小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑬ブログ版
ザグレウスは憩う
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ
Ζαγρεύς
ザグレウス
アンは姉を見つめ、ややあって、不意に、自分がようやく正気づいたような気がした彼は、彼女を腕に抱いた。病んだように発熱するフエ。二十歳をすぎたばかりで野晒しに、長時間の直射日光に痛めつけられた挙句に、呆然とするばかりで意識さえ定かでは無い彼女が、正気づかないままに好き放題に投げかけた体重に、アンの腕は重む。女の体を抱きかかえた片腕に苦労して鍵を開けると、弟はシャッターを足にこじ開けた。日陰の中にはせめてのもの涼気があった。その、かすかな涼気が、日差しに熱せられ続けたフエの皮膚に、肌寒いほどの温度としてふれていることには気付いていた。想いあぐね、アンは自分の部屋のベッドに、横たわらせた。
意識を取り戻しているはずのフエの、いまだに焦点を取り戻せない眼差しは呆然とするばかりで、フエの意識が
まだ
そこに目醒めていることなど、アンには
生きています
認識できなかった。姉はいまだに、
わたしは
どこかに
ここで
好き勝手に
あなたの
さ迷い歩いているに違いなかった。不意に、フエが
そばで
呆気に取られた眼差しを
あなたに
一瞬だけ取り戻して、…ねぇ、
見つめられながら
言った。
…Em
あなたは信じる?
hiểu được không ?
アンがまばたく。私たちはすでに結ばれているのよ、と、
em
言ったそのフエの言葉は、彼女の
yêu
頭の中のどこかに
chị
遠い木魂として響いただけで、唇は吐き獲ない。眼の前に、アンが自分を見つめていることを意識した。
アンはあきらかに、彼女におびえていた。姉の不意の狂気の発作じみた意識の崩壊に。こんな、亜熱帯の陽光の、午後の直射に差され続けるなんて、と、アンは、死にたがっているのと同じことだ。…想う。フエは、その、おびえた眼差しに、あなたも想っているのね?
わたしが
あなたを
彼女を壊して仕舞ったのだと。いまや、
決して
すべての眼差しは自分を
わたしは
残酷で猟奇的な殺戮者だとして見つめることを、フエは
しないから
自覚し、確かに、と、
傷付けたりは
想う。わたしは
しないから
そうであるに違いない。
美しい花の
あなたたちが、そうだと言うのならば。
その
息遣うフエの、その
日陰では
かすかな音が耳の至近距離に鳴って、姉の内部を息をひそめて伺っていたアンは、そして…すでに、結ばれていた。つぶやいた。心のうちに。フエは、あなたはすべてを破壊しなければ気がすまないわたしと、すでに結ばれていた。体だけではなくて、なにもかも。
フエは想いだす。あなたはわたしを殺して仕舞うのね、と、ハンは言った。アンが、妹のホンもろとも引き潰して仕舞ったハン。即死したハンに比べて、四肢の大半が引き潰されていながらも、ホンはかろうじて生きていた。
すくなくとも、死んではいなかった。延命のために、辛うじてつながっていた、骨まで引き潰された左足も、切り離されて仕舞って、体中チューブだらけにして、人口的な延命装置につないでやる限りにおいて、なんとか生体機能をは確保していたその体躯は、死に獲もしないままに、その脳の損傷は深刻だった。
頭の中に、ホンHồngはすでに不在であって、いわば、完全に綺麗にデリートされた真っ白い、何のソフトも入っていない本体だけを曝していた。フエが、声をかけた、ホンのまぶたが笑った気がした。生きてるわ。不意に
Hồng
言ったフエを、病室、集中治療室の中で、ダットが
sống
見上げた。壁際の椅子に座りこんで、為すすべもなく携帯電話をいじっていたダットが。ホンの顔に、覗き込んだフエは、彼を
A rose
端見つめない眼差しの片隅に、彼の
still
気配を捉え続けていた。
livin’
…知ってる。
薔薇は
言う。娘は
まだ
生きているよ。まだ、
生きている
と、言ったダットの声を聴く。確かに、心臓は鼓動しているのだから、彼女はまだ生きているに違いない。この肉体は生きている。それは事実だった。それを、フエはいまさらに自覚し、不意の恐怖に陥った。
フエが、そのときに流した涙を、ダットはかわいそうな妹を哀れんだのだと想った。
アンはいちども病室には訪れなかった。もはや、アンは後悔していた。どうせなら、即死させて遣ればよかった。もっと、痛ましいほど残酷に、痛みなど一瞬たりとも感じられないほどに、引き潰して仕舞えばよかった。その、あざやかな悔恨を、アンはもてあそぶしかなった。仕事は中断させなかった。毎日の飲み会も、習慣づいた、朝の近親者とのカフェのコーヒーも。人々がアンを冷たく、冷酷な人間だと、その口には出さないままに、そう想っているに違いないことなどはすでに自覚していた。…彼は強いよ。そう、おちゃらけて、
Anh
ときに想い出したように囃し立てる近親者の一部を、アンは
Mạnh
軽蔑した。彼らは言った。この子はあんな事故を起こしても、びくともしないじゃないか。自分の
Anh
母親と妹だぞ。もちろん、悪いのは
khỏe
彼女たちのほうだったんだ。不意に飛び出してしまったんだから。この子は立派だ。
He is …
いつも想った。普通にしなければ生きていけない精神状態であることの、あやうい苦痛を、あなたたちは
I am ...
