小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑮ブログ版
ザグレウスは憩う
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ
Ζαγρεύς
ザグレウス
彼女たちの秘密を、クイはだれにも打ち明けたことはなく、その気もなかった。すべて、すでに終って仕舞ったことには違いなかった。少女たちが戯れに奏でた物語は、その当然だったかも知れない結句を鳴らした。チャンは
わたしは
壊れた。壊れるべき女だった。すでに
かなしい
壊れていた女が、産んだ女なのだから。クイは、
あなたが
結局は一日たりとも忘れることの出来なかったあの、
ここに
ヴィーを、すぎさったときの中に
いないから
懐かしむわけでもなく、現在の時間のうちに、ひとり、想った。
フエを取り巻いた女たちは、フエを引きとめようとしていた。群がったそれらの口がクイへの、歎きとともに罵りあうような非議の声をさまざまに喚き散らすのを耳に聴き、眼差しは捉えて、女たちは言う。警察が連行して行き、フエが自白さえしたのだから、彼女がチャンを壊して仕舞ったに違いないと、証拠も必然性もないままに確信していた近親の女たちは、口々に駄目よ、と、その無造作な短い言葉の、
Không được
長短のヴァリエーションを口々に口にし、
駄目よ
クイにさえときに食って掛かれば、クイは
彼女が、…
女たちに
壊されて仕舞うわ。こんな
倦む。好きにしろ、と、
日差しの中で
クイが
壊れて仕舞うわ
言いかけた瞬間、
ふたたび
沈黙のうちに
出会って仕舞えば
彼女たちの
彼女は
言葉に
壊されて仕舞うわ
耳を傾けていたフエが、
彼女が
…いいのよ。
Con
フエは言った。
muốn
あの子に、逢いたいの。
gặp
まばたく。フエは、…だって、と。
bạn
友達だから。
tốt
女たちはフエのけなげな決断に従うしかない。クイが連れ込んだ、頭のおかしな穢らしい女の腹のチャンは、ああなってみれば家族の一員として認める必然性など、近親の女たちにはもはやありはしなかった。面影を、母親に似せてはいてもクイには、面影げさえも似させ獲はしなかったチャンが、クイ自身が主張したようにクイの種であることなど覚束なかった。クイが連れて帰ったときには、逆算すればすでにヴィーは三ヶ月程度の身重だったはずだった。クイの語る物語とはつじつまが、どうやっても合わなかった。
女たちはそれでも、単なる日常の業務としてチャンの看護には通ってやったが、なされるべき看護のその大半は医者たちの仕事だったはずで、女たちは単なる暇つぶしの時間を過ごしながら、二日に一回病院を、誰かが着替えさせてやりに訪れたに過ぎない。チャンは稀なタイプの患者だったから、病院の人間たちはすぐにチャンの許に通う女たちの顔を覚え、女たちに同情をくれた。歎きを同調させ、寄り添わせ、それさえもが、女たちには屈辱にすぎなかった。ヴァン以外をのぞいては。ヴァンだけは、毎日、用もなく頻繁にチャンの傍らに通い続けた。かならずしもチャンの身辺のなにかの世話を見るわけでもないくせに。
いずれにせよ、女たちは英雄クイには従うしかなかった。
クイの運転するバイクの後ろにヴァンは乗り、フエは自分のバイクで、先導するクイたちを追った。
