小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑭ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス

 










アンがその体を綺麗に拭きあげてやって、そして髪の毛はいまだに濡れたままに、フエのちいさな寝室のベッドに横たえさせた、そのフエを棄て置いて、アンはどこかに出て行った。仕事に行ったのか、あるいは飲みに、またはカフェにでも。立ち去り際にアンが投げた、ただ、眼差しに映るものすべてを歎いたとしか想い獲ない眼差しを、フエがその眼に確認する事はなかった。フエは見い出していた。ブーゲンビリアの花々が停滞する。

眼差しのうちに。

自分勝手に、好き放題に華やいだ、色づく芳香をいっぱいにたてて、その無際限な空間の拡がりの隅々をまで満たした美しい、花々の

わたしは

停滞。

ふるえる

彼女はもはや、

咲き誇る

それらに

花々の

手を

影に

触れようともしない。そんなこと、出来ないに決まっているのだから。

私の

ふれられるものどもはや

心は

なにもなく、ふれたことなど一度もなく、

音もなく

ふれられ獲る可能性など

咲き誇った

わずかたりともありはしない。彼女の

花々の

眼差しは、あるいはもはや、

失心したあとの

あざやかな

その

鮮血を

かすかな

流すしかない。時間など嘲笑った、その

影の

逆流さえして仕舞う遅延の

ささやかな

速度の

いくつもの

うちに。

ゆらめきの

花々は

うちに

憩う。永遠の、なにものもさわるもののない時間のなかに放置されたそれらは、ただ好き勝手に憩って果て、そのとき、最期のときに、フエは言った。…好き?

Em

アンに。

yêu

彼も、すぐに

Không ?

自分自身を破壊して仕舞うことなど知っていた。…好き?

Em

なにが?と、音声として

không

つぶやかれもしなかったその

yêu

言葉を

Không ?

聞き取れないアンのかわりに、彼がつぶやくべきだった言葉を頭の中に反芻してやり、その連鎖。

そしてアンは聞いていた。死にかけた姉が喉に立てた、いぶつな、死にかけの猫が立てたような甲高い、無意味なながい音声の不吉さを。すでに霞みかけた、死にかけの意識の中に。

アンは気づいた。眼をそらすことはできても、耳はそらせるようには出来ていない。それは、いま、アンにとっては在り獲ない残酷劇の仕掛けである気がした。

なんという、と、アンは想う。でたらめな失敗作なのだろう。人体は。

もはや、まともに、思うがままに機能する器官など、どこにも存在しては居ない。すべては、為すすべもない機能不順か過剰か不足か不可能性を曝し、暴き立てるしかない。…失敗だ、と。

すべて。なにもかも。容赦もなく。…せめて、と、想う。もっとやさしい声を立ててくれ。アンは。そんな、…と、アンは想った。不吉な、怒りと恐怖に苛まれた猫の立てた夜中の庭先の声のような、と、彼は、フエに、想う。声じゃなく。…お願いだから、と、その、想い。想う。アンは、もっと、と。…やさしい声を。…好き?

Em

反芻され続ける、その

yêu

何が?

không ?

声が、無際限に連なりあったその先に、死、…終に、

em

私は、…フエは、死に絶えるに違いないと、彼女は

yêu

いつか

ai

確信していた。

Em

機能をなど

yêu

失った表情が、顕すことなどもはや

nào

不可能だった以上、だれにも

em

顕されなかったただ、やさしい

yêu

いつくしみの微笑を、もはや

なににも恥じることなく曝したままに。

眼の前に座っていたアンが、想いあぐねたように身をそらしたとき、フエは奥から、群れなした人々の一群の中に見つけ出した私の傍らに、座った。楽団の、ふしの長い弔いの音楽が、なんどもなんどもあてどのないつぶやきを繰り返す優柔不断を想わせて、そして、それが耳に大音量で流れ込む。人々の話し声は、自然に、