知っているのか。
自分がひき殺した母と妹のことは、アンは完全に無視した。母の葬儀は、悲惨な気配の中に進行した。呆然として、乱れるわけでもなく、つつましくずっと、もはやあざやかな微笑みさえ浮かべながら、人々の忌問の言葉を受けてやるフエのたたずまいは、ただただ痛々しいだけだった。だれかが死んだときに、いつも彼女の着る焦げ茶色の教徒服の上に、さらに白い皺だらけの装束をかぶって、フエは日陰にたたずみ、そして、なにも言わなかった。フエの曝す沈黙はむしろ暴力以外のなにものでもなかった。彼女に眼差しでふれた、その周辺に群がった人々にとって。その沈黙に殉じない、いかなるあたりまえの近親者の雑談をも、フエの沈黙は不届きなならず者として容赦なく処罰して仕舞うのだった。無言の、冴えた微笑みのうちに。人々はいつか、フエにならって沈黙するしかなかった。
アンが、いつものように、煙草をすいながら太鼓をたたき、そして、いとこのトンThôngがどらを鳴らした。祭壇の傍らに、持参された線香の束が山なった。…もういちど、と、フエが言った。半年近く経っていた。…なにが?不意に耳元にささやいたフエの声を、アンは聞いた。
髪の毛が匂った。美しいフエは、アンの体の上に覆いかぶさって、その夜、雲の気配さえない晴天の日の、明るい月の明かりがフエの寝室に侵入していた。なにもかにも、触れないでは気がすまない不埒さを、言葉もなくさらして光はあまねく、狭い空間を照らし出し、開け放たれたドアからいつか、忍び込んだベッドの下で、上のふたりの秘め事の気配をうかがった。
フエの体温が、自分の肌に移される、と、アンは想う。いつものように。お葬式を、と、先の言葉などすでに忘れて仕舞っていたながい沈黙のあとに、不意にフエが口にしたとき、アンはすべてを了解した。回復の見込みのないホンの延命装置を、外してしまったのに違いなかった。ホンは死んだ。あるいは、明日か明後日ってかの早々に、彼女は
召されませ
死ぬ。
わたしたちの
アンは
魂を
フエの頬をなぜた。
その
涙はなく、その
天の
気配さえなかった。汗まみれの
玉座の
フエの、体臭が
片隅に
匂った。当たり前のことだった。あんなにも、
哀れんで
直射日光に
召されませ
苛まれていたのだから。
いま
アンは、
わたしたちを
フエのTシャツを脱がせて、苦労して裸に剝くと、いまだに呆然としたままのフエを抱きかかえて、シャワールームに入った。
流れ出す流水に、ふれた瞬間にフエは
召されませ
一度、身体を
哀れんで
痙攣させた。まるで
召されませ
生まれてはじめて冷たい水にふれたように。自分も
どうして
素肌を曝した目の前のアンの、その
なぜに
体躯は生まれて始めて知った体躯であるかのように、フエの
見棄てたの?
眼差しに
わたしを
見つめられていた。フエは、
召されませ
眼差しがふれるあらゆるものに、もはや
哀れんで
驚きを隠さなかった。アンは
どうして
いつまでたっても取り戻せない、フエの
なぜに
体躯の中に巣食っているはずの、彼が知るフエを
見棄てたの?
捜し求めながら、その
わたしを
汗ばみ発熱した体躯を洗ってやるが、熱など
見なさい
水とともに流しきって仕舞おうとするひざまづいたアンの手付きは、
見なさい
フエに、あきらかに色気づいた愛撫としてのみ
見なさい
消費され、フエのおびえる身体は
何を?
かすかな震えをやめない。流水の
わたしたちの
触感、温度、それら
罪を
すべてが、フエをおののかせ、もう、と、アンは
召されませ
想った。すでに
哀れんで
彼女は永遠に
わたしを
壊れて仕舞ったに違いない。フエは、
その
何度目かに、抜け殻を残して滅び、
天の玉座の
破滅して、崩壊し、
片隅に
燃え尽きて仕舞ったに違いない。もはや、
召されませ
どこにも彼女は、と、…いはしない。想う。
アンがその体を綺麗に拭きあげてやって、そして髪の毛はいまだに濡れたままに、フエのちいさな寝室のベッドに横たえさせた、そのフエを棄て置いて、アンはどこかに出て行った。仕事に行ったのか、あるいは飲みに、またはカフェにでも。立ち去り際にアンが投げた、ただ、眼差しに映るものすべてを歎いたとしか想い獲ない眼差しを、フエがその眼に確認する事はなかった。フエは見い出していた。ブーゲンビリアの花々が停滞する。
眼差しのうちに。
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