小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑰ブログ版
ザグレウスは憩う
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ
Ζαγρεύς
ザグレウス
タオは母親よりははるかに世慣れていた。まともに言葉をつぶやくことさえ出来ずに、はにかんで、
わたしは
いかなる挙動にも
あなたを
もたついて見せた、そのときの
見ています
タオは。
いま
見ているほうが
わたしは
恥ずかしくなるほどの、どうしようもない無様さを、そのもたつきは私の眼差しに曝した。彼女がはじめてふれる外国人、すくなくとも、日本人だったには違いない。そして、あの、彼女が気を遣ってばかりいるフエが連れ込んだ男なのだった。
未だに8歳になるかならないかだったタオをひざに抱いてやったフエの上で、タオは後ろを向いてぐずつき、フエは、その若い、柔らかに伸び放題の、髪の毛に埋もれながら私に微笑みかけた。
誰にも放任されていたマイは、葬儀に集った集団の中で、自分勝手につまはじき者の自由を享受していた。丸テーブルを囲んだ男たちと、彼らに時に絡みつくように座ったその妻の疎らな点在は、雪崩れを起こして順にその眼差しに、不遜で不埒なマイを見留めたが、彼女に対してなにも非難の言葉など口にするものなどいない。…元気か?
Xin chào
久しぶりだな、
Khỏe ?
と。
どうして
そんな当たり障りない言葉さえ、吐いたのは
あなたは
眼の前のアンだけだった。アンは、
わたしを
自分を見向きもしないマイに、むしろ
見ていますか?
親しみをこめた眼差しを捧げて、その意図の明確さなどありうべきはずもないままに、いつか彼女をひとりで擁護していた。
フエは、私を見つめていた。…ねぇ。
あなただけを
私の背後を、
見つめています
幸せなの。…ね?
あなただけが
マイが通り過ぎていく瞬間に
見つめています
知ってた?
わたしだけが
匂いたつような女の
見つめられています
息吹きがした。体臭が、と言うよりは、その
あなただけが
肉体自体が、哺乳類として
見つめていました
自分の性別を
わたしだけが
あからさまに、墨から隅まで
そして
自覚したまま、マイは
かなしい
それを
わたしは
顧みもしない。あきらかに、
かなしい
と、
肉体は
想う。
つぶやく
終ってる。
その
私は。
固有の
彼女は
言葉をだけ
すでに
見つめられました
女を
あなたは
やめてしまった。
わたしを
気付いた。確かに、タオがいるのだからその時はあったには違いないが、もはや彼女の女性は死んでいた。本人自身、生きている自覚があるのかさえ定かでは無い気がした。彼女はそこに生存していた。生存と生きることは違うのだよ、と、蘇った人殺しの賢者ヴーが耳元でささやく気さえした。すでに、…と。
彼女は。
ヴー。戦場で何人も殺戮したヴー。時にその同国人さえも。みずからが銃口を向け、硝煙の匂いに身を曝したのは、八月革命以降の数年間の中の、ごくごく短期間にすぎなかった。彼は兵の作戦本部にいたから。ヴーは過酷なほどに賢かった。彼の作戦は、自軍の犠牲を強いることもあったが、挙げた戦果のほうが多かった。彼の企画と指揮と判断のもとに、多くの大量殺戮が実現した。彼は英雄だった。彼の子供だって英雄だった。クイは。仮に、クイが英雄でありえた根拠が、単なる自分の不注意のせいで、カンボジア戦役の戦場にその顔の半分を失って仕舞っても生き残っていた、ただそれだけの故に過ぎなかったにしても。
アンがマイに振ってやった手が、行き場所をなくして一瞬、空間に停滞し、やがてはなしくずにその、短く刈られた自分の頭髪をなぜた。その頭髪が、かすかな汗に濡れているのは知っている。暑い。
晴れた日の温度が、大気の中に充満して人々を温め、集った無数の人間たちの生産した体温と人いきれがさらに、いよいよその温度を鼓舞し、充溢させる。
フエの体さえ、かすかに汗ばんでいるに違いなかった。
奥から駆け寄ってきたヴァンは白装束をはためかせ、珍しくマイに微笑みかけて、その盛んにかける嬌声はただほほえましい。振り向きざまにマイは、ヴァンをひっぱたいた。
ふれないで
逆光とは言獲ない、横殴りの
わたしに
陽光が、それでも
見つめないで
二人の半身を翳らせて、その
わたしを
明確な形態を一瞬
見い出さないで
私の眼差しから
もはや
奪いさえしながらも、
わたしをなどは
見つめた。
あなたは
私は。
もう
彼女たちを、
決して
息を殺すわけでもなく、…いや、と。
想う。
見つめている、とは言獲ない。ただ、と、私は、見つめるしかなだけだ。想っていた。そう私は。そしてその、眼差しが見い出しているなら、それを、と。想った。見つめるしかない。…と。
想う。
私は、そう。人々はあえて、声をは立てなかった。その大半が、不意の娘の暴力に気付きながらも。不意に、それぞれに、自分が何をするべきなのかわからない空白に、人々がとらわれて仕舞っていたのに私は気付いていた。
もはや肥満した巨体を、ヴァンはうち震わせながら、
ときに
あられもない少女じみた茫然自失を曝し、…ね?