ぼくたちは

罵るような大声にならざるを獲ない。

話す

フエは唐突に、初めて

ぼくたちは

アンがそこにいたことに気付いた。それは

離す

明らかだった。…あ、

ぼくたちは

と、

放す

かすかに眼差しは

ぼくたちは

おののきさえして、感情になりきらない心情の揺らめきに

手放す

飲まれて、一瞬

ぼくたちは

我を忘れ、フエは

手を放した

声を立てて笑った。アンは

君の眼を

眼を

見つめながら

そらした。

確かに、ふたりが顔を合わすのは久しぶりだったはずだった。親戚のティエンThiênの家に棲み着いて、アンはもはやまともにフエの家に寄り付かなくなっていた。…ひさしぶり。

元気?と、当たり障りのない会話を交わす自然さは、姉弟には許されていなかった。話されるなら、そんな、なにも話していないのに等しい月並みな挨拶の不自然さに塗れるわけには行かず、さりとて、とりたてて唐突に話し出されるべきなにをも共有しない彼女たちは、あまりにも不自然な、居心地の悪さを曝した沈黙に耐えるしかなかった。

人々の話し声が渦巻き、彼女たちの沈黙を覆い隠したが、望む望まないにかかわらず、ときにそれらの会話の群れにかかわらされて仕舞いながらも、彼女たちの不自然さは、彼女たち自身にだけは、どこまでも鮮明に意識されているままだった。フエの眼差しは瞬き、あの日、クイは言った。…一緒に行かないか?と、クイは、

どこに

拘留を解かれて始めて目にするフエに、

花は

やさしく

咲いているの?

そのまともな片面に微笑み、その

あなたが

片面に

愛した

冷酷で破壊的な

花は

表情の喪失を浮かべながら、

行かないか?

そう言ったクイに、フエは

一緒に

想わず声を立てて笑いそうになったのを、

わたしと

必死に

一緒に

堪える。クイほど

行かないか?

馬鹿正直な男はいないのに、その戦場の凄惨を刻んだ顔は、容赦なく彼の残酷な二面性を暗示した。

端整な微笑と、冷酷な骨格の残骸。むしろ、と、フエは想うしかない。その顔は私にこそふさわしい。

だれからも、フエほど清楚でつつましい女などいないと言われたものだった。ヴーが重宝していたある僧侶は、観音の生まれ代わりだと、十二歳のフエを名指した。…みんな、

everybody

知っているか?

check it out

この子は別の惑星から来たんだよ。ヴーの弟の葬儀のとき、その雑談のうちに。それは単に、清楚可憐さを表現するのに身体的に長けていたフエの無意味な仕草さのひとつひとつに惑った、ヴーに比べても二、三歳年長だった僧侶が、戯れに言った、あきらかな戯言にすぎなかったとしても、言って仕舞ったことは言って仕舞ったことだった。僧侶は、それを取り下げるわけには行かず、取り下げる気もなく、自分で自分の戯言を、彼女に対面したことあるごとに周囲に喧伝して回った挙句に、いつか彼はその想いつきを啓示された真実として認識していた。…いいわよ、と、つぶやく代わりに、フエは

O.K.

一度だけ

Đi

うなづいた。

フエは微笑んだ。クイは想った。なんて、…と、

どこへ

清楚な女なのだろう?想う。クイは、そして

行くの?

感じた。どうしようもない違和感。こんな

あなたは

女が、チャンを破滅して仕舞うなんて、と、クイは

どこで

想い、知っていた。彼女たちの、幼いころからの

なにを

戯れは。

見い出すの?

その戯れの果てに、チャンは

どこに

壊れて仕舞ったに違いなく、

あなたは

清楚なフエこそは、チャンを

辿り着くの?

壊して仕舞った張本人ではなくても、

あなたは

当事者であるには

いつ

違いなかった。

彼女たちの秘密を、クイはだれにも打ち明けたことはなく、その気もなかった。すべて、すでに終って仕舞ったことには違いなかった。少女たちが戯れに奏でた物語は、その当然だったかも知れない結句を鳴らした。チャンは

わたしは

壊れた。壊れるべき女だった。すでに

かなしい

壊れていた女が、産んだ女なのだから。クイは、

あなたが

結局は一日たりとも忘れることの出来なかったあの、

ここに

ヴィーを、すぎさったときの中に

いないから

懐かしむわけでもなく、現在の時間のうちに、ひとり、想った。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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