にも
あなたを
もたついて見せた、そのときの
見ています
タオは。
いま
見ているほうが
わたしは
恥ずかしくなるほどの、どうしようもない無様さを、そのもたつきは私の眼差しに曝した。彼女がはじめてふれる外国人、すくなくとも、日本人だったには違いない。そして、あの、彼女が気を遣ってばかりいるフエが連れ込んだ男なのだった。
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