町は荒れていた。再開発のために買収されて、更地のままの放置された土地がいたるところに点在して、開発された高層ビルと未開発のあばら家が残酷な対比を作った。社会主義のこの国の、それなりに喰えないわけでもない人々の集まりに過ぎないこの小さな海辺の町で、むしろ、そこに隠しようもない階層的な、埋め難い格差でも存在しているかのように。こんな、海しか誇るもののない田舎町にはいまだに、そんなもの存在し獲はしないと言うのに。ドイモイ政策以降の工場地開発にあらされた周辺の田舎町と違って、はやくから観光地として企画されていたダナン市は、華やかになって行きこそすれ、すさんでいきはしない。華やいだ区画と、それに隣接する従来区画が、あきらかな賃金格差をさえ眼差しのうちに暗示したが、そこに住む人々は、そのどちらにも似たような階層の、似たような人種たちが住んでいることは知っている。むしろ、華やいだ新手のビルに買い叩かれて、着慣れないスーツ姿や制服姿で働いている人間たちのほうが、あきらかに貧困してさえいた。たかが50万ドン札数枚の違いに過ぎないとは言っても。
新たに整備された主幹道路が、手入の行き届かないでこぼこの路面を曝し、フエたちは湾岸道路を走った。町の外れの開発地の、更地の真ん中を尽きた主幹道路に面した国際病院にまでは、それなりの距離があった。
横殴りに、あるいは真正面からぶつかっては通り過ぎていく風圧に、そのまま潮の匂いがうつる。ひたすら生き物臭く生々しいだけの、どこか穢れた匂いの、それでも潮の匂いが瑞々しく感じられるのはなぜなのだろう。そう、フエは意識のどこかで訝り、運転のこなれたクイに引き離されないようにするのが、彼女の精一杯だった。
海辺に、正午に近づいた日差しがゆっくりとその光沢を、海に投げつけ、椰子の木と雑林の向こうに、浪はきらめく。
青い色彩を、破壊し裏切って仕舞わずにはいない、その同じ海が放った浪打ちの白い、その色彩を失ったきらめきが、海の全面を遠くまで覆って、海はその視界の果てで、いつかそのきらめきそのものに飲まれて細く長い白濁の光をだけ曝す。
やがて躯体を並木の向こうに顕した国際病院は、日差しの中に白壁を反射した。周囲には更地の広大すぎる拡がりと、主幹道路に並んだ申し訳程度の並木しかない。そして、遠い蒼霞んだ山陰以外には。
病院の、ほぼ満車の駐車場に、フエは想わず戸惑いて仕舞う。その、広い駐車場いっぱいを埋め尽くしたバイクのむれに、よくもこんなに病人がいたものだと想い、確かにそれらはひとりの病人たちの数人の近親者たちの止めたバイクには違いないにしても、この国がいまだに戦争中ででもあるかのような錯覚が目醒める。いつか聞いた銃声。
耳の至近距離に。想いだす。
転生のかつて、軍用中を構えた瞬間の、さまざまな集積、匂う。硝煙の匂いさえ。かつて生きられた時々に。不意に突入が命じられ、その少尉に従うものは居なかった。
それが明確な判断ミスであることなど、彼らはみんな知っていたからだった。
かたわらのゴックNgọcの頭を、銃弾が吹き飛ばし、至近距離にかさなった弾道が頭の脇の空間を灼く。勝ち残るすべなどなかった。ゲリラの一個小隊のぐるりを、無数の敵の集団が取り囲んで仕舞っていたのだから。逃げ道さえも見つけようがない。土に、もぐらのように穴でも掘らないかぎりは。
焦げた空気がにおった気がした。勇敢な兵士とは、と、彼にカンCảnhは言った。かつて、恐怖を知る兵士のことだ、と。
彼は。
臆病かつ卑怯であればあるほど、お前は生き延びられ獲、そのぶん大量の相手を射殺する事が出来る。
彼は身を伏せて、弾道の匂い嗅いだ。匂いの先に打ち込めば、誰かを射殺し獲、射殺し獲れば、生き残る可能性が広がる。彼が頭の中に、いつか反芻しつづけたそれらの訓育の言葉をもはや嘲笑いながら、発砲の煙幕と、空を切り、灼く、弾道の叫喚は周囲を満たし、カンが死んだときもこうだったのだろうかと想う。