人目に隠れて
おびえた眼差しだけが
ぼくたちは
なに?
キスをした
つぶやく。
覚えていますか?
言葉さえなくむしろ赤裸々に。マイの眼差しには憎しみもなければ、軽蔑も、いかなる欲望、例えば暴力への、破壊への、そんな嗜虐の匂いさえないままに、ただ、振り返ったその一瞬だけヴァンを見返したに過ぎなかった。
何の名残りもなく、立ちつくして、おどついているしかないタオを先導すでもなく表の日差しに直射される。熱帯の、熱気にだけは不足しない日差しがじかに、その、褐色の肌を染めて倦まない。
アンが声を立てて笑ったので、人々はアンに従った。なんでもないことだ。そんなものなのだ、と、いまだにその衝撃が収まらないヴァンの、我を忘れることさえ出来ないでいる戸惑いと驚嘆を、駆け寄った女たちは慰めて、人の肥える60ばかりの男が囃し立ててヴァンの肩を抱き、男の指に挟んだままの煙草が煙を建てる。
楽団の音楽はやまない。
マイは、立ち止まったまま、ほんの数秒、日差しを浴びた。すぐに右に折れ、バイクに乗りもせずに歩き去っていく。大方、なにか食べにでも言ったに違いない。主幹道路を渡ろうとしたミーの、無造作な通行に、かわしざまにバイクがクラクションを鳴らした。周囲を見回し、タオは、瞳を震わせながら思いあぐね、祖母にすがろうと一瞬、踏み迷ったとに、ややあって、彼女はフエを見つめた。
好き?
私を見つめ続けていたフエ。
あなたは
タオが、踵を返し、走って
わたしの
母を追う。…いいのよ。
好きなものが
フエの、
好き?
もはや
あなたは
微笑みさえしない眼差しが
あなたの目にした
気にしないでも。
すべてが
つぶやく。私に、
好き?
…もう、
あなたが見い出した
と、彼女の
わたしの
終って仕舞ったことだから。
すべてが
眼差しを
好き?
見つめることを
あなたは
…ね?
強制しもしないままに。
行こう、と言ったのは私のほうだった。長居しすぎた気がした。どうせ夜も来るに違いなかった。一週間くらい続く、その毎日の葬儀の語らいの日々、最後の日の早朝の埋葬が終るまで、不在のヴーは好き放題親族たちを集め続け、無意味な会合は深夜にまで続けられ、ずっと。
太鼓は鳴って、銅鑼が鳴る。線香が立てられて、煙をあがり、ずっと。
時に奥の階段を上がった一番上の、あの日当たりのいい部屋でチャンが叫ぶ。忘れた頃に。楽団は音楽を奏で続け、その、聞き耳さえ立てられない垂れ流しの音楽はすでにだれにも忘れられていたに等しい。ものめずらしげな異国人の私にだけ、ときにその、空間に消えていくしかなく音楽は、看取られながら。
フエは、私に贖わない。葬儀に倦んだわけでも、持て余したわけでも、いいたたまれなくなったわけでもなく立ちあがった私に。…いいわよ、と、微笑まれた眼差し。貞淑な妻は夫にはただただ従順に微笑んで従うものだ。
なぜなら、夫は妻のためにだけに生き、妻のためだめに死に、妻の幸福のためだけにすべてを捧げなければならないのだから。…と。
その東アジア流儀の、女の貞淑の倫理と論理的根拠。
微笑む私に手を差し出して、私はフエの手を取ってやり、アンに微笑み返すと彼は、行けよ、
Đi chơi
その、振り上げた右手が行った。…ふたりで、どこか行って、愉しんで来いよ。
Anh
フエが、
đi chơi
周囲の眼差しに私を誇示した。ほら、…と。これが、私の幸せのためだけに死んでいく男よ。どこへ行くの?と言ったフエに、私がどこへ行きたい?そう、問い返すと、フエは一瞬考えて、やがて、言った。…任せるわ。
とはいえ、褐色の肌を十分以上にすでに曝しながら、執拗に日焼けを嫌ったフエのむずがりを笑いながら、私たちは海に向った。海に行くのは久しぶりだった。すくなくとも、海を目的として、そこに行く事は。
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