たんなる衛生兵のひとりに過ぎなかったかつての彼が樹木の根元に発見した、おなじ衛生兵のカンの血と泥に穢れた、尊厳も何もなくただただ穢い顔は、冗談のようにびっくりした顔のままに固まりかけて、あけっぴろげの口の中は泥水を咬んでいた。あの、雨期の戦闘の時の、次の日の晴れ上がった朝日の下に。死んでいく。
彼の周囲に人々は死んで行き、とはいえ、血の、あるいは吹き飛んだ肉と内臓と匂いさえしない。ただ、硝煙の匂いだけに、体中穢されていく。
彼は諦めることにした。死んだ振りをして、死体をかぶった。卑怯であればいい。生き残りさえすれば、今まで殺したよりもっと多くの人間を殺して仕舞える。戦争を終らすもっとも早急で間違いのない手段は、相手を皆殺しにして仕舞うことだ。政治など銃口を向けられた兵士に関係ない。そんなことに気を取られた隙に、流れ弾さえもがたやすく彼らを破壊する。殺して、生き延びること以外に、倫理も正義も在りはしない。
そして彼は戦場が好きだった。憎み、一日も早くこんな場所を棄てて仕舞いたかったが、ここを離れて生きて行く自信はもはやなかった。すべてがあきらかで、切実で、嘘がなく、美しかった。強烈な愛を、戦場はいつか喚起していた。その巨大な魅力に抗い獲るものなどいはしないはずだと、彼は想った。その魅力にふれない類の人間は、戦場には存在ない。そんな人間など、すぐに死んで仕舞うから。向こうの森を、空からなだれこんだ米軍のナパームが焼いた。
狡猾に、生き延びることを選んだ彼を発見したのは、敵方の衛生兵だった。死体を検査していたその米兵が、死体の下で、打ちつける雨期の雨に震えていた彼を発見したときに、その大作りな口があげた素っ頓狂な悲鳴のような、怒号のような声を、彼は頭の中に反芻するしかなかった。寒かった。気温の生暖かさの中に目醒めた雨水の冷気がいつか、彼の骨の内側をさえ冷やしていた。男が連れてきたお偉方の米人が、衛生の兵に無理やり立たせられたぬれねずみの彼をサングラス越しに見やった時に、勝てるはずもないと想った。彼は痩せていて、お偉方の米人は肥満している。無理だ、と。なにもかもが無理だと彼はひとりで想い、そして、そもそもが、どちらが勝とうが所詮は、形成されるのは同じベトナムという名前の国家に過ぎないことなど知っている。その内実がいかなる差異を含もうが、その名前に差異など在り得ない。笑うべきなのは戦っている自分たち自身だと、容赦のない悔恨に苛まれた。
米人が不意に振り返って、無意味に、そして義憤にかられたように彼を殴りつけたときに、彼が感じたのは違和感だったにすぎない。なぜ、それだけですまして仕舞うのだろう。俺は、君たちの数十人以上を殺して回ったというのに。あるいは、もっと。彼は、ややあって、脆弱で、理不尽な米兵たちを哀れみさえした。森林地帯は、未だに、手付かずのままの戦死者の群れを無造作にはべらし、灼けた、硝煙の匂いが風化しながらその名残りを充満させていた。
言葉を失った。
フエは、そのとき、眼差しにふれているものに。一瞬、包帯のように見えたゴムバンドがベッドの上、あお向けたチャンの身体をぐるぐる巻きに拘束し、鼻から上をぐるぐるまきに覆った本当の包帯との明らかな質感の差異が、それが彼女を拘束し、彼女からそれ以上自分を痛めつける自由を奪うためだけに捲きつけられたにすぎないがんじがらめの拘束帯だったことを、フエの眼差しに教えた。
口は拡げられて、はめられた白いゴム製の猿轡がその顔の形態をゆがめ、ひん曲げられていた。よだれを好き放題にたらしながら、チャンはときに身体を痙攣させて、フエは、彼女が看護されているものだとばかり想っていた。フエは、やがて、彼女がただ拘束され、虐待されているにすぎなかったことに気付いた。
頭をまで覆い隠した包帯が、いびつなほどに大量に捲き付けられて、チャンの顔はいつのまにピーナッツになって仕舞ったのだろうと、不意に笑いそうになったフエに、フエはもはや戸惑うことさえ出来なかった。
フエは、崩壊したチャンを見つめた。悲惨な、重症の傷ましい姿を曝しているものと想い込んでいた。悲惨には違いなかったが、その悲惨さの質の、予想への容赦ない裏切りが、フエから言葉と感情を奪い去り、フエは見つめる。目の前にあるものは、単に滑稽ななにかの出来損ないにすぎない。死体の群れ。
クアン・ビンの集落を襲撃したサイゴン政府か、米軍だか、韓国兵だか中国兵だかなんだかの、蹂躙の果ての煙を立てる粗末な集落。焼け出された女が身の不幸を歎いた。宗教じみているわけでもないくせに、ときに天を仰いで大袈裟に、胸を掻き毟るように、…黙れ。想った。
Im đi
彼は。
Chị ơi
お前だけではなく、ここでは
Im đi
誰でも彼でもそうなのだから、少しは静かにすればいい。あるいは、と、
Keep silence
想う。死んで仕舞えば。彼は、そう
in the
想った。つつまれる。
silent
彼の
place
眼差しの中に、すべての残骸の群れが、その細胞の、分子の、粒子の、電子のすべてをまでも、光につつまれて仕舞って、そして知っていた。
彼は、神々の光。それら。
ふれる。ふれるものすべてを救済しようとする神々の光が、その…光。明確な意志の切迫を、いつものように曝しながらただ、…光。万物にじかにふれていた。…黙れ。
想った。ただ、自分が生み出したわけでもないそれらのものすべてにふれ続けるだけの神々の光。ふれるものすべてを救おうとする意志ある光。
ほら
光を放ちさえしない光の群れが、空間を
あなたは、いま
満たして、家族を皆殺しにされた
救われた。いま
その、いまだに
あなたは
性別さえ定かではない幼児が
まさに
どろだらけで、ふらつきながら
救われた
土の道に
あなたは
彷徨う。
強姦された女が焼け崩れた家屋の影で、日差しを避けていた。引き裂かれた衣類から剝き出された肌に、あわく翳った日陰の明るさがふれて、その肌、褐色の色彩。…光。
生き物の色彩。…光。もはや。
すべてのものにふれる光。
老人が彼を罵った。何をしているんだ。
…と。耳元に口を寄せ、その老人。
集落の全滅を、お前らは知らなかったというのか。
干からびた皮膚の深く刻む皺。
能無しども。
吐かれる息。
すべを見殺しにした。
老いさらばえた内臓の臭気。
老人には片方の目がない。
燃え上がった村。樹木が匂う。昨日雨が降った。今朝方まで。光が、日の光、それさえもが、未だに濡れた森をにおわせ、匂う。村を焼いたガソリンの匂い。爆弾の、そして水気の中に巣食ったままの硝煙の匂い。彼の背後で立ちあがった女が、不意に太ももをさすりながらよろめく。たっぷり愛されたに違いない。むしろ子供を生んで仕舞えばいい。その親族たちを殺し、村落を崩壊させた男たちの破壊の遺伝子さえ身に纏い、そして彼らへの憎悪さえ添わせてやれば、少しはお前たちより強い子どもができるに違いない。それが嫌だったら、いまこの瞬間に死んで、滅びて仕舞うがいい。むしろ、と、彼は想う。絶望などない。どっちが勝ったところで同じことだ。ベトナムはベトナムだ。それ以外の問題は、権力者と外国人たちの問題に過ぎない。知ったことではない。…光。
戦場にその顎を吹っ飛ばした彼の友人タンThanhの血まみれの顔にさえ、光はじかに触れていた。三日前に。彼が手榴弾に吹き飛ばしてやった韓国兵の引き千切れた四肢にも。知ったことではない。…光。
神々は、
朝、起きたとき
その憩いのやわらかな光のうちに、
わたしは
すべてを
すでに
救済しようとしていた。
救われていたことに
まばたく。
気付いた
フエは。
0コメント